第1話 静寂を裂く
冬の眠りから世界が目覚め、命が巡り始める季節――。とある村で春の訪れを祝う祭りの準備が進んでいた。
村から遠く離れた深い森の奥、人々の喧騒が届かぬ静寂の中、木々に抱かれるように佇む古びた石造りの家。
時折、風が枝葉を揺らし、森に住む獣たちの遠い声が響く。けれど、家の周囲だけは不思議と穏やかで、まるで外界から切り離されたような空気が漂っている。
――そこに、ひとりの少年が佇んでいた。
少年の名は、エズレン。
歳は十五――人間ならば、少年と呼ぶにはやや成長した頃合いだろうか。けれど、その瞳は年若い者が見せるようなあどけなさを持ってはいない。
エズレンは風に舞う花弁を見上げながら、指先に意識を集める。すると、体内を巡る魔力の流れが感じ取れる。
空気を裂くように、魔力が波打った。
――――来い。
意識を集中し、心で命じる。
瞬間、音が爆ぜ、青白い火花が散る。
指先から溢れた雷光は、空気を裂き、周囲の草を焦がした。
掌に力を込めるほど、魔力は暴れ、制御を拒むように四散していく。焦りを感じるほど、雷は荒々しさを増していくようだった。
「また、駄目か......っ!」
雷はまるで意思を持つかのように暴れ回る。魔力を制御しようとすればするほど、雷は反発するように彼の手をすり抜けていった。
「くそっ......!」
小さく吐き出された声に、苛立ちと諦念が滲む。
自身に魔力があることは、幼い頃から感じていた。身体の奥底で渦巻く力――それが常人の域を遥かに越えていることも、理解している。
だが、どれほど書物を読み漁っても、その力を思い通りに制御できたことはない。
「どうして、うまくいかないんだ...」
いくら心で雷を呼んでも、力は指先で弾け、掴みきれない。まるで自分自身を拒むように――
風に散った火花の残滓を掴み、少年は唇を噛む。
淡い金糸を織り交ぜた灰銀の髪が風に揺れた。深い青の瞳は、まるで嵐の夜空を思わせる。
だが、その瞳の奥には微かに金色の光が揺らめいていた――まるで雲間から射す一筋の陽光のように。
魔力を操る術は知っている。なのに、自分の内にある力が掴めない。
その違和感だけが、日々募っていた。
「焦ることはないさ」
背後から響く穏やかな声に、エズレンは振り返る。
そこに立つのは、灰色を帯びた髪に青の瞳を持つ初老の男ーー養父のゼスだった。
彼は『無偏の賢者』ーー現代において五人しか存在しない超越者のひとりであり、古より伝わる知識と力を受け継ぐ存在だ。
その名を知る者にとっては、まさに伝説のような人物である。
無駄のない痩身は年齢を感じさせるものの、穏やかな表情の奥には鋭い知性の光が宿っている。
この人こそが、幼いエズレンを拾い、魔法と世界の理を教えてくれた養父だった。
ゼスは、エズレンの手元に残る微かな雷光を見つめ、静かに口を開く。
「体内の魔力をうまく制御できないんだろう?」
核心を突く問いに、エズレンは無言でうなずく。指先に残る痺れが、その不安を証明していた。
「お前の中にある魔力は、普通の人間とは比べものにならないほど強い。けれど、強すぎる力を持つ者は、時に自分が何者なのか見失うこともある」
ゼスは草の上に手をかざすと、小さな花を咲かせてみせた。精緻な陣も詠唱もなく、心でイメージを強く意識し、魔力を流すだけの行為――けれど、エズレンにはそれができない。
「お前が持つその力は、他の者と少し違う。ーー雷とは、自由で気まぐれなものなのさ。」
「……僕は、どうすれば思い通りにこの力を操れるようになるんだ」
身を寄せ合うように咲いた小さな花々は風に揺れている。淡色の花弁が震えているように思えた。
「答えを焦っても仕方ないよ。力とは、持つ者の在り方を映す鏡だ。お前がどのように在りたいのか、それが自分で分からねば、どれほどの力も決して従わない」
エズレンは顔を伏せる。
自分とは、何者なのかーー
答えの出せない問い、思うように魔力を動かせないことへの焦り、それらはエズレンの心の奥底でくすぶり続けていた。
ゼスはそんな彼の葛藤を見抜いていたのだろう。静かに言葉を継ぐ。
「人は他者と触れ合うことで、自分の輪郭を知るものだ。お前はもう、本の知識ではなく、世界に触れるべき時が来たのだよ」
「世界に……触れる?」
エズレンが顔を上げたとき、ゼスはゆっくりと頷く。
「今度、村で春を祝う祭りがあるらしいね。……お前も行ってみるといい」
その声には、何かを見極めようとする静かな期待が込められていた。
「…祭り?」
思いがけない提案に、エズレンは眉をひそめた。
この森から出たことは一度もない。外の世界のこともほとんど知らない彼にとって、村は遠い存在だった。
森での暮らしに不満はない。けれど、ゼスの言葉が心の奥に響いていた。
世界に触れる――その言葉が意味するものとは。
「……外に出れば、答えが見つかるかもしれない」
微風が頬を撫で、若葉の香りを運んでくる。
夜の帳が下りる頃、この静かな森を離れ、少年は初めて世界へと足を踏み出す。
それが、運命の歯車が回り始める瞬間だとは、まだ誰も知らなかった――。