閑話 かつての神官より
読まなくても本編に支障ありません。
――時は今より20年以上前。
その頃はまだ一介の見習い神官だった私は、カールドレア教会の修道院で奉仕活動をしていた。
その日は早朝から、鈍い音を立てて雨が屋根を打ち、修道院の中には冷たい湿気が漂っていた。
突如、血に濡れた男が修道院に駆け込んできた。激しく戸を叩き、何かを叫んでいる。
男は悪名高き盗賊団の一員であり、罪を重ねる人生を送っていた。
その盗賊団には唯一守らねばならない掟があり、それが『子供を傷つけてはならない』というもの。
しかし、ある襲撃の最中、男は誤って幼子を死なせてしまった。それが彼の人生の転機となる。
初めて恐れた。初めて後悔した。
仲間に見限られ、追われる身となった彼は、何を思ったのか、修道院の門を叩いたのだった。
「許してくれ…助けてくれ…」
震える声でそう呟き続ける男に、神官たちは忌避感を示すのみ。誰も男の言葉には答えなかった。
誰もが眉をひそめ、沈黙する。
"神はお前を赦すのか"
"人はお前を赦せるのか"
答えの出ない問いだった。
そんな時、修道院を訪れていた一人の女性が、そっと男の前に膝をついた。
大聖女エラリス——癒しの神ヴェラティアに仕え、そして選ばれた唯一。
彼女はその身に纏う純白の法衣が泥や雨で汚れることを気にもせず、血に汚れた男の手をそっと包み込んだ。
男は震えながら、血に汚れた手を差し出すと、瞳の奥に恐れと悔恨の色が浮かんでいた。自らを赦してくれる神がいるのか、それともただの孤独が待っているのか。答えを求めるように、ただ唇を震わせ続けた。
そして、聖女は静かに告げた。
「人が神に赦しを請うのではありません。
神が人に赦しを与えるのでもありません。
人は、ただ赦しの中に生きるだけなのです。
貴方が赦されたいと願うならば、その身に待つ険しい道を受け入れ、ただ歩み続けるしかありません」
雨が降り続く中、空が少し開き、雲間から差し込んだ光が修道院の高窓を照らし、その光がまるで聖女と男を包み込むように輝いていた。
男は声を上げて泣き始める。
自らを赦してくれる神がいるのかどうかではなく、"赦しとは、自分が歩むべき道の中にあるものなのだ" と気づいたのかもしれない。
当時の私は、エラリスの言葉をそのまま受け入れることができなかった。まだ若かった私は、赦しの深さや、その先にある道を理解していなかった。
しかし、あの光景を目の当たりにして、何かが心の中で動いた気がした。あの男の泣き顔、そしてエラリスの静かな瞳に、私は初めて「赦しとは何か」を感じ取った。
その後男は兵団へと引き渡されたが、罪を償うためこの修道院に身を寄せ、人々への奉仕と神に仕える道を選んだ。
私はその日の出来事をずっと心の奥にしまっていた――
そして、長い年月を経た今。雲間から射す光をその瞳に宿した少年が目の前に立っている。
彼の姿を見た瞬間、あの時の記憶が鮮明に蘇った。あの日の光景が、まるで今の彼の中に生きているかのように感じられた。
「……不思議なものだな。今日、君を見て、ふとあの時のことを思い出した」
口を衝いて出た言葉。
何も確信しているわけではない。
だが、あの時の"赦しを説いた聖女"の残した光が、今、目の前に立っている少年にも宿っている――そんな気がしていた。




