第17話 雷轟の獅子
教会に戻ったエズレンたちは、神官の好意で教会に隣接する宿に泊まることになった。この宿は見習い神官たちがよく利用しているらしい。
年季の入った木造の建物で、1階に食堂と浴室があり、2階が宿泊スペースとなっている。部屋は15室あったが個室は全て埋まっており、案内されたのは4人用の大部屋だった。
外観こそ古びているものの、見習いたちが奉仕活動で定期的に清掃しており、塵ひとつなく整えられているため、清潔感を損なってはいない。
広場での騒動の後、宿を探す余裕すらなかったことを思い出し、エズレンたちは安堵とともにどっと疲れが押し寄せるのを感じた。
すでに食堂の利用時間をとっくに過ぎているのだが、神官が事情を話すと宿の主人が食事を用意してくれた。温かいスープに焼きたての黒パン、香ばしく焼かれた塩漬け肉と、素朴な野菜の煮込み。豪勢なものではないが、それでも疲れた身体に宿の主人の優しさと、食事の温かさがこの上なく染み渡る。
スープの湯気が立ち上り、塩気の効いた肉の香りが食欲をそそる。野菜をひとくち口に含むと、素朴ながらもしっかりとした旨味がジュワリと広がり、思わずほっと息をついた。
食事を終え、簡単に汗を流して部屋に戻る。柔らかな寝台に身を沈めると、一日の疲れが一気に身体を包み込んだ。布団は厚手の綿でできており、しっかりとした弾力がある。静かな夜の中、宿の木の軋む音を子守唄に、エズレンたちは深い眠りに落ちていった。
◆
翌朝──といっても、とっくに街は活動を始めている時間帯。宿の扉を軽くノックする音が響き、エズレンたちはゆっくりと目を覚ました。
「おはようございます、皆様方。昨晩は大変お疲れ様でございました」
部屋の前に立っていたのは、教会からの使いの神官だった。
「……ああ、まだ全然寝足りねえ……」
イグナシウスは寝ぼけ眼のまま、枕に顔を埋めたまま呻く。
「イグ、そろそろ起きなよ」
隣のベッドで身支度を整え始めたリウィアンが、軽くため息をつきながら彼を揺さぶる。
エズレンは寝台から起き上がりながら、神官に向かって静かに問いかけた。
「僕たちに何か御用ですか?」
「お休みのところ申し訳ございません。昨晩の件について、大司教様が皆様にお話があるとのことで、お連れするようにと」
エズレンは軽く頷き、身支度を整えるために立ち上がった。
「……ふぁぁ、仕方ねえな……」
イグナシウスが欠伸をしながらようやく起き上がる。リウィアンも支度を終え、身なりを整える。
眠気の残る頭を軽く振り払いながら、エズレンたちは朝の冷たい空気を感じつつ教会へと向かった。通りを行き交う人々の活気に、ようやく街が完全に目覚めていることを実感する。
宿を出ると、昨日の喧騒が嘘のように教会の敷地は静まり返っている。よく耳を澄ませば、礼拝堂からは朝の祈りを捧げる信徒たちの低い詠唱が響き、所々で見習い神官たちがせわしなく働く気配が感じられた。夕暮れ時とはまた異なる、厳かで澄み渡った雰囲気が漂っている。
教会の建物内へと足を踏み入れると、大理石の床に靴音が控えめに響いた。昨夜とは違い、朝の光が高窓から差し込み、長い回廊を柔らかく照らしている。ステンドグラスを通った光が床に淡い色彩を落とし、光の中を進む間エズレンは不思議と心が落ち着くのを感じていた。
やがて荘厳な回廊を抜け、昨日も通された大司教の執務室に到着すると、重厚な扉の前に辿り着く。神官が一礼しながら言った。
「こちらです。中へお入りください」
扉が開かれると、静謐な空気が漂う執務室の奥に、二人の人物がいた。
一人は、この教会の最高責任者である大司教。そしてもう一人──
その人物は、大司教が座るべき椅子に堂々と腰を掛け、悠然とした仕草でこちらを見ていた。
鋭い金の瞳と、短く整えられた赤褐色の髪。服の上からでも分かる、鍛え抜かれた体躯。纏う衣服は無駄のない仕立てで、洗練された美しさが感じられる。静かに佇んでいるだけで、まるで一振りの名剣のような研ぎ澄まされた威厳が漂っていた。
「──この御方は、ここイストリアの地を治めておられる現領主、レオネル・フォン・イストリア閣下だ」
大司教が静かにその名を告げる。その瞬間、領主の鋭利な視線がエズレンたちを射抜くように深まった。
「(お前はまた…とんでもねぇ大物引いたな)」
「(エズレンはそういう性質なのかもね)」
しかし普段通りの様子でエズレンに耳打ちをしてくる二人。
(…何で領主様が?)
エズレンが疑問に感じていると、領主はゆっくりと椅子から立ち上がり、こちらへと近づいて来る。
「昨晩の件は聞いたよ。君たちが居なければ、被害はもっと拡大していただろう」
低く落ち着いた声が執務室に響く。
「この街を守ってくれたこと、感謝する」
穏やかな声色ではあるが、決して気を許したものではない。どの程度の力を持ち、どんな意図でこの地にやって来たのか――領主として、武人として、慎重に見極めようとする意志が、その眼差しには滲んでいた。
一拍の沈黙。
その場にいる誰もが、領主の言葉の裏に探るような気配を感じ取った。
「さて。君たちはこの街を救ってくれた。何か礼をしたいのだが、望むものはあるか?」
「美味い飯!!主に肉!」
「腕のいい時計職人のお店!」
即答するイグナシウスとリウィアンに、領主は朗らかに笑い、快く頷く。
そしてエズレンは一瞬考えた後、静かに口を開いた。
「……教会の禁書区画にある『エラリスの年代記』を読ませてほしいです」
領主の笑みがわずかに揺らぎ、意外そうに目を瞬かせる。
「…禁書か。それは私の権限では決められないが……」
言葉を切り、隣に控えていた大司教へと視線を向ける。全員の視線が大司教へと集まり、場の空気がわずかに張り詰めた。
しかし、大司教はエズレンの言葉に驚き、目を見開いた。一瞬、息をのむ。
「……なぜ、その本を?」
問われ、エズレンはどう答えるべきか思案する。やがて懐から形見のペンダントを取り出し、静かに口を開いた。
「僕には母の記憶がありません。でも、母の名がついた本があるなら……読んでみたいと思いました」
静寂が落ちる。
やがて、大司教は驚きを滲ませながら呟いた。
「……まさか、君は本当に……」
その隣で、領主がじっとエズレンを見つめる。
彼の視線がゆっくりと、エズレンの右手へと移る。
「……待て、その指輪……」
領主の表情がかすかに動く。
「……君、その指輪……まさか、大賢者ゼスの縁者なのか?」
「はい。指輪は養父のゼスから譲り受けました。母のことも、養父からつい最近聞くまでは、名すら知りませんでした」
エズレンは静かに答えた。その声には、どこまでも落ち着いた響きがあった。
――歴史に名を刻む五人の大魔法使い。その名を知らぬ貴族はいない。
領主の驚きは、エズレンの血筋よりも、むしろ彼がゼスと関わりがあることに向けられていた。
一方、大司教はどこか懐かしむように目を細め、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……私は見習いの頃、遠くからだが彼女を見たことがある。言葉を交わしたことはなかったが……君が最初に教会を訪れた時、不思議な懐かしさを感じたのだ。そうか、君は彼女の息子だったのか……」
一つ息をつくと、大司教は静かに告げた。
「分かった。『エラリスの年代記』の閲覧を許可しよう」
エズレンは頷いた。
――母が生きた証。
そこに何が記されているのか――それを知る時が来る。




