第16話 闇を退けし者
雷霊たちが去った後の広場は、まるで嵐が過ぎた後のように静まり返っていた。
石畳には崩れた瓦礫が散らばり、未だ気を失った暴徒たちが何人か倒れている。その間を縫うように、人々は押し黙り、じっとエズレンを見つめていた。
だが、その視線には単なる恐怖とは異なる、どこか鈍い感情が滲んでいた。
「…この者は危険だ…」
「精霊を操るなど、やはり……」
誰ともなく囁かれる声は、まるで感情を失ったような低さだった。
その響きに、エズレンはわずかに眉をひそめた。
(なんだ? この違和感…)
彼らの反応は、ただの恐怖ではない。まるで何かに縛られ、思考を支配されているような——
だが、それを考える間もなく、ふと足元に小さな音が響く。
靴が石畳を擦る音。
イグナシウスが、ゆっくりと前に進み出た。
「おいおい、何をそんなに怯えているんだ? 暴徒は鎮圧され、精霊たちも帰還。お前らが恐れるものなんて何も——」
「待って、イグ」
リウィアンが、それを遮るように呟いた。その視線は、静かにエズレンを見つめている。
「……言葉にするって、大事なことなんだ」
それはまるで、エズレン自身に向けた言葉のようだった。
エズレンは微かに目を伏せる。
『誤解だ』
頭の中で、その言葉が反響する。
ここで沈黙すれば、前と同じになる。
彼はゆっくりと顔を上げ、まっすぐに人々を見た。
「……僕は、誰も傷つけてない。全部、誤解なんだ」
静かな声が、広場に落ちる。
誰もすぐには反応しなかった。だが、微かな戸惑いが、人々の間に生まれ始めていた。
――ざわめきが広がる中に、落ち着いた足音が響く。
重厚な法衣をまとった大司教が、数人の神官と聖女を伴い、整然とした足取りで進んでくる。彼の周囲には神聖術の光が淡く漂い、傷ついた人々を癒しながら進むたびに、穏やかな波紋のように浄化の気配が広がった。
「静まりなさい」
大司教の言葉は、決して大声ではなかったが、場の空気を一瞬で鎮めた。まるでその響きが、混乱と恐怖を覆い尽くすかのように。
「この場を満たしている悪意の渦は、“悪魔”の残滓の影響によるものだ」
ざわめきが広がる。
「悪魔だって…?」
「そんなものが、本当に……?」
大司教の視線が広場を見渡す。その瞳には、静かなる慈愛と、それ以上の鋭い洞察が宿っていた。
「信じがたいことだろう。しかし、お前たちが今感じている異様な恐怖、疑念、それらはすべて"奴ら"がもたらしたもの」
大司教の言葉に、人々の表情が揺らぐ。
エズレンは息をのんだ。
広場を満たす異様な怯えと拒絶――それは、単なる人々の恐れではなく、悪魔の影がもたらしたものだったのか。
「……! そうか、それで“禍つもの”――」
雷霊たちの言葉が脳裏に蘇る。しかし、その正体が判明したとしても、暴徒への裁きを民衆に向けて再び下すわけにはいかない。
では、自分にできることは――
思考を巡らせた、その瞬間。
大司教は静かに杖を掲げた。
それだけで、広場の喧騒は潮が引くように鎮まる。
「――神の名において、この地に巣くう穢れを祓わん」
深く響く声が、広場の空気を震わせる。
神官たちが一斉に祈りの詞を紡ぎはじめ、聖女たちの澄んだ声がそれに重なる。
光の奔流がゆっくりと広がり、やがて荘厳な調和を生み出していく。
「天より来たりし浄光よ、地の理を正す裁きを」
「汝が照らすは真実の影、映すは偽りなき姿」
「欺くもの、覆い隠すもの、今ここに明かされん――」
詞が最高潮に達した瞬間、広場全体に揺らぎが走った。
ぼんやりとした黒紫の靄が、まるで現実に滲み出るように浮かび上がる。
「……!!」
人々の周囲にまとわりついていたそれは、怨嗟の残滓。
目には見えずとも、確かにそこにあったもの。
それが今、白日のもとに晒されている。
「これは……」
息を呑む群衆。
恐れ、疑い、怒り――誰もが心の奥底に抱えていた負の感情が、靄となって顕現していたのだ。
「汝らよ、己が内なる影を知れ」
大司教は厳かに杖を振り下ろした。
その瞬間、風が起こった。
広場の中心から吹き上がるそれは、ただの風ではなかった。
黄金の光を孕み、祝福とともに舞い上がる神気の旋風。
黒紫の靄は、その風に抗えず巻き上げられていく。
高空へと吸い込まれていく靄の先、見えざる手が伸びるように光が広がった。
まるで、それらを抱え、浄化するかのように。
その光景はまさしく、ヴェラティアの御手であると、どこか確信をさせるようで――
靄が消え去るにつれ、広場を覆っていた澱みが晴れていく――
その時、エズレンのそばを通り抜けたひときわ大きな靄が、かすかに囁いた。
(「……なかなか楽しめたぞ」)
ゾクリと走る、悪寒。
確かに聞こえたはずのその声は、しかし誰のものでもない。
靄が上空へ消えていった後には、ただ静寂が残るのみだった。
エズレンは思わず目を細めた。
どこかで、似た気配を感じたことがある気がする。それも、ごく最近のことで――
(……まさか)
思考が形を成す前に、光の余波が彼を包み込んだ。
癒しが訪れる。
ひどく疲れ切った兵士の顔に、ふっと安らぎが戻る。
恐怖に強張っていた少女の指が、そっとほどける。
擦り傷や打撲の痛みが消え、荒れた皮膚が静かに癒えていく。
「……!」
張り詰めていた空気が、緩やかにほどけていった。
風が吹き抜ける。澄んだ空気が肺を満たし、冷たくも心地よい感覚をもたらす。
人々は気づく。
息苦しさも、不安も、さっきまで胸を圧迫していたものがすべて消え去っていることに。
「……なんて、清らかな……」
誰かが呟いた。
その声に呼応するように、広場全体がざわめき、そして、歓声が沸き起こる。
幼子を抱いた母親が、安堵に涙しながら天を仰ぐ。
老いた聖職者が震える指で胸の前に印を切り、静かに祈りを捧げる。
傷を負っていた男が、信じられないように己の手を見つめる。
人々は互いに顔を見合わせ、次々と微笑みを浮かべはじめた。
広場は、光と癒しに満ちていく――
儀式が終わり、静寂が広場を包む。
まだ膝をついたままの人々が、ゆっくりと顔を上げた。
「……あれ?私たち、一体……」
「さっきまで何かにすごく、怯えていたような…?」
意識を取り戻した彼らの目には、かつての怯えや混乱はない。代わりにあるのは、深い安堵と、そして……悔悟の色。
「……っ!」
一人の老人が震える手をつきながら立ち上がると、エズレンに向かって頭を下げた。
「……すまなかった……」
それを皮切りに、周囲の人々も次々と口を開く。
「私たちは、なんてひどいことを……」
「君は助けようとしてくれたのに、疑ってしまった……!」
「ありがとう……! 本当に、ありがとう……!」
ひとり、またひとりと、エズレンに向けて感謝と謝罪の言葉が降り注ぐ。
彼はただ、静かにその光景を見つめていた。
(……逃げなかった)
今までなら、誤解されることが怖かった。
拒絶されるのが、怖かった。
それが、たとえどれほど理不尽なものでも。
でも――
(最後まで、ここにいた)
そして今、彼らは自分を受け入れようとしている。その事実が、胸の奥に染み渡っていく。
「…どうした?」
そばにいたイグナシウスが、小さく問いかける。
エズレンはゆっくりと目を閉じ、静かに息を吐いた。
「――いや、なんでもない」
そして、まっすぐに前を向く。
遠く、空を流れる風が、優しく彼の頬を撫でていった。




