第14話 繋縛に断雷
大司教の執務室へと急ぐ廊下で、エズレンは心を落ち着けようと深く息を吸い込んだ。禁書区画で調べ物をしていた所へ届いた、神官からの報せ。
執務室へ到着し、扉の前で足を止めると、すぐに中から許可の声がかかる。足を踏み入れた途端、空気が重く感じられた。室内に差し込む薄明かりが、大司教の深く刻まれた皺の影を強調している。
「来たか。時間が惜しい。手短に話そう」
低く響く声に促され、エズレンは静かに頷いた。
「広場で騒動が起きていると聞きましたが、一体……?」
「聖印の使徒という者たちを知っているか?」
大司教の言葉に、エズレンは一瞬だけ思案する。昼間に見かけた集団を思い出すも、素性について詳しくは知らない。
「いえ、この街で初めて名前を聞いたくらいで…」
「教義に基づかない信仰を持つ者たちだ。教会の正式な信徒ではないが害をなす者たちでもない。少なくとも、これまでは」
大司教は重々しく、言葉を継ぐ。
「彼らの教祖は自らを『神の声を聴く者』として、独自の教義を掲げていた。異端とはいえ、これまで何の問題も起こさなかったため、教会としてもその存在を見過ごしてきた。だが——」
その表情が険しくなる。
「今夜、突然に暴徒と化し、罪のない人々を襲い始めた。何がきっかけで彼らがこのような行動に出たのかは、不明だ」
想定外の事態、という言葉が含まれているのが分かる。彼ほどの立場の人間にとって、未知の出来事ほど厄介なものはないだろう。
「広場には既に討伐隊を向かわせたが、対応が間に合っていない。あの場に居合わせた者たちも応戦しているが……」
そこで大司教はふと視線を伏せ、思案するように言葉を選ぶ。
「……二人、見知らぬ若者がいるそうだ。名は分からぬが、広場にいた者たちの証言によると、ただの旅人という雰囲気ではなく、相当腕が立つ者たちであると。彼らもまた、暴徒を止めようとしているようだ」
エズレンは、その二人が誰かをすぐに理解した。
――イグナシウス、リウィアン。
彼らが、戦っている。
二人の強さは知っている。あの夜、森で見た彼らの戦いぶりを思い出せば、それを疑う余地はなかった。広場の混乱も、きっと彼らなら対処できるだろう。
それでも、エズレンの胸の奥に微かな棘が刺さる。
彼らは、僕についてきた。僕がこの教会に立ち寄ると言ったから、一緒に来てくれた。その結果、あの暴動に巻き込まれた。
(僕が彼らを、危険に導いたのでは?)
考えまいとしても、頭の片隅から離れない。
「恥ずかしながら、この教会には戦闘に特化した者が少ない。このままでは応援が来るまでに被害が拡大してしまう……」
大司教の低い声が思考を断ち切る。
「無理を承知で頼みたい。君の力を、貸してほしいのだ」
エズレンは無意識に拳を握る。
(僕に、何かできるのだろうか)
僅かに迷いがよぎる。しかし、それよりも先に、身体が動こうとしていた。
「——分かりました」
自らの声とは思えないほど冷静な答えが口をつく。
短くそう告げると、エズレンは迷いなく執務室を後にした。
◆
広場へと続く道を駆け抜ける。
夕刻の空は翳り、重く淀んだ空気が肌にまとわりつく。遠くから怒号が響き、ざわめきが満ちている。視界が開けた瞬間、そこに広がる光景に思わず足が止まった。
石畳には倒れ伏す神官たち。混乱する人々の叫び声。力を失い、動けなくなった者たちを守るように立ち塞がる影――イグナシウスとリウィアン。
イグナシウスは動じることなく群衆の前に立っていた。彼の周囲だけ、まるで空気が異なるように冷たく澄んでいる。
焦燥も怒りも見せず、ただその場を支配している。
暴徒が襲いかかるたびに、その動きを見極めるように目を細め、最小限の動きでいなす。鍛え上げられた動きには迷いがなく、まるで自身の立場を誇示するかのような、堂々たる気配が漂っていた。
一方で、リウィアンはその様相とは対照的だった。
暴徒たちを傷つけぬよう、彼は無力化と拘束に特化した術式を次々と展開している。淡く光る鎖の魔術が絡みつき、抵抗を抑え込もうとする。しかし、相手の数が多すぎる。次々と鎖は断ち切られ、封じる間もなく押し寄せる波に翻弄されていた。
「エズレン!」
リウィアンがこちらに気づいたのと同時に、エズレンの視界に広がる惨状が目に飛び込んできた。
傷ついた神官たち。恐怖に震える子ども。無差別に暴力を振るう者たち。
——昼間の光景が、脳裏に蘇る。
この街に足を踏み入れた時、目にしたのは穏やかな光景だった。賑やかな市場、家族で談笑する人々、子どもたちの笑い声。あたたかい風景がそこにあった。
それが、今。
同じ場所で、人々が倒れ、叫び、絶望している。
何の罪もない者たちが、踏みにじられている。
心臓が跳ねる。
息が、詰まる。
怒りと呼ぶには未熟な、しかし抑えがたい熱が込み上げた。
――何とか、しなければ。
その刹那——空気が震えた。
《お前はその術を知っているだろう》
雷鳴のように低く、重々しい声が響く。
次の瞬間、空が裂けた。青白い稲光が地を穿ち、弾けた電光が夜の闇を切り裂く。降り立ったのは、獅子のごとき雷獣——テンペスタ。黄金の瞳に揺らめくのは、絶対の自信と揺るぎなき誇り。
その背後には、双子のように姿を似せた雷霊たちが羽ばたいていた。
フルミナとフルミオ――二対の翼に纏う雷が静電気のように弾け、大気が震えている。
精霊たちが現れた瞬間、暴徒の動きが鈍る。雷の威圧感に本能が危険を察知したのかもしれない。
《主よ、命を》
テンペスタが問う。その声音には、忠誠ではなく、対等な問いかけの響きがあった。
エズレンは——けれど、一瞬だけ、躊躇した。
(……違う、僕は呼んでいない)
しかし雷霊たちはエズレンを見下ろし、確信に満ちた声を響かせる。
《いいや、我らには確かに主の望みが聞こえたぞ》
《自らが何を欲し、何を為すべきか——それを迷われるな》
言い切る彼らに、拒むことなどできるはずがなかった。
そして次の瞬間、雷鳴が轟いた。
テンペスタがゆっくりと前脚を踏みしめる。その動作だけで、大気が揺れ、石畳がひび割れる。雷が空を裂き、天地に轟く。
フルミナとフルミオは空を舞い、帯電した風を巻き起こす。雷の閃光が交差し、暴徒たちを包むように降り注いだ。
「な、なんだこれは……!」
「動け……ない……!」
雷が走るたびに、暴徒たちの足が止まり、一人、また一人と膝をついた。彼らの瞳が虚ろに揺れ、やがて焦点を取り戻す。
(何だ?まるで、何かの影響が解けるみたいに…)
違和感に気づいたエズレンに、テンペスタが言葉を投げかける。
《主よ。奴らの魂は縛られている》
「……縛られている?」
《そうだ。禍つものに囚われた状態だ》
「まがつ、もの?それは、一体…」
フルミオが続く。
《奴らの得意とする、その身の芯まで染み込み、滲むような呪縛だ。我らの雷が刺激となり、人間共は正気を取り戻しつつある》
(つまり、彼らは——操られていた?)
雷の刺激で支配が緩んだのなら、方法次第で全員を正気に戻せるかもしれない。エズレンがそう考えたとき——再び、空気が揺れた。




