第11話 十柱の主神
エズレンたちは夕暮れ迫る街の中心にそびえ立つ、この街唯一の教会――カールドレア教会へと足を踏み入れた。
風にそよぐ祈りの旗が黄金色に染まり、純白の石造りの堂は暮れなずむ空を背景に、ひときわ鮮やかに浮かび上がる。門扉には風に舞う花を象った彫刻が施され、癒しの神ヴェラティアへの信仰を象徴していた。
堂内に足を踏み入れると、ひんやりとした空気が肌を撫でる。高くそびえるアーチ型の天井には優しい灯火が揺れ、白と金を基調とした空間には、澄んだ祈りの旋律が満ちている。
エズレンは静寂の中を歩きながら、そっと後ろを振り返った。
リウィアンのいつものような軽やかさは影を潜め、どこか慎重に周囲を見回している。
一方、イグナシウスは明らかに落ち着かない様子で、薄暗い柱の影に視線を走らせていた。
「二人とも、どうかした?」
エズレンが尋ねると、イグナシウスはわずかに口を尖らせ、リウィアンが呟くように答える。
「なんつーか…ここは妙に眩しいんだよな」
「僕も、ここは少し気が張るね」
「荘厳な雰囲気は感じるけど、そんなに?」
三者三様の反応を見せつつ廊下を歩いていると、壁に掲げられた大きな一枚の絵の前で足を止める。
円形に並ぶ十の紋章――その中央には柔らかな風と花が特徴的な意匠があり、その周囲にもそれぞれ目を引く異なる紋章が連なっていた。
「これは…」
エズレンの問いに、後ろから静かな声が返ってきた。
「中央の意匠は、ヴェラティア様を表す紋章でございます」
声の主は、いつの間にか近くに立っていた一人の神官だった。彼の纏う法衣は柔らかな花緑青を基調としており、袖や裾には風を象る刺繍が施されている。この教会に仕える者として、その特徴を色濃く反映した装いだった。落ち着いた瞳を持つ壮年の神官は、微笑を湛えてこちらを見つめている。
「この世界にはかつて、十柱の主神と呼ばれる方々が御座しました。それぞれが異なる力を司り、今の世界をお創りになられたのです。…皆様、遠方からのお客様でしょうか?」
「はい、今日この街に来たばかりです」
「そうでしたか。せっかくこちらへお越しになったのです。よろしければ、神々について少しお話ししましょうか」
「必要ない。それより俺たちはこの教会の大図書館とやらに用があるんだが」
イグナシウスが神官の言葉に即座に反応する。
「いいんですか?では折角なので、是非貴方のお話を聞かせていただきたいです」
しかし間髪入れずにリウィアンがイグナシウスの言葉を無かったことにし、神官の手を取り柔らかく微笑む。エズレンもそれに同意を示すよう頷いた。
神官は少し驚いた表情を見せたが、すぐに話を再開する。
「ええ…この絵は、十柱の神々のなかでもヴェラティア様を信仰神と定める教会に置かれております」
そう言いつつ満足そうに微笑むと、掲げられた十柱の紋章を指し示した。
「それでは、ご案内いたしましょう。この世界を創りし十柱の主神、それぞれが司る理と信仰の広がりについて――」
◆
神官が最初に示したのは、燃え盛る光輪の紋章だった。
「まずはサンティリオン様。太陽と炎、全知と秩序を司る神です。アルヴェナ大陸の中心、神聖国家アルヴェーアでは特に厚く信仰され、すべての神殿の中心に祀られています。
その御光は大地を照らし、闇を払う。生きとし生けるものに恵みをもたらし、正しき道を示す指標。彼の加護を受ける者は正義と光を重んじ、強き意志をもって世界を導くのです。
サンティリオン様の名のもとに掲げられる旗は、まさに神聖の象徴。彼の御業なくして、この世界の調和は成り立たぬでしょう」
次に、神官は雷を象る鋭い槌の紋章へと手を移した。
「そしてアストラグス様。雷と裁き、天候を司る神です。彼の御力は絶対であり、善を守護し、悪を討つ刃。その雷は偽りを許さず、すべての闇を暴く光なのです。
アルヴェーアではサンティリオン様と並び、正義の象徴とされています。 彼の信仰は特に武人や執行者たちの間で篤く、彼らはアストラグス様の名のもとに誓いを立て、正しき力を振るいます。
創世から今日に至るまでの永い歴史の中で、幾度となく、アストラグス様の裁きの雷槌は降り注ぎ、不正を正してきました。
嵐の只中にあっても、恐れることなかれ。雷は導きであり、試練であり、選ばれし者にこそ、その加護が与えられるのです」
神官の言葉に耳を傾けながら、エズレンは静かに瞳を伏せた。
(雷は導きであり、試練であり、選ばれし者にこそ、その加護が与えられる…)
その言葉が、胸の奥に深く響く。まるで、自分に向けて語られているかのように。
「次に、リヴァスティア様。海と深淵、変遷を司る神です」
神官はそう言いながら、波間に輝く蒼碧の紋章を指し示した。
「彼女は五大海上の各地に存在する海洋国家で篤く信仰され、航海の安全を祈る者は必ず彼女に祈りを捧げます。
潮流を生み、風が船を導くように、リヴァスティア様の御力は変化と流転をもたらします。それはまるで静かに満ち引く潮のように、時に穏やかに、時に荒々しく。
彼女の加護を受ける者は、流れに逆らわず、それでいて決して流されぬ心を持つ者です。
彼女はただ守るだけの神ではなく、時に試練を与え、行くべき道を見定めさせる神。海は穏やかであるとは限らず、時に嵐の中を突き進む覚悟を持つ者だけが、やがて安らぎの港へと辿り着くことが出来るのです。」
「そして此処カールドレアの守護神、ヴェラティア様」
神官の声が柔らかな響きを帯びる。彼が指し示した紋章は、初めに見た、風にそよぐ蔦と花、それらを抱く手の意匠。
「癒しと恵み、緑と風を統べる御方です。彼女の教会は世界各地に広まり、傷ついた者の心と体を癒してきました。
彼女の祝福を受けた風は、乾いた大地に恵みの雨をもたらし、嵐に打たれた木々に再び芽吹きを授けます。その御力は、荒廃した土地にも人々の心にも等しく注がれ、静かに、しかし確かに世界を潤してきました。
風に舞う花のように、彼女の加護は穏やかで、しかし確かに存在するのです。それは強制するものではなく、ただそこに在り、手を伸ばす者を優しく包む力。痛みを癒し、疲れた者を休ませ、そして再び歩み出す勇気を与えてくれます。
ヴェラティア様の加護を受けし者は、癒しを求めるだけでなく、他者へとそれを分け与える者。彼女の風は巡り、ひとたび吹けば、どこまでも続いてゆくのです」
続いて、神官は厚い岩を象徴する紋章へと指を向ける。
「こちらはアルボリア様。大地と再生の神です。彼の信仰も広く、農耕を営む者や堅実な暮らしを望む者にとっての守護神です。
アルボリア様の御力は、大地そのもの。彼が在る限り、大陸は沈まず、森林は生い茂り、果てなき荒野にも、やがて生命の息吹が戻るのです。
彼の加護を受ける者は、堅実な歩みを大切にし、次の世代へと繋ぐ者となるのです。大地は気まぐれに報いを与えず、忍耐と努力を持つ者に確かな実りを授けます」
次いで、冷たく輝く月を象徴する紋章へと視線を向けた。
「こちらはフロストリア様。月と氷、静寂と均衡を司る神です。彼の神殿は北方イシュタリア大陸に存在し、極寒の地に生きる者たちを護っています。
彼の支配する氷はすべてを覆い、余計なものを削ぎ落とし、変わらぬ“真実”だけを残します。そこに情はなく、慈悲もない。しかし、だからこそ揺るがない。
彼の導きを求める者は、感情に流されず、己の意思で道を選ぶ者。そして、いかなる極寒の試練の中でも揺るがぬ者です。冷酷とも言えるその試練を乗り越えた者だけが、フロストリア様の沈黙の祝福を受けるのです」
神官は次に、噛み合う歯車と書物を象った紋章へと手をかざした。
「こちらがスミスラス様。智慧と技術、鍛治の神です。彼は世界の構造を解き明かし、未知を求める者に知恵と創造の火を与える存在です。
西方の大陸にある鉄峰国ドラヴィニアにおいては、彼の神殿は知識と技術の礎。そこで学びを得た者は、鋼を鍛え、機巧を生み、理を解き明かし、あらゆる創造を支えています。
彼の加護を受けし者は、世界の成り立ちを知り、未だ見ぬ道を切り拓く者となるのです」
その言葉に、エズレンの脳裏である記憶がかすかに呼び起こされた。
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積み上げられた無数の書物、机に広げられた難解な数式。燭台の火が揺れる中、静寂に包まれた書斎の中で、ペンを走らせるゼスの姿。
『知識は武器になる。だが、それを振るうには、理を知らねばならん』
彼はそう言って、何度もエズレンに書物を手渡した。
『思考は歯車のようなもの。知識が増えるほどに、より大きく、精巧に噛み合っていく――そして、やがて世界の動きが見えてくるのだ』
普段の優しい養父としてではなく、師として弟子を導く、厳格な賢者の顔でそう語った。
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あの時はただの比喩かと思っていた。
しかし神官の言葉を聞いた時、そうではなかったのだと感じた。
知識を蓄え、積み重ね、噛み合わせることで、初めて「世界」という巨大な機構の一端に触れることができる。
ゼスは、まさにそれを体現するような生き方をしていた。もしかすると、彼が口にしていたその理論の裏には、彼の神への信仰があったのかもしれない――
そして次の紋章を神官が指した時、その漆黒の王冠と鎖を象る紋章に、目を奪われているイグナシウスの姿があった。
神官は彼の視線の先を見つめ、厳かに告げる。
「そちらはモルフィアス様。夜と死、支配を司る神。彼を崇める者は少数ですが、南方のノクテリス大陸では特に深く信仰されています。
闇を恐れぬ者、静寂の中に永遠の叡智を求める者たちが、彼の加護を受けるのです。
彼の夜はすべてを包み、死は輪廻の鎖を繋ぐ。
その支配は絶対でありながら、訪れる者には安息をもたらすと言われています。
紋章に描かれた黒き王冠は、静かなる権威の象徴。鎖は、すべての命がその運命から逃れ得ぬことを示します。
しかし、それは決して恐怖や絶望のみを孕むものではありません。混沌に沈む魂を静寂で包み、彷徨える者に行くべき道を示す――それこそが、モルフィアス様の抱く夜の理なのです」
イグナシウスは目を閉じた。
それは、夜の静寂の中でひそやかに囁かれる祈りのようで――だが、すぐに彼は何事もなかったかのように目を開き、無言のまま視線を逸らした。
神官は続けて、歪んだ時計の紋章を示した。
「こちらがクロノスヴェイ様。時、無情、不変を司る神。特にドラヴィニアではスミスラス様と並び信仰が厚く、時の流れに挑み、その原則を学ぶ者たちは彼の導きを仰ぎます。
彼の御業は、この世界のすべてに影響を与えます。終わりなき流れの中で、過去を刻み、未来を紡ぎ、ただ唯一変わらぬ存在。
時の運行が乱れることなく続くのは、クロノスヴェイ様が沈黙のうちに世界を見守り続けているからにほかなりません」
その言葉を聞いたリウィアンの表情が、ふわりと緩んだ。瞳は微かに輝きを帯び、誇らしげな笑みが口元に浮かぶ。
静かに胸に手を添え、一瞬だけ目を伏せる仕草には、深い敬意と満足の色が滲んでいた。
そして、最後の紋章。
そこに描かれていたのは、虹色に輝く蝶の象徴であった。
「最後はセラフィオン様。夢幻と自由を司る神――しかし、彼女の信仰者は極めて少なく、世界のどこにも彼女を祀る神殿や教会は存在しないと言われています。
彼女の加護は形を持たず、法則を持たず、誰にも縛られない。蝶の羽ばたきのように、気まぐれに訪れ、夢と現の狭間に幻のように姿を映すのです。
彼女の御心は常に、選ばれし者ではなく、自由を望む者のそばに在るのです――」
それは誰にでも訪れるものでありながら、誰もが意識することのないもの。
まるで目を閉じた時にだけ見える、儚い夢のような存在――セラフィオン。
その名は風に溶け、次の瞬間には、どこか遠くへ消え去っていた。
――堂内に静寂が満ちる。
十柱の主神――世界の理を象る存在。
それぞれが異なる領域を司りながらも、全てが絡み合い、この世界を成している。
そして、彼らは見ている。
人々の祈りに応え、時に試練を与えながら、悠久の時を超えて世界を見守る神々。
この場に立つ自分たちを、今もそのまなざしの下に置いているのだと――エズレンは感じていた。
神々は、ただ与えるだけの存在ではない。
彼らの前に立つ者は、その存在に見合う答えを示さねばならないのだから――。




