プロローグ《神託》
深夜の帳が世界を覆う頃、聖域には風すらも入り込まぬ静寂が満ちていた。
そこは神に仕える者だけが足を踏み入れることを許された場所――神託の間。
磨き抜かれた白大理石の床は月光を受けて鈍く輝き、堂奥に鎮座する祭壇には、未だ知られぬ意志を待つかのように、古き印が蒼く浮かび上がっていた。
その夜、ひとりの聖女が祈りを捧げていた。神域を満たす静謐の中、彼女だけは異変に気付いていた。
いつもなら穏やかに降り注ぐはずの聖光が、わずかに乱れている――まるで、何者かが神の声を遮ろうとするかのように。
突然、冷たい空気を裂くように、堂内に雷鳴の余韻にも似た響きが満ちた。
使者の降臨である。
眩い光の中に浮かぶ、翼を持つ存在。天上の意志を人の世にもたらす、神々の使い。聖女は膝を折り、頭を垂れた。
使者天使が告げる声は、地に住む者の理解を超えた響きを帯びる。
「雷は裂き、風は導く。
目覚めし者は、彼方より来たりて、秩序を揺るがすだろう。
その歩みは災いか、あるいは希望か――すべては雷を宿す者の選びにかかる」
神託が下された瞬間、堂内を満たしていた光はかき消え、再び深い闇が訪れる。
聖女は静かに顔を上げた。彼女の瞳には、未だ消えぬ蒼白い残光が映り込んでいる。
――この言葉は、何を意味するのか。
神託を受けた者には、必ずその言葉を記録する責務がある。聖女は祭壇の傍に備えられた古文書を手に取り、震える指で使者の言葉を写し始めた。
古来より雷の神託が示す未来は、常に大いなる変革の兆しとされる。だが、それが救済となるか、破滅となるかは、誰にも分からない。
この夜、天上に潜む力が揺れ動いたことを知る者は少ない。
だが確かに、何かが始まりつつあった――。