君と意味を見つけたい
どこにいても、何をしていても、いつもどこか息苦しい――こんな自分のことが大嫌いだ。
それは、自分に何をしても意味を見出せないからだろう。
星の見えない夜、俺は独り自転車に乗って坂を下った。
線路の前まで来て、遮断機が降りるのを見ると、自転車を止めて先ほどの塾でのことを思い返す。
「お前は人を信じたことがあるのか?」
「……わかりません」
「わからないってどういうことだ?」
俺が所属する、塾の特進クラスでいつも使っている教室の最前列の机で、俺はこの校舎の校長先生と向かい合った。
威圧感のある容姿をしている校長先生だが、今故意に威圧しているわけではないことは読み取れる。
「信じるっていうことが」
先生は、このまま俺が言葉を続けると思ったのか、喋るのをやめたが、少しして気づいて話し出す。
「じゃあそれは人を信じたことがないってことだよな?」
「はい」
表では平然と『はい』などと言って見せたが、心の中では動揺していた。
生徒のことを見抜く能力、さすがの経験だ。
「人を信じることができないのなら、日本っていう狭いコミュニティーでは外されるようなものだよな。つまり――意味がないんだ」
意味がない、だけでは何の意味がないのかわからず、狼狽える。
しばらく悩んだ末、やっと人間としての意味、存在意義のことだと理解する。
「どうだろう、悪いようにはしないから一度俺たちを信じてみないか?」
「というのは?」
先生たちを信じる、と聞いて咄嗟に訊き返した。
だが直ぐに先生たちを信じて言う通りの勉強とか、生活をやってみないか、という意味だと気づき、その素振りを見せる。
「それとも、俺たちは信じられないか?」
なんとも質の悪い。まるで『俺の酒は飲めないのか?』という問いかけのようだ。
「信じられますけど、わざわざ勉強する目的が見つからない、というか……」
「それを信じられないって言うんじゃないか」
正論でしかない。つまりその目的までも先生たちを信じて任せる、という意図を俺は読み取れなかったわけだ。
その正論は理解できる。でも今のところ正直信じることはできない。
どうせ、社会に出ても碌な大人にならないことは見えている――この思考回路が一番の元凶なのだろうが――ので、今を楽しむ方が優先だと感じてしまうのだ。
ただここで断ってしまうともっとこの場所に拘束されることになる。
それに、自分に意味があると少しでも装いたくて、気づけば口に出ていた。
「わかりました、信じます」
「ちゃんと勉強するのであれば特進に残ることもできるけど、どうする?」
……先生を信じるとは言ったものの、特進クラスほどハードな勉強はしたくない。
だから、特進に残れるという話は丁重にお断りしておく。
「ついていける気がしないので遠慮させていただきます」
確かその後は、週3の授業に加えてもう1日自習に行く日を決めさせられたのだった。
回想が終わると同時に、遮断機が上がった。
線路を超えてもまだまだ続く下り坂。
俺は坂を下る勢いに任せて夜の藍の空を突き進んでいく。
このままこの身が藍に解けても悪くないかな、と心の片隅で夢想した。
「佐藤くん、起きなさい」
典型的な昭和教師の様相を呈する、うちの教室の担任且つ数学担当の御神先生が、俺が寝ているうちに俺の目前までやってきていた。
「授業はちゃんと聞きなさい」
如何にも事務的であり惰性的な口調だ。
外から見た限りでは昭和教師ではあるが、中身は生徒など気にもかけていない先生である。
だからこそ惰性的なのは仕方のないことだろう。
……昭和の教師が生徒を気にかけるのかは知らないけど。
俺は一瞬返事に困ったが、相手も事務的な様子であるから、こちらも分かりやすい演技のように応える。
「わかりました。注意します」
とは言ったものの今教わっている範囲は特進で3回は繰り返し教わった範囲。
すべての用語が説明を聞けば思い出せるほど習熟しているので、意識を飛ばすか空を見上げたくなる。
特進に所属しているうちであれば、少しでもいい点を取ろうと躍起になって熱心に授業を聞いていた。
特進を落ちただけでもうそんな気分にもなれない。
本気度が足りない、そんな俺自身が、俺は余裕で嫌いだ。
特進はステータスだったわけではないが、なくなればなくなったで寂しくなる。
授業が6時間全て終わった。
今日の、いわゆるホームルームも昼にあらかじめやっておいたので部活に向かう。
所属している部活は小学生の時にはやっていたものにしたのだが、小学生のころやっていたのはノリで入ってしまって嫌々だったことを完全に失念していた。夏からずっと辞めたいと思っている。
「もう、決着をつけてしまおうか」
嫌々続ける部活に意味はない。
皆楽しそうに部活の準備をしている。顧問は今ならたぶん空いている。
「――ちょっと話がしたいんですが」
俺は顧問の先生に話しかけた。
「なるほど、辞めたいと。じゃあその理由は?」
理由。そんなことも訊かれるのか。これは見落としだ。
これまで使ったことがない速さで頭を回転させる。
人間関係が悪かったわけではない。どちらかと言えば良好だ。
では何かしら挫折をしたかというと全然そんなこともなく平和に部活を続けている。
――俺にとって部活をやっている時間は平和でも何でもないけれど。
ならば――
「この部活を続けて行くことに精神的に苦痛を感じるからです。具体的には、まず一つ目はこの部活が掲げている全体主義的な思想と、自らの考えているどちらかと言えば個人主義的によっている思想には食い違いを感じるからです。二つ目に、放課後にわざわざ自分の時間を削って活動するということに心の余裕を奪われるからです。三つ目は、部活と勉強を両立することには必ずと言っていいほど肉体的な苦痛を伴い、それは精神的苦痛にもつながり得るものだからです」
よし、即席にしてはなかなか悪くない回答ができたと思う。
まあ、若干オタク特有の早口味は混じっているけれど。
「そうですか。私としては佐藤くんの実力は良いものがあるので残っていただけると嬉しいですが、私に止める権利はありません。親御さんとご相談してから決めてください」
またもや見落としだ。
理由に次いで、親の許可も必要、と。
うちの親がそう簡単に首を縦に振ってくれるはずがない。これは持久戦になりそうだ。
と思っていたのも束の間、うちの親はあっさりと頷いてくれた。
もうこれ以上続けさせても金がかかると判断したのか、もしくは俺の気持ちを尊重してくれたのかは俺にはわからないが――これでもう自由だ、完全に。
そう思っても、心の奥に小さな喪失感が突っかえているような気がした。
授業が終わっても、昨日真夜中まで某お隣さんが世話を焼いてくれるアニメを見ていた反動で俺はまだ顔をあげない。
「佐藤くん、起きないの~?」
「起きてなかったら聞こえないだろ」
話しかけてきたのはよく俺の世話を焼いてくれる、一之瀬結奈だ。
俺は人と話すのは好きではないが、一之瀬は気を遣ってくれる。
それに、あえてキャラを作っているのかもしれないがいじった時の反応も正直可愛いと思う。
「むぅ……」
拗ねたような声を出している。可愛いと評価したのはこういう反応だ。
「まあまあ、わざわざ起こしてくれてありがとう」
「そうだよ、感謝してね!」
と勝ち誇ったような顔で偉そうに告げる一之瀬だが、そういった顔に慣れていないのか全くこなれた鬱陶しさを感じない。
「おう」
俺が答えると、一之瀬は去って行ってしまった。
一之瀬は俺と違い陽の者なので友達も多そうだ。
席も俺の隣にあるというわけではないので仕方のないことではあるのだが少し悲しい気分になってしまった。
少し悲しい気分にはなるものの一之瀬と話すだけで一日の間くらいは俺の機嫌がよくなる。
「佐藤何読んでんの?」
オタクは何を読んでいるか訊かれると隠してしまう。
とはいえ今話してきた彼――浜田もオタクだから隠す必要はない。何なら布教すればいい。
彼は俺がもともと入っていた部活の部員なので、退部した俺にとっては多少気まずさもある――わけでもなく、このクラスで最も仲のいい友達と言っても過言ではないレベルだ。
佐藤くんを起こしてみたけれど、何を話せばいいのかわからなくて私はすぐに立ち去った。
もうちょっと話したかったかな、とは思ってみても佐藤くんだってゲームに関することをいろいろと考えているらしい。
それゆえに邪魔だろうから仕方のないことではあるんだけど、少し悲しい気分になってしまった。
ちなみに佐藤くんは今、彼の友達の浜田くんと話している。
その光景を眺めながら用意をして、着席して待つと間もなく次の授業が始まった。
私は、授業をあまり聞かない佐藤くんとは違って、授業はしっかり聞くタイプだ。
まあ佐藤くんの曰く、しっかり授業は聞いて自分なりにかみ砕いているのらしいのだけれど、外から見ていたら全くそういう風に感じない。
それはともかく授業を聞くタイプの私は、今回は考え事をしていた。
塾での学習相談。
講師が何気なく放った一言が、私の考え方に大きく影響を与えた。
「そんなに真に受けなくてもいいんじゃない? ほら、何も考えてないようだとアドバイスの意味もなくなっちゃうから」
その人は間違いなく私に気を使って、心配してその言葉を放ってくれたのだと思う。
だけれど、これまで多くの言葉を真に受けてきた私からすると、まるで生き方を変えろと言われたかのような――さすがにその言葉を、何も考えずに真に受けることはできなかった。
つまりその言葉は、人の言葉を信じすぎるなという意味合いが含まれているのだろう。
それは確かに言っていることは正しいので、授業中にそのことについて考えるまでには至っている。
私はそれ以降、稀にその言葉に関して悩むようになった。
そしてこの間出した結論が、やることを自分で考えることにより、自分がやる意味を見つけるということ。
今までの私のやり方だと、代わりがいくらでもいるのだ。私である必要がない。
でも、自らの考えを含めることによって、それは考えた私でないとできない、私だけの意味となる。
「おーい、一之瀬? 授業終わったよ?」
佐藤くんが話しかけてきた。
授業が終わったらしい。こんなに長く考え事をするだなんて私にしては珍しい。
私は授業はしっかり聞くタイプなのだ。
佐藤くんはどちらかと言えば授業はあまり聞いてないように見える。
本人によれば自分なりに先生の言っていることをかみ砕くことで効率よく授業を受けているらしい。
だけど彼はずっと伸びしてるし本当だと思えない。
「なんか考え事か? 栄養不足? 今日寝てない?」
人がぼーっとしているのを見て、考え事か、という質問から入る人は珍しいんじゃないだろうか。
「いや、まあなんでもないから……」
「なんでもないわけないだろ。それならぼーっとすんなや」
確かに、と一瞬納得してしまう。がなんでもなくてもぼーっと空を眺める人だっているし何もおかしくはないと思い返す。
「でも……」
「まあ、本当に何でもないのならいいんだよ」
佐藤くんは去って行ってしまった。もしかしたら怒らせてしまったかもしれない。
佐藤くんの怒っている姿は見たことないことに気づき、少し楽しみになってしまう。彼の表情は怒っているようには見えないから怒っていないのかもしれないけど。
とはいえ後で心配してくれてありがとうと感謝しに行こう。
余計なお節介をしてしまった……。本人が何でもないといってるならそれで何かあるわけない。
直前になんでもないわけないとか強気なことを言ってしまったから取り消すのに若干の勇気を要した。が、それを表情に出さずに平静を装う。
今もできているのかはわからないけれど、俺は少なくとも一之瀬の前ではクールキャラを演じていたい。
「佐藤くん、さっきは心配してくれてありがとう!」
さっきは嫌な感じて会話を中断したのにもかかわらず、心配してくれてありがとう、と感謝してくれる。一之瀬はやっぱりいい子だ。一之瀬のそんなところが好きなのだ。
「ああ、どうも」
ところが俺のコミュ力の欠如が原因で、せっかく一之瀬がお礼をしに来たのにもかかわらず感じ悪い返しになってしまった。
「むー、せっかく感謝の気持ちを伝えてあげたのに!」
本気で怒っているのではなく、冗談めかして拗ねているような表情で一之瀬が言った。
「ごめん、こういう場面どうやって返すべきかわからなくて」
「佐藤くん、頭は良いのに返し方はわからないんだね」
学校の勉強に対する成績と、コミュ力は比例しない。いわゆる勉強は無駄だってはっきりわかんだね。
頭が良い、という単語を聞いて昨日の記憶が蘇る。
俺は頭が良いのに特進クラスから落ちた。
特進に残ることだけが価値ではないことはわかっているし、特進落ちが悔しいわけでもない。だけれども、特進落ちという事実は確実に俺の心を抉った 。
特進から落ちたということは少なくとも自分の実力が落ちたということを示しているのだろう。
そこから自分の実力が落ちた一因として自らの努力不足が導かれる。
努力ができない人間は、人間性的に終わっているし、その人間に魅力というものは付属しえない。魅力がない人間である俺に意味なんかあるのだろうか。
そもそも努力ができない人間は、天才でもない限り結果を出せないので大した意味がない。
「佐藤くん? ごめん、私変なこと言っちゃったかな?」
「ああいや、そんなことはないよ。俺が勝手に深読みしちゃっただけだから。今度、こういう時の返し方とか教えてくれないかな?」
「勿論いいよ! じゃあ、3日後、終業式の後に午後1時市立公園の噴水集合でどうかな」
まさか一之瀬の方が提案してくれるとは思っていなかった。
公園集合でどうやってコミュ力講座を行うのかという疑問はあるのだが、ともかく一之瀬と約束が決まったのでそれは置いておく。
「それでよろしく」
私、何か変なことを言って佐藤くんを困らせたのかもしれない。
佐藤くんは優しくはないのだけれど気づかいだけはできるので、私が佐藤くんを傷つけたことを気に病まないように勝手に深読みしただけだと言った可能性がある。
困らせてしまったのかもしれないが、結果的には佐藤くんと遊ぶ約束ができたので良かった。
「結奈ちゃん? 最近なんか窓の外をずっと眺めてない?」
それは恐らく、私が窓側の佐藤くんをずっと眺めているからだと思う。
「何~? 病み期か何かなの~?」
「向こうの景色が好きで……」
景色が好きではないというのは嘘ではない。
ただ景色の中に佐藤くんも含まれているというだけで……。
「お、一之瀬」
一之瀬が来た。
俺はあまりファッションに詳しくはない。そんな俺でも一之瀬に可愛さを感じた。
一之瀬は黒いミニスカートを履いており、長く白い脚が惜しげもなく晒されている。
その脚の白さは黒いスカートとの対比により際立ってもいて、可愛さだけでなく背徳感すらも感じる。
また、上半身は黒いスカートに対して白いシャツみたいなものを着こんでいて、一之瀬の胸のなさがいい感じに強調されていて逆にエロい。
で、髪はいつも後ろでまとめているものを解いている。
これもいつもとのギャップ補正なのか、惚けてしまう。
どうしてこの格好をしているのかはわからないが、とても眼福である。
「えと……、今日の服装、似合ってるよ」
「それはどうもありがとう!」
本当は可愛いと言いたかった。
でもさすがにそれは緊張するし恥ずかしいので似合ってるとあいまいな表現で留めておく。
「佐藤くんは……なんというか、シンプルだね……」
俺は白いTシャツにジーパンを履いただけの、一之瀬が言う通りシンプルな服装だ。
俺もオシャレをしてきたらよかったかもしれないと思った。
一瞬で俺はオシャレな服など持っていないということに思い至る。
「まあ大した服を持ってないから」
「でも佐藤くんの脚の長さが強調されていて悪くないと思うよ」
俺は脚が長いとよく言われる。自分では大したことないと思うけど。とはいえ一之瀬に言われるとやはり嬉しい。
「評価が悪くないどまりなのがリアルだな……」
「そりゃあ佐藤くんの顔ならね」
一之瀬に褒められると喜びもひとしおだが、逆に煽りで受けるダメージも大きい。冗談だとしても真に受けてしまいがちだ。
「あ、冗談はわかりやすく言うべきだね。真顔で言うと間に受けられやすいから。特に人間は視覚から得る情報量が全体の半分以上とも言われているから、表情は特に気にするべきだと思う!」
「ニッコニコで冗談言われたらそれはそれで怖いけどな」
「それは人柄の信頼性だね……」
つまり普段冗談なんて言わない人はもっとわかりやすく注意する必要があるということだ。
俺はどちらかと言えば冗談を言わない側に分類されるので、表情だけでなく声のトーンなど、冗談ということを強調する情報量を増やすべきだとのこと。
「ま、うまくコミュニケーションが取れているのがそのおかげなのか、ってことはわからないけどね」
「俺と対照実験でもしてみるか?」
「それは遠慮しておくよ」
その後、一之瀬はニコニコしながら他のことを語った。
普段はしないようなオシャレをすると相手の警戒心を無くしやすいのでそれもおすすめだと語った。
「オシャレと言えばそのスカート、今の気温はそんなに温かくないけど……寒くないの?」
「うーん、寒い!」
寒いならどうして履いてきたのだろうかという疑問も生まれてくるが、それは抑えてここは気づかいの見せ所。
「だったらお腹も減ったしそこの店に入らない?」
と言って俺が指差したのは有名なイタリア料理店。安い値段で美味しい料理を頂けるので俺的評価が非常に高い。
その安っぽさ――手軽さとも言う――からデートには敬遠されがちかも知れないが、友達と遊びに来るなら頻繁に利用する人も少なくないはず。
「ドリンクバーくらいなら奢るよ。俺はドリア食べるけど」
「佐藤くんが食べるなら私も何か食べようかな」
この店に入るのはどうやら間違った選択ではなかったらしい。一之瀬も嬉しそうにしている。
「あ、あとドリンクバー代も自分で払うよ」
「いや、せっかくお世話になってるんだからここは指導料ということで奢らせてくれ」
この店ドリンクバーなんてせいぜい2、300円だ。そのくらいなら構わない。
というか、一之瀬の私服を見られただけで300円以上の価値を感じている。
「佐藤くんは朝ごはん食べてきたの?」
「食べてないよ。起きたの30分前だから」
「もっと早く起きろよ~!」
そして俺たちは店に入り、各々食べたいメニューを注文した。
しかし家族と食事しているときよりもよっぽど幸せに感じている自分に気づき、自己嫌悪が始まる。
家族を好けないということは、つまり好かれず――家族にすら見捨てられた俺に意味ないのかもしれない。
「一之瀬は、家族と食事してると楽しい?」
「うん、楽しいよ!」
一之瀬ならそう答えるだろうと予期して訊いたにも関わらず少し羨ましい気持ちになる。
俺はあまり家族が好きじゃない。
これは反抗期の故なのだろうが、もしかしたら本当に家族が嫌いで、俺が異常なのかもしれない。
そう考えるとネガティブな気持ちになってしまう。
家族すらも嫌ってしまう俺に、意味はないのかも。
「あれ、佐藤くんどうかした?」
「ああいや、なんでもない……」
なんでもないと言われた。
私はこの間佐藤くんにどうかしたか訊かれてなんでもないと答えた記憶がある。
しかし、その時私はなんでもないわけではなかった。ということは佐藤くんはなんでもなくないのかもしれない。
……なんでもないがゲシュタルト崩壊しそうだ。
それはともかく。
この間もなんでもないと言った後佐藤くんは少し追及してくれたのがうれしかった。
だからちょっとは訊いてみるべきかもしれない。
「なにかあったら遠慮なく言ってね!」
「うーん。これは相談しにくいことだからやめておくけど、今度なにかあったらよろしく」
訊くべきとか言ってみたけれど結局訊くことはせず。それでも、佐藤くんはそう言って絶妙に嬉しそうな顔をした。
クールを気取っている佐藤くんだけれど、少し可愛いところもある。その割にはたまに私に、友達に一人は欲しいとかなかなか嬉しいことも言ってくれる。
「あ、ドリア来た」
「佐藤くん先に食べていいよ」
「俺熱いのあんまり得意じゃないからちょっと待ってから食べるよ」
この間普通に給食の、熱々のスープを飲んでいたのは私も知っているのだけれど、少しくらいは見栄を張らせてあげよう。
一之瀬が笑顔で、弟を見るような目で俺を見ている。
これ、一之瀬が気にしないように熱いの苦手って言って一之瀬の分が来るのを待ってるというこの状況を、見抜かれているかもしれない。
「そういえばドリアって学校じゃ出ないよね」
「あれ? この間出てなかったっけ?」
「……俺の記憶力、全然ないのかもしれない」
一之瀬と二人きりで楽しくおしゃべりをしている間に、一之瀬の分のドリアが運ばれてきた。
俺はドリアには卵載せる派だが、一之瀬は載せない派のようだ。
「一之瀬ってドリアに卵載せない派なの?」
「うーん、今日は卵は良いかなーって思って」
訂正、一之瀬は載せない派ではなく単に気分の問題のようだ。
「ドリンクバー奢ってくれるなんて意外とコミュ力あるんじゃないの~?」
「おう、ありがとうな」
「佐藤。信頼ってわかるか?」
信頼。信じられる、物事を任せられるという気持ちを持つこと。
俺は大体そんな感じに認知している。
「信頼って、大事だと思わないか?」
「そうですね」
実際、お金だって信頼が基になって成立しているシステムだし、信頼がなければこの世の中はこんなにうまく回っていない。
「じゃあ、信頼ってどうやって得られると思う?」
信頼を得る。
どうするのだろう。
俺が答えられずにいると、先生は周りにいた他の先生に尋ねた。
「うーん、やっぱり遅刻とか信頼を裏切らないことをしない、とかでしょうかねえ……」
1人の先生が答えたが、自分でもその答えに納得していないのか、唸るように首を捻った。
「俺はな、これまでの結果ってものが大事だと思うんだ」
確かに先生の言う通り、成績のある人には期待という名の信頼がかかる。これからも、これまで同じ以上の結果を出してくれるのだろう、と。
やはりそれは存在の意味となり得る。
「それで――佐藤は、どんな結果を出してきた?」
「えっ……と」
すぐに浮かぶような結果を出した記憶がない。
特進クラスにギリギリ縋り付いている程度の成績が、これまで出してきた結果とは言えないだろうし……。
「結果だけじゃない。これまで努力をしてきた実績があるだろうか?」
「いや……ないすね」
少し勉強すれば、暗記に力を入れるだけで、簡単に点数を取ることができる英単語テスト。
みんなの平均点は90点台後半。俺のこれまでの平均点は20点台後半。
これは自分の手抜きが引き起こしたことであるというのは一目瞭然だ。
暗記が苦手というわけでもないので、ちゃんと練習をしていれば得点できるはずなのに。
「そうだな。そんなお前の意味は誰が認めてくれるんだ?」
「いや……誰も」
「受験というのはな、学力を測るために試験をさせているわけじゃない。受験という1つのことにどれだけ本気になれるのか。それを確かめるために試験をさせているんだ。3年とは言わないが、1年間、受験に本気になったならそれ相応の成績は普通得られる。つまり受験はこれまでの実績を確認し、最初の信頼を築く1歩目になるというわけだと思う」
一理、いや百里くらいあるかもしれない。説得力のある論だ。
「佐藤は、ここで受験に挑戦することを諦めて、ここからの信頼を得られると思わない」
これも正論だ。
俺も、社会に出て努力というものをこなせる自信はない。
「だから、ここで、努力の練習をしてみないか?」
理性的には、この先生は俺がこの塾を辞めると塾の売り上げは微妙に落ちる。
つまり客を逃がしたくないから引き留めているかもしれない、という考えが頭をよぎるのだが、俺はこの先生が俺を気遣っていると、何の根拠もなくそう思ってもいる。
今日はとりあえず釈放された。
しかし、先生の言っていたことは努力をしない人間に意味はない、という風に俺には受け取れてしまった。
それを心に決めたうえで努力をしろというメッセージなんだろう。
それからも俺は努力をしたくない、疲れるから、という多分ここ周辺の中学生で一番ダサい理由で逃げようとしている。
そんな自分には当然存在価値がないことをわかっている。
でも自らに何かしらの意味を求めてしまう俺がいることに気づき自己嫌悪に陥ってしまう。
最近一之瀬となかなかうまくいっていて調子に乗っていたその熱に冷や水をかけられ冷まされたかのような気分になる。
周囲から見たら本来は全くうまくいってないのかもしれないのに、俺は勝手に勘違いしていたのかもしれないなどと、今の自分に関係ない部分すらも思い起こされてしまう。
自分を否定することがより自らの魅力の低下につながると分かり切ったうえで、それでも自己嫌悪をしてしまう俺が嫌いだ。
家に帰って一之瀬に連絡をしようか迷うが、病み期みたいな人間に話しかけられたとてうれしくなるはずがないので自粛。
後から振り返って、やはり連絡した方がよかったかもしれないと思った。
ゆえに、今後はどんなときでも、悪い方向に転びそうだとしても勇気を出して連絡すると心に決めた。
今は春休み。明日も塾だ。15時から選択講座、17時半から通常授業。
やっていられない。今年から受験生。今はまだ春期講習。夏からは本番、夏期講習が始まる。
うちの塾は夏期講習もだいぶハードだ。特進から落ちてマシになったとはいえやはり授業頻度は多い。
俺の存在意義も分からない中、たかだか受験のために一生懸命勉強をしているポーズだけでもとらなければならない。とてもつらい。
家に帰って、ゲームの世界に逃避することくらいが俺の生きがいだ。
だがうちでは、夜にゲーム機は没収される。つまり夜の俺は実質死んでいるようなものだ。
夜にやることがないのでアニメを見るのだが、その主人公は例えば圧倒的な努力で最強クラスの能力を手に入れたり、もしくは完璧な少女の隣に並び立つために必死で努力したり。
そんな人々を見るたびに、努力ができない俺は人間としても魅力が存在しない、いわば人間として失格なのかというようなネガティブな発想が生まれる。
とはいっても、努力さえすればあの主人公たちのようになれるという考え方もあり、それが全能感を与えてくれるので、それが主な理由となって俺はアニメをよく見る。
これは別にライトノベルとかでも変わらない。
まあ、後で努力すればいいとか言っているから俺はいつまでも駄目人間の問題児なのかもしれないけれど。
今日は月曜日なので、春休みとはいえこの学校の大抵の部活はないようだが、一之瀬の所属している部活は今日あるらしい。
部活なんて俺からしてみたら、休みなのに本当によくやるよ、と思う。
とはいえ当人たちが楽しくてやっているなら外野が口を出すようなこともない。一部の部活の顧問はそういうことをわかってないと思う。
別に一之瀬の部活がなくてもずっと会話をしているわけでもないのだが、部活があったらあったで寂しい気持ちになる。客観的にキモすぎて軽く引く。
『部活行ってくるね~』
一之瀬から連絡が来た。
先ほどまで会話をしていたのでこれからしばらく会話はできないというニュアンスだろう。
何かしら気の利く言葉で返そうと思ったが、浮かばなかったのでありふれた『頑張ってね』という言葉を送り付けておく。
部活なんてよくやるな、とは思っているのだけれど、やはり夢中になれるものがあるということは羨ましい。
俺も何かに夢中になれたら、自分の意味が分かっていたのかもしれない。
俺が劣等感を抱いているのは、部活を辞めたことに対してではない。ただ何にも夢中になれなくて、その中でみんな夢中になる部活動にすらも夢中になれないことに、劣等感を抱いている。
佐藤くんは部活を辞めたらしい。だから春休みはゆっくりしているようだ。
このことによって私の佐藤くんへのイメージは、周りの評価を気にせず自分の行動を貫けるというものになっていた。
空気が読めないとも言えるけど、佐藤くんはいろいろ考えた末辞める決断をしたらしいので概ね高評価だ。
それはともかく、家に帰ったら佐藤くんと連絡できるのだけれど、部活のうちはスマホを使えないので、そのうちに佐藤くんから何か連絡が来て未読無視と思われたらどうしよう。
とか思ってみたけれど、佐藤くんは前に既読がつかなくても既読無視でもしばらくは気にしないと言っていた。
大事そうな連絡を受けることはあんまりないので気にしなくてもいいかもしれない。
「一之瀬集中しろ~」
女子の体育とか、女子部活とか、女子ばかり担当している顧問がそう注意したが、身が入らない。
「返事~」
「は、はい!」
一之瀬は多分まだ部活をしている。
このタイミングに連絡をしたら迷惑にならないだろうか。
いや、そもそもこんな、配慮にもならないことを配慮している時点でキモイかも。
と言いつつこの間の反省を生かし、結局は勇気を出して送信ボタンをタップ。
『今度相談したいことがあるんだけど、日曜の13時以降って2時間くらいもらえない?』
別にLINEで相談しても構わないんだが、すると一之瀬に会えない。
それに人を誘うことはコミュニケーションの練習にもなるじゃんとか言い訳しつつ誘う。
よく考えたら日曜なんてほぼ一週間後だし楽しみにしてる感がキモく感じてきたけど、送信取り消しをするとそれはそれでなんか嫌だ。
それにもしかしたらワンチャン一之瀬が俺に気がある可能性も微粒子レベルで存在している可能性が無きにしも非ずという感じなのでとりあえず気にしないでおく。
「一之瀬……好きだよ……」
そう呟くとなんかメンヘラ味というかキモいというか愛が重いというかそんな感じが出ている。
けれど今は家にいて誰に見られるでもないのだからそんなこと気にしてても仕方がない。
眠気を感じてしばらく眠っていたらしく、目が覚めると正午頃になっていた。
うちの学校は、基本的に3時間で部活が終わるはずで、一之瀬は9時ごろに出るという連絡をしていたのでもう帰っているだろうと考えスマホを開く。
「うーん未読かあ……」
大昔一之瀬に、未読でも気にしないとは言ったものの、やはり未読だと一抹の寂しさというものは感じる。
いや、よく考えたら変えるのにも時間がかかるだろうし帰ってすぐスマホを見るわけじゃないか。
「あ、既読ついた」
最高のタイミングでLINE開いたなあとか考えつつ一之瀬の返信に最速で既読付けてもそれはそれでしょうがないので1試合10分のゲームを起動した。
しばらく時間が経ったのち、残り2分でプレイ中に一之瀬からの通知が画面に表示され、画面の半分くらいが埋まりオブジェクトのラストヒットを取られてしまった。
その試合は結局負けた。
「ちっ。ああ、まあ一之瀬に怒っても仕方ないし普通に返信するか……」
と一人呟き一之瀬からのLINEを確認する。
『大丈夫だよ~。それにしても突然そんな連絡して、私に会いたくなっちゃったのかな?ww』
複芝かつ全角……。一之瀬、やるな。
そんなことよりも一之瀬の煽りが絶妙にうざい。しかし頼みごとをしている側なので強く言えない……。
「やった!」
小さく囁くように声を出してしまい、咄嗟に口元を抑える。
部活から帰ってきてしばらくぐったりしたのちにスマホを開きLINEを確認すると、佐藤くんから日曜日に会う誘いの連絡が来ていた。
嬉しさを隠すように佐藤くんに連絡をする。
多少弄りも交えて返信すると嬉しさを隠して見せられるということを知っているので、そういう意図でメッセージを入力したのだけれど……。
予想以上に、私が佐藤くんに気があるように見えてしまった。
「それで佐藤くん、相談って何?」
「俺の長所って、何だろう?」
俺は春期講習に行かされているうちに、何のために勉強しているのかわからなくなってしまっていた。
自分の意味もないのにわざわざ努力をするなんて馬鹿馬鹿しい。
「俺だけにしかないものって、なんだろう?」
「随分と、重いね」
先ほどまでニコニコしていた一之瀬だけれど、俺の話を聞いた瞬間真面目な顔をした。
一之瀬はそういうところがあるから、一之瀬だけにしかできないというわけではないけれど好きになってしまうのだ。
でも、一之瀬には人に好かれる要素があるが、俺には、何か人に好かれる要素――延いては俺の存在意味はあるだろうか。
「私は、佐藤くんのそういうところは好きだよ」
「……え?」
「自分の価値について考えちゃうんでしょう? その気持ち、私も分かるよ」
「え? 一之瀬に?」
一之瀬は真面目で、やるときには努力ができる。そういう人なのだ。
だから、一之瀬に自分の価値を考える機会なんてないのだろうと思うけれど。だって、努力をしたなりにいい結果は出してくるから。
「私、親とか周りから期待されたことしかしてこなかったんだよ」
「辛いのか?」
「そうだね……。周りが望んでいることをやるだけだから、自分で考えないんだから、代わりなんていくらでもいると思っちゃう」
原因となる方向性は違うが、結果的な悩みはほとんど同じだ。
周りから言われたことしかできない一之瀬と、周りから言われたことはできない俺。対照的に見えても、内情的には同じなのか。
一之瀬には彼女特有の考え方というものが見当たらない。自分なりに考えることができなくて、周りの言うことに従う機械のようで、それなら機械に代えさせればいいだけのこと。
対して俺は、自らの考え方というものがあるなりに、結局自分の考え方は通らないと思われ、信頼されるということがない。
俺も一之瀬も、周りから必要とされていないように感じるのだろう。
「俺は……。自分が行ってもどうせやってくれないから、俺に頼ってもどうせ意味がないと思われそうなんだよな」
「「自分が必要とされていると思えない」」
一之瀬と俺の悩みが、見事に重なった。
「佐藤くん」
一之瀬が、無理をしていそうな笑顔で俺に話しかけた。
「私は、佐藤くんのこと、必要だよ」
まるで告白のようだ。
「今はこれだけしか言わないけど、いつか――私のことが必要だと思ったら、いつでも相談しに来てね」
「それじゃあ別れみたいじゃないか。不吉なこと言わないでくれ」
いつでも、と言っているしそんなこともないのか。
「大丈夫だよ。絶対別れない。代わりに、佐藤くんが自分の意味を見つけられたら私と――、付き合ってくれないかな?」
一之瀬に必要と言ってもらえるなら――これまで肩身が狭い気持ちだったけれど、少しだけ息がしやすくなったような気がした。
そんな一之瀬からの告白。断れるはずもない。
「もちろん。その時に一之瀬が自分の意味を見つけられていたらね」