第84話 偽りの勇者の宿泊先
商業都市ベナレスに僕たち夫婦が到着したのは、深夜12時だった。
それは、異世界生活30日目に日付が変わる時刻だ。
月の満ち欠けは、この世界においても約29.5日。この夜は、ちょうど新月になる一歩手前であり、まだ東の空から昇っていない。
今から24時間後の夜は、完全な新月となるだろう。つまり、この30日目は、太陰暦を使用するこの世界において、新しい月の1日となる。
7月1日だ。
もはやこれ以上、何日目と数えることは、あまり意味を為さないであろう。
「日付が変わって7月になった。ついに僕たちがこの世界に来てから、一ヶ月が経ったんだな……」
星しか見えない空を見上げて、僕が一人呟くと、嫁さんが意外そうな声を出した。
「え、まだそれしか経ってないんだっけ?」
「あれ、そう感じる?」
「うん。いろんなことがありすぎて、ずっと前からこの世界にいたような気がしていた」
「確かにいろいろ起こり過ぎだな……そして、気づけば犯罪者扱いだ」
「考えてみたら、こんなに長い間、蓮くんとずっと一緒にいるなんて、初めてかもね」
嫁さんからそう言われて、僕は笑った。
「本当だ。そう言われると、ほぼ毎日、24時間一緒にいるな」
「その分、喧嘩も多いけどね」
「それは百合ちゃんがワガママ言うからだよ」
「はぁ?蓮くんが自分の言うこと曲げないからでしょ?」
「……やれやれ。たまには一人になりたいもんだ」
「よく言うよねぇーー。私がいなかったら、蓮くん何回死んでるか、わからないくせに」
「なんだよ。僕が死んだら絶対、泣くくせに」
「え…………」
言葉どおりに夫婦喧嘩がまた勃発するかと思われたが、僕の反撃に嫁さんは黙り込んでしまった。
それは、ちょうど木造自動車1号をベナレスの外にある林に隠した時のことだ。そよ風に吹かれながら、宝珠システムによる薄いライトアップで照らされた嫁さんが、はにかんで言った。
「もしかすると、私、今が一番幸せかも……」
「……は?僕たち、追われてるんだよ?」
「うん……でも、こうなったお陰で、蓮くんがすごくカッコよく見える。こんなに頼りがいのある人と一緒にいられて幸せだなぁ、なんて……」
嫁さんの思いがけない告白に、僕は息を呑んだ。
「百合ちゃん……」
「蓮くん……」
見つめ合う二人。”勇者”に課せられたイチャイチャ禁止の制約さえ無ければ、今すぐ木造自動車の上に嫁さんを押し倒したいくらいだ。だが、僕の分析している現状は、それを許さなかった。
「そんなこと言ってくれるのは、すごく嬉しいんだけどね、実はもうお金がほとんど残ってないんだ」
「えっ!!」
いっきに現実に引き戻され、ドン引きする嫁さん。
「ど、どうして?あんなにいっぱいあったのに!」
「毎日の宿泊や食費を考えたら、そこまでの蓄えじゃなかったよ。どっかの誰かさんが、食欲旺盛でめちゃくちゃ食べるしね」
「そ!それはこの世界に来て、強くなったら、私、ものすごくお腹が空くようになっちゃったから!」
真剣に言い訳する嫁さん。
その様子を見て僕は笑った。
「ていうのは冗談で、王都マガダのハンター支部で僕が宝珠を買ったでしょ。あれが高くついちゃったんだ」
「あっ……そういえば、城下町を見学した時に立ち寄ったね。上位魔法だって言って、蓮くんテンション上がってた」
「あの時、高い買い物だから、百合ちゃんに相談したでしょ?」
「うん。金貨15枚だった」
「あれで所持金の90%以上使っちゃったんだ」
「えぇぇぇぇ!ちょっと!どうしたの?蓮くんらしくないよ!」
「ごめん。どうしても僕の夢に必要だったから。それにあの時は、ここまで事態が悪化するとは思っていなかったし、あわよくば、王国から軍資金がもらえると期待してたんだ」
「そ……そっか…………」
当時のことを思い出し、嫁さんとしても気軽に購入を許したことを後悔しているようだ。
「あとは、ごめん。クルマの材料を買ったり、備品を買ったりしているうちに財布がほぼスッカラカンになってしまったんだ」
「嘘だよ!蓮くんのことだもん。お金を使い過ぎてゼロになっちゃうなんて考えられないよ」
「それは、もちろんそうだよ。正確には、残り銀貨10枚。あと3日くらいで完全に一文無しになる」
「お、お金を稼ぐ考えは何かあるの?」
「追われる立場の人間が収入を得る方法があるのか、正直言ってわからない」
そこまで僕が言うと、嫁さんが絶望して崩れ落ちた。
「あぁぁぁぁ……そんなぁ……私を養ってくれない蓮くんなんて、蓮くんじゃないよぉ……」
「おいコラ……さっきの感動を返せ……」
「だって、私、お金の稼ぎ方なんて知らないもん……」
引きこもりの専業主婦が、まったくもって正直すぎる意見をぶちまけた。
「当てがないわけじゃない。シャクヤと合流すれば、打開策があるかもしれないんだ。だから、彼女に会いに行こう」
「……うん。わかった。ところで、蓮くん……」
「なに?」
「その金貨15枚もした宝珠って、なんなの?」
少し恨み節を込めて聞いてくる嫁さん。今さらだが、当然の質問だ。
「これはね、地属性の上位魔法、【破砕修復】だ。この世界で唯一存在する修復魔法なんだよ」
「え、修復?」
「そう。こうやって使うんだ」
僕は、久しぶりの行為だが、システム以外の宝珠から魔法を発動させた。
巨大な魔法陣が木造自動車の下に現れる。すると、自動車が光に包まれた。そして、先頭部分にあったヘコみが、元の平らで艶やかな木面に戻った。国境の町で魔族にぶつかった際についた傷が修復されたのだ。
「すごっ!」
「これこそまさに、クレイジー・ダイヤモンドでしょ?」
「うん!」
「ただし、【破砕修復】という名称どおり、破壊された部品が全て揃っていないと修復できない、という弱点がある。存在しない物体を補完するなんて、おかしな話だから、当然と言えば当然だ」
「ごめん。今のは、よくわからなかった」
「つまり、バラバラになった物は修復できるけど、消えて無くなった部分については、そこは直せない、ってこと」
「それは当たり前の話だね。そもそも壊れた物を修復できるって、それだけですごすぎることだと思う」
「でしょ?これがあるだけで、自動車保険は対人保険だけで済むんだよ」
「いや、もっと他にも例があるでしょ……」
僕の例え話に呆れる嫁さんだったが、次に思い浮かんだ彼女の疑問は、少し真面目な声で発せられた。
「……ねぇ、これって人に使ったらどうなるの?」
それは、まさしく僕が夢に思い描いている事柄だった。
「いい質問だよ、百合ちゃん。この修復魔法を人間にも有効にすること。それが、僕の夢なんだ。今のままでは、人には使えない。人に修復魔法を掛けたら、どうなるのか。あまりにも悲惨なことが起こる、とだけ言っておくよ」
「よくわかんないけど、こわっ……」
「もともと僕は、下位魔法と一部の中位魔法しか持っていなかったから、『宝珠システム』は、下位魔法を組み合わせるように作り上げたんだ。でも、どんなに組み合わせを可能にしても、上位魔法そのものは発動できない。だから、僕の夢を実現するためには、どうしても修復魔法の宝珠が必要なんだ。この宝珠から派生させて、上位魔法を用いたシステムを構築したいんだ」
「それって、もしかして、今日助けられなかった人たちも助けられるってこと?」
嫁さんが目を輝かせて聞いてきた。
「うん。修復魔法と治癒魔法を組み合わせて、完全な『回復魔法』を作る。『宝珠システム』なら、それが可能だ」
「そういうことなら大賛成だよ!お金はまた稼げばいいんだから!よし!じゃあ、また頑張ろう!ベナレスで、ひと働きするよ!」
元気を取り戻した嫁さんが、明るく立ち上がった。
僕は、彼女を連れて商業都市ベナレスに入った。
深夜といえども、この自由都市は、出入りが容易であった。
ただし、入口の門を通ると、すぐそこに騎士がいた。以前に来た時には、そんなことはなかったので、おそらく僕たち夫婦を探している連中だろう。僕がコリウスに発見されたのが、この街だったので、戻ってくる可能性が高いと踏んで、ここで待ち構えていたのだ。
「百合ちゃん、隠れて」
僕が嫁さんに言う前に、既に彼女は勘付いて気配を消していた。
「もし、君、ハンターのようだが、プレートを見せてくれないか」
案の定、僕を呼び止める騎士。
僕は、加工済みだったハンタープレートを見せた。
「シルバープレートの『ロータス』か。よし、通ってよいぞ」
「どうも」
ここはラージャグリハ王国の国外であり、彼らにそんな権限は無いはずだが、この都市でも騎士は偉そうに取り締まりを行っていた。
「この自由都市で、あんなことをやっていたら、そりゃあ、ハンターギルドから嫌われるわけだな……」
僕は一人で呟いた。
街に入ると、その様子は以前と比べて何も変わっていないように見えた。
隣にいるはずの嫁さんに僕は尋ねる。
「百合ちゃん、街の噂はどうなってるかな?」
「やっぱり”偽りの勇者”とか”ニセ勇者”って言葉が、いろんなところから聞こえてくるよ」
「そっか……」
「私たちがシルバープレートの夫婦だってことは、もう前から有名になっちゃってたみたいで、今は、”ニセ勇者夫婦”って言われてる」
「え……」
「あはははははっ!私たちの二つ名、”ニセ勇者夫婦”になっちゃったね」
「いや、笑い事じゃないよ!」
なんということだろうか。
かつて、ハンターギルド本部で、副本部長のカンファーさんから、”名のあるハンター”になったからには悪名を轟かせることがないように、と冗談混じりに忠告されたものだが、それが現実になってしまった。こんなことなら、”名のあるハンター”になど、なるべきではなかった。
僕と嫁さんはギルド本部の隣にある、かつて宿泊していた宿に到着した。
それは、宿泊場所を探すことと同時に、一番の目的を果たすためだったのだが……
「ダメだね。やっぱりシャクヤちゃん、いないみたい。ぶっちゃけ私、蓮くんよりシャクヤちゃんの方が気配を追いやすいんだけど、この街に入ってから、あの子の気配を全く感じないんだ」
「てことは、今はこの街から離れているのか……留守番をすると言ったのに、いなくなるなんて、シャクヤらしくない気もする」
「うーーん……でも、あの子、時々、信じられないくらいの天然ぶりを発揮することがあるからねぇ……」
「とりあえず、今夜はここに泊まろう。さすがにもう眠い」
「それはやめた方がいいよ。騎士が目を光らせてる」
「え?」
「すぐそこにも騎士がいるよ。前に監視の目を向けられた時があったけど、あの時みたいに街中で人を雇って、怪しい人を探しているみたい」
「まずいな。この街では僕の顔を知ってる人間がいるかもしれない……不用意に出歩くこともできないか……なら、人気の無いところに行こう」
僕たちは、人気の無い場所を探して、大通りから逸れた道に入った。
途中、朝まで営業している酒場があった。料理の匂いが漂ってくる。食事はドライブデートの最中に軽食を済ませておいたが、ついそちらの方向に足が動いた。だが、そこからは、嫁さんの助言してくれたとおり、僕たちの噂話が聞こえてきた。
「そういえばよ!”ニセ勇者”レンって知ってるか?」
「知ってるぜ!王国から指名手配されてるヤツだ!」
「なんでも、かわいい嫁さんを連れてる詐欺師らしいぜ!」
「そんなんでもシルバープレートだって言うんだから、わかんねぇもんだな!」
「いやいや!おおかた、シルバープレートも、うまいことギルドを騙して手に入れたんだろうよ!そういうもんさ。詐欺師ってのは!」
「だったらよ!俺たちにも捕まえられるんじゃねぇか?なんせ金貨20枚だぜ!すげぇ報酬だ!」
「そりゃいいな!山分けにしてもウハウハだ!」
「それもそうだが、不正を働いてシルバープレートになったってのが、俺は気に入らねぇな!!」
「だな!俺たちで、とっちめてやらねぇとよ!そういうヤツは、見せしめにしねぇといけねぇや!」
「確かにそうだ!”ニセ勇者”は俺たちの敵だ!許しちゃいけねぇな!!」
聞いていて、さすがに肝を冷やした。
噂が尾ひれを付けるというのは、恐ろしいものだ。勘違いとはいえ、ハンターからも敵視されてしまったら、この街を堂々と歩くことは、もはや不可能と言える。これは、本格的に正体を明かすことができなくなってきた。
それにしても、こうした噂話をキャッチしながら、それを笑い話にしていた嫁さんは、実に逞しい。口には出さないが、少し尊敬の念を抱いた。
「百合ちゃん、もっと裏通りの方に行こう」
「うん」
僕たちは、さらに横道に入り、裏通りの方へ歩いて行った。
それまでの間も、騎士に何度も呼び止められ、ハンタープレートを確認された。身分証明を偽造していたからよかったものの、それでもあまりの多さに辟易してくる。深夜に街を出歩いているのだから、それだけも怪しく見られてしまうのだ。
ただ、裏通りに入って、僕は別の意味で絶望した。
最初にこの街に来た時は考えもしなかったのだが、表通りと比べて、裏通りは別世界に思えるほど荒れ果てていたのだ。そこは、まさしくスラムだった。
「なんてことだ……華やかな商業都市の裏の顔は、やはりこんな状態だったのか……」
「うん……そうなんだよね……」
人気が少なくなったので、姿を現した嫁さんが、元気なく答えた。
「百合ちゃんは知ってたの?」
「いろいろ気配を探れちゃうからね……前に来た時は、蓮くんが風邪を引いちゃったから、この話題、あまり出さないようにしてたんだ」
「そうだったのか……それにしても、こんな場所じゃ、泊まれる所なんて無いだろうな……」
「蓮くん、あれ……」
嫁さんが指差すので、その方角を見ると、簡素な木造の埃っぽい小屋がいくつも並んでいた。
「あれが……何?」
「あ……あの中でね……男の人が女の人を連れ込んで……その……」
「え……」
「あっ、別に無理やりとかじゃなくて、つまりは……」
「まさか……ラブホ的な?」
「うん……」
「あんな埃っぽそうな小屋が?」
「うん……」
「嘘だろ…………」
嫁さんが傍受した周囲の会話から、予想外の文化を知ることとなった。
「あそこに、おばあちゃんが一人で住んでてね、銀貨1枚で、屋根裏部屋を一晩だけ間借りさせてるみたい。この辺は、そういう家がいっぱいあるんだ」
「2人で銀貨1枚は安いけど、屋根裏部屋って……いろいろ下の部屋に聞こえちゃうんじゃないか?」
僕は、ついリアルに想像してしまった。すると、そのリアルを実際に耳で聞いてしまっている嫁さんが、おかしそうに小さく笑いながら言う。
「もうね、ギッシギシいってるよ」
「ギッシギシ……」
木造の小さな家の屋根裏部屋ともなれば、そんな音が出るかもしれない。
そう考えると、僕も思わず笑えた。
「すごいんだよ。ギッシギシ、ギッシギシって……」
「ギッシギシは嫌だなぁ……」
深夜の夫婦の会話である。
下ネタでしばらく笑いあった後、嫁さんが真面目ぶって言った。
「別に聞きたくて聞いたわけじゃないからね。私だって知らなかったんだから」
「うん。わかってるよ。ところで、まさかと思うけど、あそこに泊まりたいなんて言わないよね?」
「やだよ。さすがに。それに今は蓮くんと何もできないし」
「こんなことなら、クルマのところで野営した方がマシだったな……」
「ここしばらく、野営しなくて済んでたのにね……」
「幸い、この地域は夜でも暖かい。適当に眠れる場所を探して、寝ちゃおう。野営したと思えばいいんだ」
「そだね」
僕たちは、裏通りを歩き、適当な場所を探してみた。
少しでも良さそうだな、と思う場所は、どこも既に先客がいた。
家の無い人たちが、この街にこれほどいるとは思わなかった。勝つか負けるか、全ては自己責任――という自由なる商業都市の闇の部分は、想像以上に深すぎた。
ようやく細い路地裏の袋小路に空いている場所を見つけた。
そこは、街を守る防壁の真下まで来ていた。街の最果てである。
僕は、魔法で空気を圧縮したベッドを作り、さらに周囲にも空気の壁を張った。
壁の方には、空気に含まれる水分も集め、曇りガラスのようにした。
「わぁ!これなら、外から見えないね」
「少しはプライバシーが守られるでしょ。それにしても……街の中にいるのに野営なんて、本当にごめん」
「もう。そういう話は前に済ませたでしょ?」
「でも、これはさらに情けなくなるよ」
「いいから、寝よ。私、気配を消しながら寝るから、手を繋いであげる」
「え、そんなことできるなら、壁の意味なかったな……」
「蓮くんの寝顔が人に見られないってのも重要だよ。お嫁さん的にはね」
「はいはい」
こうして、僕と嫁さんは、屋外で一晩を明かした。なんやかんやで、長時間、自動車を運転していた疲れがあり、また夕方には、戦闘と人命救助をしてきたのだ。あっという間に寝付いてしまい、いかにも治安の悪そうな地域であるにも関わらず、僕は熟睡した。
そして、この世界における7月1日の朝が来た。
日が昇りきる前の黎明。
人々がこれから起きるという時間帯。
この時刻こそ、最も働きやすいと考えている一団がいた。
基本的にその一団の狙いは、呑んだくれて道端に寝ている酔っぱらいだった。
だが、この朝は、意外にも彼らの集合場所となっている路地裏の袋小路に先客がいて、寝込んでいた。それに気づいた彼らは、自分たちのナワバリを荒らされた怒りと、完全に油断しきっているターゲットに向けた「しめしめ」という下卑た笑いとを混じらせ、抜き足差し足で近づいてきた。
そして、彼らのリーダー格がサッと近づき、袋小路で寝ている者、つまり僕の懐から、財布を抜き出した。
これに僕が気づき、ガバッと起き上がった時には、その盗人――小さな体の俊敏な盗人は、曇りガラス状にしていた壁の向こうまで走っていった後だった。
「あっ!」
なんと、その犯人は少年だった。
そして、小さく叫んだのは、僕ではなく嫁さんだ。
珍しいことに彼女も熟睡していたのか、僕の財布が盗まれるまで、彼らの接近に気づかなかったのだ。
「待って!待ちなさい!」
嫁さんは必死の形相で少年を追いかけた。
もちろん彼女のスピードに人間の少年が敵うはずもない。
曲がり角を過ぎ、姿を眩ませることに成功した、と思った瞬間、少年は嫁さんに捕まった。
「ダメよ!すぐに離しなさい!」
嫁さんは僕の財布を少年から瞬時に奪った。
そして、まさにその瞬間、雷のような電撃が嫁さんを襲った。
財布を持つ嫁さんの右手が、電流の衝突によってスパークする。
バチバチバチバチッ!!!
「えっ!」
驚いたのは、少年の方である。
予想外の現象に驚愕した少年は、腰が抜けて、その場に尻もちをついた。
電撃が止んだ後、嫁さんは優しさと厳しさを同時に含んだ声で少年に語りかけた。
「まったくもう、人の物を盗むなんて、ダメでしょ!特にウチの旦那は、財布にセキュリティ機能を付けていて、自分から100メートル以上、財布が離れると、自動的に電撃をお見舞いするように罠を仕掛けてる、とっても危ない人なんだから」
彼女の説明どおり、僕は以前に財布を盗まれた経験から、『宝珠システム・バージョン2』で財布に自動攻撃の術式を掛けておいたのだ。それは、スタンガン程度の電流を浴びせるものだが、嫁さんは当然のようにピンピンしている。
少年の方は、呆気に取られて何も言うことができない。そこに僕が追いついた。
「もう!蓮くんのせいで私の髪がチリチリになったらどうしてくれんの!だから、こんな罠はやめた方がいいって言ったんだよ!」
勢いで嫁さんのフードは外れているが、幸い、髪の毛はチリチリになっていない。というか、感電して髪の毛がチリチリになるのはマンガ的、アニメ的表現であって、実際に髪の毛が焼け焦げるほどの感電が起きた場合は、肉体的損傷も激しいのではないかと思われる。いわゆる静電気で髪の毛が逆立つのとは、わけが違うのだ。
それに、どういう理屈か知らないが、嫁さんは電流を全て右手で受け止めて遮断しており、肉体には電流が流れていなかったようだ。しかし、今はそういう話をしている場合ではないので、とりあえず僕は謝った。
「ごめん……まさか子どもが盗むなんて、思わなかったから……」
「結局、こうして私が犯人を捕まえてあげるんだから、同じことじゃん」
「そうは言うけど、今回は百合ちゃんだって、気づくのが遅かったじゃないか」
「だって、子どもの気配なんて、敵意がほとんどないし……私も夕べはすごく疲れてたし……」
「まぁ、いいよ。捕まえてくれたんだから。ところで、君、どうしてこんなことをするんだ?名前は?親御さんは?」
僕は少年に話しかけた。
「………………」
大人と話すことは何もない。と言わんばかりの態度で横を向く少年。
「ね、お姉さんたち、何もしないから、名前くらい教えて?私は百合華。この人は、ウチの旦那様で蓮。あなたはどこの子なの?」
子ども好きの嫁さんは、慈愛の眼差しで、顔を近づけながら優しく語りかけた。
すると、その綺麗な顔を横目に見た少年は、頬を赤くして小さな声で答えた。
「ス……スタンプ」
「スタンプって言うの?」
コクリと頷く少年。彼は『スタンプ』と名乗った。
ようやくベナレスに戻って来ましたので伏線を回収できます。スタンプという少年は、以前に一度登場した泥棒少年です。




