汚点と原点
決して大きな村ではなかった。
俺は、その村で生まれ、今まで生きてきた。
中央都からかなり南西、名すら廃れた古村。赤レンガ作りの家々が立ち並び、石畳が敷き詰められているという、小綺麗な村だった。が、住民の中央都移住による過疎化により、廃屋が点々としている、というなんとも変わった風貌の村だった。
古村といっても、村の周辺には開拓が進められていた。
小さな頃はだだっ広い草原、廃屋に潜り込んで遅くまで遊んでいた。
俺と、妹で。
エレナ・アイアンズ。
2歳年下で、よく俺を慕ってくれていた。
自慢の妹だと思っている。
容姿端麗、頭脳明晰。まさに完璧と言ってよかった。
いつも支えて、支えられて、生きてきた。
頼りにしてくれていた。いつだって救ってくれる。助けてくれる。そんな人物像をいつも俺に重ねていたのだろう。
だからこそ。
俺は、そんな妹を助けてやれなかった俺の罪を、いつまでも許さない。
あの日、俺達は森へ行き様々なことをして遊んだ。
木の実を取ったり、木に登ったり、鬼ごっこしたりした。
「見ろ、エレナ。あそこにリスがいるだろ?」
「うん。可愛いね。それがどうかしたの?ただのリスじゃない」
俺は得意げに言った。
「馬鹿め、あれはただのリスじゃないぞ。背中の模様が波線一本だけだろ?あれはクチナワリスといって珍しいリスだ。あいつはとても臆病で自分の巣穴に潜り込んでいるんだけど、食料の調達に度々巣穴から出てくるんだ。滅多に見れないんだぞ」
エレナは目を輝かせて笑った。
「そうなの!?じゃあ私たちかなりレアな体験をしたってことね!」
エレナの大声に反応して、クチナワリスが逃げていく。一目散に。巨木の脇の茂みへ。
それを見たエレナの顔からみるみるうちに笑顔がなくなり、肩を落とした。俺はすかさずフォローに入る、笑いを堪えながら。
「ま、まあ…また、いつかは出会えるだろ。この森だって村から近いんだから、また探しに来れば…ふふっ」
ダメだった。最後に吹き出してしまった。
エレナは睨み、うがーと吠えながら俺に向かってきた。
俺も笑いながら、逃げ出した。
ぐるぐると辺りを回って逃げた。笑いながら。
気がつけばエレナも笑っていた。
二人で、笑っていた。
今思えば、こんなありふれた状況でも、大切なものだと気づかなければならなかった。永遠にあるものだと思わないことだった。
しばらくして、笑い終えたあと。
笑いすぎたせいか、喉が渇きを訴えはじめていた。
「…少し俺は水を飲みに帰るけど、あまり遠くへ行くなよ」
はーいとエレナ。
これが一つ目の間違いだった。
エレナを。エレナ・アイアンズという人間を分かっていながら、一人にした事が。
俺は遅くもなければ早くもない、そんな足取りで村へ向かって、かえってくるまでに5分とかからなかった。
エレナが居ない。
巨木の脇の茂みの土が少し凹んでいた。
足跡。小さな子供サイズの靴の。
間違いなくエレナはここを通っている。クチナワリスを追ったらしかった。
軽い焦燥に駆られながら茂みをかき分ける。
ずっと先にも足跡が続いている。
かなり暗い。少し森へ入るだけで陽が入らない。辛うじて木漏れ日で足元がわかる程度だ。
足音を追う。今度は確実に早い足取りで。
すると、不自然に広い場所に出た。
森の中にこんな場所があるのか。
足跡は続きっぱなしだった。
足跡の先には、廃屋が見えた。木造の平屋で、窓のようなものは全てベニヤ板で打ち付けられている。
一言で言うと、異様だった。
扉が開いている。暗黒が広がっている。
小心者のエレナがあんな所へ入って行ったとは考えにくいが。足跡が続いているのだから、間違いないだろう。
恐る恐る近づいていく。
冷や汗が額を伝う。
なんだか、不吉な雰囲気がする。
早くエレナを連れて帰ろう。
玄関横の柱に手をかけ、首を入れて呼びかける。
「エ…エレナ?いるのか?怒らないから。出てこい」
おどおどとした声で言う。
一刻もここにいたくはなかった。
ギシリと大きな木が軋む音が聞こえた。
部屋の奥からだ。
目を凝らす。
ぼんやりと目が慣れてきて、部屋の全貌が目に入る。
そこには。
そこには、黒い塊に体の半分を取り込まれたエレナの姿があった。
「お兄…ちゃ…」
エレナが虚ろな目をこちらへ向けて、声を絞り出す。
「あ…あ…」
声すら出なかった。
黒い塊はエレナの身体の数倍は大きく、ぐじゅぐじゅと音を立てて飲み込んでいた。
エレナはかろうじて意識はある様だったが、限界が近そうだった。
黒い塊はなおエレナを飲み込み続け、侵食している。
この時、俺には情けないことに、エレナを『助ける』という選択肢はなかった。
人間なんてみんなそんなものだろう。
自分の危機が迫れば他者などなんの障害にもならないのだ。
唖然とその有様を凝視する俺に対しエレナは。
「助けてぇぇぇッ!」
悲痛に泣き叫ぶ。
「ひっ…あ…」
気づけば俺は走り出していた。
恐らく、声をはりあげていただろう。腕を振り回していただろう。
このとき、あまり記憶が無い。
ただ走っている最中、後ろから何やら声が響いていたが、いずれ聞こえなくなった事だけは覚えている。
木々をかき分けて、幾度か転びかけながら。
村の門を潜り、玄関を開け、滑り込む。
膝を抱えて震えていた。
そして俺は、罪を背負った。
数時間後、村の近くの森の中で全裸のエレナが見つかった。死んではいなかった。ただ、虚ろな目をして、呼びかけに対し応答が無くなった。
父と母は混乱していた。
誰かの巧妙な悪戯だろう。誰だこんなことをしたのは。と。
だが、知っている。悪戯などではない。
これは事実だと。
紛れもなく。本物のエレナだと。
不思議と涙は出なかった。
ただ、あの時感じた罪悪感と絶望感だけは。
胸にこびりついて離れないのだ。