愚蛇
ばしゃりばしゃりと水が飛沫をあげる。
かなりの距離を歩いてきた。あとどれ位で外に出られるか。
使い古され、電灯すらまともに機能していない用水路に差し込む光はまだ見えない。というか、この道はそとに通じているのか?
疲弊した身体に水の抵抗が相まって、足取りが安定しない。
「はぁ…はぁ…」
息が上がったままで歩き続ける。
この用水路に居ては生きた心地がしない。早くここから離れなければ。いや、先に助けを求めるのが先か。いつ『奴』が来るかわからないこの状態で選択を迷っている暇はないことは分かっている。だが、先程から鉄の凹む音とつんざくような咆哮が耳に届きっぱなしだった。そう遠くはない。
『奴』に関してはまだ整理出来ていない。
出来ていないというか、出来ないでいるのだ。
黒くドロドロとした巨体に赤い目。ズルズルと身体を引きづりながら迫ってくる。発育が終わった男性の走る位のスピードでだ。そのくせ追尾性能も完璧ときた。
生きて帰れる希望が無い。そう感じていた。この用水路に辿り着くまでは。
ふとした時、石につまずいてしまった。
咄嗟に腕を前に出すが間に合わず、左腕を直角に曲げた状態で肘を地につけた。
ばしゃんと大きな音を立て、水が飛び散る。
一度大きく息を吐き出し、深呼吸する。
右腕をばねに起き上がろうとするも、二の腕に激痛が走る。先程奴に開けられた穴が疼いたのだ。
「~~ッ!!」
小さくクソッと悪態をつき、右腕をかばいながら立ち上がる。
大声を出しては行けない。
奴が来る。
声を殺せ。
歯を食いしばり、再び歩きだそうとしたその時。
ベゴン、ベゴン
真後ろからだった。
身体に悪寒が走ったのを感じた。
やってしまった。間違いなく今のコケた音だ。
目を見開き、前傾の姿勢で動きを止める。
冷や汗がたらりと伝い、はぁはぁと息を荒らげる。
ベゴ、ベゴン
なんてこった。ダクトか。
意外な鉄の凹む音の正体だった。
巨体であるはずの奴がダクトなんて入り込んで、ましてや移動する事なんて有り得るのか?
だが大丈夫だ。音は完全に殺している。
大丈夫だ。大丈夫。
ベゴン、ベゴ
大丈夫。大丈夫。
ベギ、ベゴン
大丈夫。だいじょうぶ。
ベギギ…
だいじょう…
ベギン!
大きな音を立て、ダクトが完璧にへし折れた。
何故だ!音は殺していた!ダクトの耐久に限界が来たのか?
ざばぁんと黒い塊が落ちてきて、しゅるる…と気持ちの悪い音を立て、黒い塊は身体を起こした。
そういうことか。
ダクトには耐久に限界など来ていなかった。
自身の観察眼の無さにほとほと呆れ返った。
コイツは、この黒い塊は、蛇だ。
大きく俺の身長をゆうゆうと超えている、爬虫網有隣目ヘビ亜目の生物。
蛇にはピット器官と呼ばれる器官があり、サーモグラフィーのように周りの生物を探知することが出来る。
恐らく。俺は。逃げることは叶わなかったのだ。
最初から詰んでいた。
「うあああああああああッ!」
絶望に打ちひしがれて放たれた俺の咆哮は、戦闘の引き金となった。
次の瞬間、俺の身体に強い衝撃が走る。そして痛みも。
蛇が俺の右腕に噛み付いて来たのだ。
これで穿たれた穴は五つになった。
べきべきと音を立てながら骨がウエハースのように砕け折れる。
「ひぎゃあああああああああっ!!」
あまりの痛みに意識が朦朧とする。
頭ががんがんと揺れる。
ああ、しぬのかおれ。
きょう。いま。
ぶんっと風切り音がした。投げ飛ばされたようだった。
ばちんっ
人間の体から発せられていい音では無かった。
コンクリートの壁に叩きつけられたようだ。
もう腕から、頭から、脚から、至る所から血液が吹き出し、衣服がずたずたになっていた。
もうだめだ。
どうしておれが。
ずるりずるりと身体を這いよせながら。とどめを刺そうといわんばかりの眼光でにじりよってくる。
そして、大きく口を開けた。
口の中は洞。闇より黒い漆黒だった。ぽかりと、何も存在しないかのように。
ああ、しぬ…
意識が途切れる…
このまま死ねばどこへ行くのだろう?
このまま俺が死ねば周りの人間はどう思うだろう?
ちくしょう…
「エ…リナ…」
俺が時間を稼ぐ。
だからせめて、
せめて、そこにいる君だけは無事に逃げてくれ。
その時、閃光が走った。
紅い、閃光が。
音はなかった。
あったのは、一刀両断され、倒れふした蛇が上げた、水飛沫の音だけだった。