綾唄蓮華の語り部
閑話
世界屈指の大財閥、蝶咲家の本家。
それが私の生家。
もう、表立って言えることではないけれど。
私は蝶咲蓮華ではなく綾唄蓮華。
きちんと弁えて生きていかなければならないのです。
本当の家から追い出されようと、双子の兄と離れ離れになろうと、引き取られた家の主人からはまともな人間の扱いをされていなくとも、私は弁えていかなければいけないのです。
一月一日。
私は十六回目の誕生日を迎えました。
蝶咲家の新年を祝う席では、私の兄、蝶咲蓮凰の誕生日を祝う会も開かれたらしいのです。これ以上なく盛大に。
蝶咲財閥の汚れ役である綾唄家がそんな華々しい会に出席できるはずもありません。お義父様が少し挨拶に行った程度でした。
お義父様は帰ってくるなり上機嫌で、やっとこのときが来た、と、お気に入りのワインを三本も開けてしまったのです。お酒に強い体質のため、それほど酔ったりはしていませんでした。
何故上機嫌なのか。それは、私が結婚できる年齢になったからでしょう。
私には許嫁がいます。
私が綾唄家に引き取られたとき――私が三歳になってすぐ――から、結婚は決まっていました。
お義父様と、相手の親が決めた結婚です。
相手は親戚のお兄さんです。
二十九歳の、笑顔が素敵な殿方です。
そんな人と、私は今日である一月九日の夜、抱かれなければなりません。
◆◆◆
給仕により仕立てられ、給仕により着付けられ、給仕により飾り立てられた私は、某駅で人の流れを眺めていました。
いつもは休みの日だろうと制服を脱がない私だったけれど、この日ばかりはそういうわけにもいきません。
結婚式も入籍も、相手の都合上半年以上先に延ばされていますが、今夜私が抱かれるのは、私と、相手の殿方を束縛するための事実婚にほかならないのです。
お義父様の目論見通り。
いっそ、言い出しっぺのお義父様がいなくなって、結婚そのものが破談となれば、そんなことをせずにすむのに……。
「いけない」
首を左右に振って、邪念を振り払う。
「自分の幸せのために人の死を望むだなんて……私はいけない子です」
ごめんなさい。
誰にともなく謝りました。「おはよう」よりも「おやすみ」よりも、深く慣れ親しんだ謝罪の言葉。私は一体誰に謝っているのでしょう?
「お久しぶりです、蓮華さん」
ふと顔をあげると、スーツに身を包んだ紳士が穏やかに微笑んでいました。
「待たせてしまいましたか?」
「いいえ、慶兄さん、今来たところです」
お決まりの待ち合わせ文句を言ったところで時計を見れば、待ち合わせ時刻の五分前ジャスト。
できる男は細部までしっかりしています。
「ふむ、そうでしたか……しかし女性を待たせてしまっては面目がありませんね」
顎に手をあてて微笑む。
慶兄さん――蓮璉慶。
蝶咲分家、蓮璉家の家長補佐。
そして私の――許嫁。
許嫁なんて時代錯誤も甚だしい限りですが、案外そういうものは蔓延っているのです。政略結婚なんて当たり前にあることなのです。
こんな、十三も歳が離れている許嫁だって珍しくありません。
「それではどこに行きましょうか?」
待ち合わせの時間は午前十時。
流石に会ってすぐにホテルへ、だなんて、そんなふしだらなことはできません。
これは許嫁同士のデートなのですから。夜の営みは、最大の目的であると同時に付随的要素でしかありません。
「慶兄さんはどこに行きたいですか?」
「おや、女性に気を遣ってもらってまで行きたいところはありませんよ」
予想通りの反応。
私も本気で慶兄さんの行きたい場所を訊いたわけではありません。
ポーズというやつです。
「じゃあ、私、遊園地に行きたいです」
「なんなりと」
こうして、私と慶兄さんは手を繋いで、遊園地へと向かいました。
遊園地はデートスポットの定番ではあるけれど、実は初めて行くということは秘密です。
◆◆◆
ワールド・マップ。
某県某所に存在するテーマパーク。名前から推察する限り、また、入場の際に渡されたパンフレットを読む限り、世界各国の調和をテーマとし、それに沿った世界を楽しむ施設らしいです。
花鳥風月が世界を掌握しているこの国が、世界各国の調和を謳うだなんて、皮肉にもなりませんが。
ずっと前に開催されたという万国博覧会と似たところがありますが、万国博覧会と違って、人類の進歩はそれほど重視していません。
ワールド・マップにあるのは、世界各国の調和のみ。
蜜薔薇学園のような教育機関があるのにも関わらず、どの面を下げて。世界各国の調和を願うテーマパークを作るくせに、裏では武力や暴力による圧政。
子供騙しも大概にしてほしい。
……なんて、つらつらと批判的な意見を並べ立てたところで、緩む頬や高鳴る胸を誤魔化せるわけではありません。
要するに、わくわくしているのです。
生まれて初めて訪れた遊園地。
楽しみじゃないわけがありません。
マスコットキャラクターのアースくんも可愛らしいし、キャストさんの衣装も凝っている。どこかで食べ物でも売っているのでしょうか、甘い香りが私たちを包みます。
お正月も過ぎて、学校や仕事が始まる時期だというのに、入場する人はかなり多い。
「どうぞ存分に楽しんでください……と言いたいところですが、ホテルを予約してあるので、十八時頃には出てしまうことを許してください」
「わかりました。ごめんなさい、こんなわがままを聞いてもらって」
「貴女のわがままもこれが最後になるでしょうから、構いませんよ」
「……? ……はい」
私のわがままがこれで最後?
確かに結婚すればあまりわがままは言っていられないけれど、最後になるとは限らないでしょう。
慶兄さんの言い方を、かなり捻くれた受け取り方をするとしたら――まるで、私が死んでしまうみたいな。
「………………」
いけません。
そんな風に人のことを疑っては。
きっと、少し前に殺人鬼を自称するお友達ができてしまったからそんな風に思考が巡るのです。それから、学校でもそういう授業を受けるから……。
「ごめんなさい」
「なにを謝っているんですか? 謝ることなんて、なにもないでしょう」
「そう――ですね」
頷いたところで、甘い香りがより一層強くなりました。メインゲートを抜けたのです。
歩いてできる世界旅行。
そういえばワールド・マップにはそんな謳い文句がありました。
なるほど、ゲートを入ってすぐのエリアが日本なのはそのためでしょう。日本から様々な道を歩んで、世界旅行を楽しむということですね!
「ではまずはアジアのエリアへ行ってみましょうか」
「はいっ!」
私の興奮は最高潮にまで及んでいました。
いつか、ありすさんとも来れたら、とても幸せなのでしょう。
◆◆◆
ここで詳しく遊楽の様子を語ったところで物語が進むわけではないので割愛します。
空もうっすらと暗くなってきた午後五時。
私は不意に立ち止まって、
「行きましょう、ホテル」
と慶兄さんに言いました。
きっと、はしたない子だと思われたでしょう。
けれど、もうやめなければいけないと思ってしまったのです。
これ以上、楽しい思いをしてはいけないと。
あとで来る絶望を耐えきれるうちに。
奪われるならば、はやく奪われてしまえばいい。
信頼できる慶兄さんが相手なのだから、怖くなどない。
慶兄さんは、案の定面食らった顔をしました。
いつもの余裕たっぷりの笑顔が崩れたので、少し気分が良かったです。
「いいんですか?」
「……はい」
もう十分、楽しかったです。
私と慶兄さんは、タクシーでホテルまで向かいました。
ホテルは、最高級の高層ビルでした。
通されたのは、美しい夜景が一望できる個室。
ベッドは、ひとつしかない。
慶兄さんが着ていたコートをハンガーにかけながら言いました。
「お腹も空いたでしょう。荷物はここに置いておいて、先にリストランテに行きましょう。そこも予約してあるので、行かないともったいないですから」
「はい」
慶兄さんの気遣いが痛い。
私が悪いわけでも、慶兄さんが悪いわけでもないのに。
私は私の身勝手さが憎い。
このままでは慶兄さんを嫌いになってしまう。
「……その前に」
と、慶兄さんが、私の腕を乱暴に掴みました。
「う……っ!」
そして、袖をめくります。
袖を。
袖を!
「これの説明をしていただけますか」
露出した私の腕は、まるで青黒いレースの服を着ているかのように、痣が広がっているのでした。
◆◆◆
「腕だけではありません。服で隠れている場所は、全部あんな感じです。全部お義父様がやりました。抵抗すればもっと酷くされるので、抵抗なんかできません。普段は家の格子窓に腕を繋がれているので助けを求めることもできません。たまに学校帰りに寄り道をする振りをして夜遅くまで出かけてみたりもしますが、そのあとは結局折檻が待っています。家の給仕たちはお義父様が怖くて逆らえません。だから私は縋るしかなかった。慶兄さんとの結婚で、あの家を離れることを……でもそんなことをしたら、今度はお母様が酷いことをされてしまいます……っ!」
本当はわかっていました。慶兄さんが看破しなくとも、夜になって服を脱げば一緒に痣は露出する。最近はこのデートがあるから私は殴られずに済んでいたけれど、痣はそう簡単には消えません。私の代わりにお母様――本当の、一緒に綾唄家に追いやられた実母――が殴られていたことも、知っていました。
きっと私が慶兄さんのもとへ嫁げば、あの暴力はお母様に向いてしまう。
だから私は縋るしかなかった。
慶兄さんに看破され、義父の暴力が暴かれることを。
「……話はわかりました」
慶兄さんは、一通りの私の説明を聞いて、思案げに頷きました。
「それはさておき」
と目を閉じて、また微笑む慶兄さん。その目が、まるでなにか軽蔑しているようで……。
「リストランテに行きましょう。話はそのときでもできる」
「え……? は、はい」
促され、部屋を出る。めくられた袖を戻すことも忘れない。
今度はエスコートもなく、前を歩く慶兄さんを追うことしかできない。
その背中から、なにかを感じた。
恐ろしいような、哀しいような、敵意のような、善意のような……殺意?
蜜薔薇学園でも感じることの多い殺気。
しかし学園の生徒たちが放つ殺気よりも断然――怖い。
リストランテはおしゃれなフレンチでした。
慶兄さんはボーイと一言二言言葉を交わし、紙を渡していました。チップでしょうか。
ボーイは髪が長いようで、帽子の中に茶色の髪の毛を入れています。
射貫くような瞳と、一瞬だけ目が合いました。瞬間流れた、死の群像。
「どうぞこちらへ」
促され、ようやく我に返ります。通された席は夜景を眺めることができるVIP席。
「すでに注文はしてあるので、存分にお話できますよ、蓮華さん」
「はい、慶兄さん」
「学校生活は楽しいですか」
「……楽しいです。家にいるよりは、ずっと」
「そうではなく、友人と話すなどして楽しめていますか、という意味です」
「それは……」
思わず唇を噛んでしまいました。
友人と呼べる人など、先日知り合ったありすさんだけ。
学園の生徒は、私が蝶咲分家の娘だというだけで遠巻きにしている。ちょっと囲まれてなにか言われることはあるけれど、大した被害ではありません。でも――とても寂しいことは確かです。クラスも、最も成績の悪いクラスなのでいい目で見られていません。成績の悪いクラスに配属されているのは、お父様――こちらは本当の、蝶咲家当主であるお父様――の配慮ですが。
慶兄さんはそんな私を見て察したのか、それ以上追及しませんでした。
ただ一言「地獄のようですね」と呟いただけ。
なにか言い訳がましいことを言いそうになったところで料理――フルコースの前菜――が運ばれてきたため、そこで会話は中断されました。
食事の時間は、静かに流れていきました。
美味しいはずの料理の味は、ほとんどわかりませんでした。
何故でしょう。
以前ありすさんとお食事をしたときはとても楽しくて美味しかったのに。
慶兄さんも、ありすさんと同じくらい大切で大好きな人なのに。
どうしてこれほど、近付きがたく感じてしまうのでしょう。
「指輪」
「はい?」
「その指輪、蓮凰君とお揃いですね」
慶兄さんは私の右手小指にはめられた指輪を見て言いました。
「はい……」
「学園でも仲がいいのでしょうか?」
「はい、仲良くやっています。でも、私は劣等クラスで、蓮凰ちゃんは特別待遇クラスですけど……」
「まあそこは、貴女は一切悪くありませんがね」
ワインを上品に口に含み、励ましているのか事実を言っただけなのかわからないことを呟きました。
「あの……」
「なんです?」
「どうして、私の、か、身体のこと、気付いたんですか?」
「……答えたら、貴女は私を軽蔑しますよ」
「構いません」
「………………」
慶兄さんは、口を開かない。
私は黙って、慶兄さんを見つめた。
「……軽蔑するというのは、ただの脅しです。申し訳ありません。そうですね、動きがぎこちなく見えたから……でしょうか」
「ぎこちなく?」
「はい。椅子に座るとき、腕が物にぶつかったとき、例を挙げればきりがありませんが、貴女の動きの端々には、怪我をした人間の素振りが含まれています。確信するまで少々時間がかかりましたが、そこは流石、蜜薔薇学園の生徒……と言わざるを得ませんね。それくらいの出来ならば、十分特別待遇クラスでもおかしくありませんよ」
隠したつもりでいた。
動かすたびに痛む身体を、慶兄さんが心配しないように、隠し通したつもりでいました。
そうでした。
慶兄さんも、蜜薔薇学園に通っていたのです。
しかも、あの蜜薔薇学園で、伝説とまで謳われた名生徒。
頭脳明晰、才色兼備。
座学、戦術の授業において、肩を並べることができた者は、上級生でさえ存在しなかったと言い伝えられる、謀略の天才。
そんな人に、私などが隠し事などできるはずもありません。
「なんでも、お見通しなんですね……」
慶兄さんは、どこまでお見通しなのでしょう。
私の心象まで、読めているのでしょうか。
「私……私は、慶兄さんが大好きです」
幼いころからずっとお世話になっているお兄さんなのですから。
けれど、私は――結婚したいわけではない。
白馬の王子様を信じているわけではない。
白馬の王子様なんて現れない。
それでも私は、いつか王子様が現れるのを信じている。
なんて愚かなのでしょう。
「………………」
慶兄さんは、溜息をひとつ吐いて、
「わかりました」
と言いました。
「蓮華さん、今日はもう帰りなさい。ホテルの前に車を待たせていますので、それに乗るといいでしょう」
「え――でも、今日は」
「安心してください。貴女はもう、望まぬ結婚などしなくていいのです。ついでに、義理のお父さんに暴力を振るわれることも」
「え……え?」
てきぱきと食器を片付けて、帰り支度をする慶兄さん。
そしてさっさとリストランテをあとにして、ホテルのロビーへ向かいます。私も慌ててあとを追いました。
ロビーでは、私の荷物を持った女性が姿勢よく佇んでいます。
「安心してください、私の部下です。蓮華さんはこれで、そのまま家へ帰ってもらって構いません。……それでは、蓮華さんを頼みましたよ、榛さん」
「仰せのままに」
私が戸惑っていると、慶兄さんは他人に安心をもたらす笑顔で微笑みました。
「それでは蓮華さん。また会う日まで、息災を」
そして私は促されるまま、女性――榛さん――に車に乗せられ、ホテルを後にしました。
◆◆◆
その日、私は本当に蝶咲家に保護され、そして数日後、私とお母様は実に十四年ぶりに、蝶咲を名乗れることになりました。