屍人は死なない 2
「インクが切れたわ」
それから一時間後、集中して仕事を進めていたアリシアがポツリとそう呟いた。
彼女の手には今時珍しい羽ペンが握られていて、そのペンで机に置かれたインク瓶の底をカツカツと突っついている。
ボクはすぐに新しいのを用意しようと、予備の仕舞ってある棚から取り出そうとした所で手が止まった。
「残念だけど、買ってこないといけないみたいだ」
「……………」
そんな不満たらたらな目で見られた所で、ないものはないのだから仕方ない。
ちょうど掃除もひと段落したところだ。今夜の夕食の買い物ついでに買ってこよう。そう思って、ボクは出かける準備を始めた。
「今夜は何が食べたい? って、あれ? アリシアもいくの? 珍しい」
「うるさいわね。だってあなた、インク売っている店まだ知らないでしょ?」
言われてみればその通りだ。アリシアが普段使うものは、いつも彼女が自分で買いに行っている。買うだけで整理整頓は全部ボク任せにしているけど。
「どうせ道を教えたところで迷うだけでしょうし、ついて行くほうが手っ取り早いわ」
「まるで人を手のかかる子供みたいに言わないでよ」
「胸に手を当てて思い返してみなさい、クラウド。実際、以前に地図を書いてあげた時にはまる二日帰ってこなかったじゃない」
「うっ……」
それを言われてしまえば、ボクはもうぐうの音も出ない。
あれはまだここに来て間もなかった頃とは言え、この年になって今更、しかも二日間も迷子になっていたなんて。できるなら記憶の彼方で永遠に眠っていてほしい忌まわしい過去だ。
けどそれには、目の前にいる彼女にまず忘れてもらう必要がある。
確か記憶の改ざんが得意な魔女がこの街にはいたはずだ。今度お願いしてみよう。
「そういうわけだから、不本意だけど買い物に付き合ってあげるわよ。さっさと準備しなさい」
そう言って、アリシアは特におしゃれをする気配もなくボクを急かした。
「はいはい。少々お待ちくださいませ、お嬢様……」
まあ、どんな理由でも彼女が少しでも外に出てくれるならいいかと、そう思うことにした。
✝
ファルフィナの街は一年を通して気候はほとんど変わらない。
常に快適な気温で、晴れと曇りと雨を適度に繰り返している。
そのためか、道端には咲く花は一年中変わらない。青紫、黄色、白色。鮮やかだけれど、華やかすぎないその色彩は、この街とよく調和していた。
本日の天気は、快晴とはいかないまでも、いい天気だと言えるくらいには太陽が眩しかった。
そんな陽気にあたって一五時の頭は眠気を覚えるが、道の真ん中で眠りこけるわけにはいかないので我慢する。
隣の彼女はといえば、そんな様子もなく規律正しいリズムで足を動かしていた。
不機嫌なのか、それとも生まれつきそんな顔なのか、ずっとその仏頂面を見続けているせいでもはやわからなくなってしまった。
笑えば華やかだろうと容易に想像できるだけに余計惜しいと感じるのだが、それを言ったところでアリシアが笑うとも思えない。
「あら。クラウドに、アリシアちゃん! 久しぶりね! たまには外にでないとダメよ」
そう声をかけてきたのは、近所に住んでいる不老不死のおばちゃんだ。呪いで死ねなくなってしまったらしい。
「姫様じゃねぇか。顔を見るのは久しぶりだなぁ」
そのちょっと先では、これまた不老不死のおじさんがガラガラ笑ってそう言ってきた。彼は悪魔と契約して不老不死になったと言っていた。
さて、ここまでで分かる通り、アリシアは引きこもりの質がある。薄暗い部屋で仕事や、もしくは本ばかり読んで人をあまり接しようとしないのだ。
まあ、アリシアが何故そんな性格になってしまったのか、想像に難くないだけにあまり踏み込むこともできないのだけれど。
「愛想だけでも見せてあげたらいいのに」
「手でも振れって? そんなことをして、私になんの得があるというのかしら」
「少なくとも、みんなからもっと好かれるだろうね」
「ほら、ないじゃない」
頑ななその態度に温かい目を向けていると、殺気の篭った目で返された。つり目が更に鋭さを増して、すごく怖い。
「だいたい、ここの人たちは何故みんな私に挨拶などしてくるのかしら。みんな、私のことなんて好きじゃないでしょうに」
「みんな、キミのことが好きだからさ。でなきゃ、買い物に行く前に手荷物がこんなに増えるなんてありえない」
ボクの両手には溢れんばかりのおすそ分けが抱えられている。食材の半分は買わなくてよくなりそうだ。彼女が愛されていないというのなら、この世に愛なんて存在できないだろう。
「意味がわからないわ……」
「分からなくていいんだよ。キミには分からないことなんだから」
不死の宿命を負った者にとって、アリシアという存在がどれほど特別で大切か。キミは知らなくていい。永遠を知るには、キミはまだ幼すぎる。
それにたぶん、そんなことを抜きにしても、キミはみんなにとってかかけがえのない存在だ。
「……………」
納得していなさそうで、でも理解はどこかでしているように、彼女は言葉をそこで止めた。
長いとも短いとも言えない時間を、ボクは彼女と過ごしてきた。だからボクは、彼女が理知的な人間であることを知っている。分からないことを分からないと認められるくらいには、彼女は大人だ。
「ところで、少しだけでも持ってくれる気はない?」
両手とも退屈しているアリシアにそう訪ねてみる。けれど、
「あいにくと私はペンよりも重いものは重すぎて持てないのよ」
そんなことを言うだけで、手伝ってくれるつもりはまったくないようだ。
最初から期待はしていなかったボクは、それでもため息を一つ盛大に見せつけて、まだ行きの――つまりは帰りもこの手荷物以上のものを持って通ることになる道を歩くのだった。