不死者の姫
死神なんていうものがいるのだとすれば、それはきっと彼女のことなのだろう。
その街は巨大な白岩を削って作られたような街だった。どれもこれも似たような建物で、入り組んだ迷路のような道は余計に旅人を惑わせる。
ボクがこの街を一人で歩いたならば、たちまち道に迷うことだろう。
以前、彼女と他の街に行ったことがあったけれど、そこでは逆に彼女が道に迷っていた。彼女いわく、
「特徴がありすぎて目が疲れる。ここはまるで迷路ね」
とのこと。
さて、そんなこの街の高台には一件の不思議な店があった。
【死にたがり屋】というのが、その店の名だ。
何を扱っているのかは、ここを訪れたお客様だけが知っていることだろう。
つまりこの街に住む誰もが知っているということだ。
かつてはその立場だったボクもまた、正しくこの店のことを理解している。
しかしこの店の紹介をするにはまず、この街の事から話さねばならないだろう。
この、世界で一番不思議な街を。
「そろそろ死のうかなと。私はもう、十分に行きましたから」
「……そうですか」
ここに来るお客様は決まって同じことを言う。そして彼女もまた、同じようにいつもの言葉を返した。
二回目には、彼女はその言葉を受け入れることにしているらしい。
らしいというのは、彼女に聞いたのではなく見ていて自然と気がついたことだからだ。
「あなたの人生は満足の行くものでしたか?」
「ええ、そうですね。やりたいことはあらかたやったし、後悔も散々してきた。人を愛したこともあれば憎んだこともあった。悲しいことも嬉しいことも、大変多く経験してきたような気がします。だから、あとは死ぬだけなのです」
そのお客様は、紳士という言葉がよく似合う初老の男性だった。
確かにそれなりの人生経験を積んでいそうな人物だ。けれどそれでも、せいぜいが五十年といったところだろう。まだまだこの先がある。
けれどそうではないのだと、ボクは知っている。彼がその外見にそぐわぬ程の年月を生きてきたことは、そう……他の誰よりもこのボクが知っている。
「お別れは済ませてきましたか?」
「はい。皆、快く受け入れてくれました。またすぐにあっちで会えるさと笑いながら」
答える彼は笑っていた。少しシワのよった頬が、細くなった目が、その笑みが偽りでないことを教えてくれる。
「本当に、あたたちは死にたがりですね……。何故そんなに死にたがるの? 私には分からない……」
対して彼女は憂鬱そうだった。心底分からないと、理解不能だとため息をつく。
「そうですね。生きたいと願う人は多い。生きられないのは辛いでしょう。そんな誰かからしてみたら、私のこの望みは贅沢なのでしょうな。しかしね、死ねないというのも辛いのです。いつも、私は取り残される……」
「ここではそんなこともないでしょう」
「ええ……。ここは大変居心地がよかった。あるいはここで永遠の時間を過ごしても良いと思えるくらいに」
「ならそうすればいい」
「確かにそれも悪くない。悪くないが……それ以上に私は会いたいのです。これまでに先だった友人たちに。妻に。私は会いたいのです」
彼は遠い目をしていた。思い出に目を向けていた。それはとても優しく悲しい目だった。
「あの世なんて、あるかも分からないのに。あったとしても、あなたが同じ場所に行けるとも限らない」
「それも分かっています。それでもね、心優しいお嬢さん。私は死のうと思うのです」
「……分かりました」
三度目。やはり彼女はいつもの言葉を返した。
彼女は手袋を外した。真っ黒な手袋を。そこから現れた手は、驚く程に白かった。紫外線など一度も浴びたことがなさそうなその純白は、だから死の色なのだと思った。
「何か、言い残すことはありますか?」
「いいえ。何も」
「……それでは、私の手を握ってください」
そう言って差し出した手を、彼はそっと握った。
握った手は、雪のように静かに溶けて消えた。
死が、彼を迎えに来たのだ。
そして彼の体を、死はゆっくりと包んでいく。
その中で彼は穏やかな、けれどその陰に少しの心残りを隠したような顔をした。
「ありがとう……ファルフィナの姫(アリシア・A・ファルフィナ)……」
彼は最後にそう言い残して、死んだ。
何一つ残さず、跡形もなくこの世界から消えた。それが彼女の死の形だ。
「…………」
彼女は自分の手に残った温もりを確かめるように握りしめた後、再び手袋をはめた。
「お疲れ様。大丈夫?」
「大丈夫よ。もう、慣れたわ」
そう彼女は言うけれど、その表情は暗く沈んでいた。
優しい彼女が人の死に慣れることなんて、きっとこの先も永遠に来ないだろう。
それでもボクは止めることができない。
これは彼女にしかできないことだから。それを彼女もわかっている。だから彼女は投げ出さない。ボクらは、そんな彼女の優しさに縋っている。
最低で、自分勝手な願いを叶えて貰うために。
死にたいという、どうしようもないことのために。
この街の名は、ファルフィナ。
不死者が死を望み、最後に行き着く場所だ。