奴隷と出会い
両親が死に独り身となった私にとって、家族三人とその使用人とで暮らしていたあの屋敷はあまりにも広くて使い勝手が悪かった。
いっその事売り払い小さな家を建てることも考えたが、子供の頃から暮らした家、そして両親が残した物と考えると、気軽に捨てることも出来ない。
では雇っていた家政婦と暮らせば良かったのか、それも一つだろう。しかし事情を知る彼女たちと一緒にいることが、私には耐えられなかった。
かくして私は何も知らない。新たな隣人を求めて街に繰り出した。
気が滅入るような曇天の日。雨が降る前に用事を済ませようと私は早足で、通行人の脇を通りすぎる。
久しぶりに歩く街の石畳は酷く歩きにくかった。
一日だけでも御者を雇えば良かった。と私は早くも後悔していた。
後悔が曇天とともに私の心を暗くした。
暗くなった心から色々な感情が湧き上がってきた。それはどれも碌でもなく、魅力的な考えだった。
私はその考えに支配されそうになった時、路地裏から少女の悲鳴が聞こえた。
私は思考を一時中断した。心のどこかでホッとしている私がいた。
何か有ったのだろうか。憲兵に知らせるべきか……。
いいや、違う。そんな事はあの時に学んだはずだ。彼らはいつも終わった後にやってくる。
私は足を路地裏の方向に変えた。
ほんの気まぐれだった。
路地裏はさらに道が悪く。瓶が転がっていたり、乾いた吐瀉物が張り付いていたり、とても貴族の私が入るべき場所では無かった。
私は足を進めながら耳を覚ます。悲鳴は一度きりで、以降は何も聞こえてこなかった。
それでも、何かが有る。そんな確信をもって足を進めた。
そして路地の角に差し掛かりそれを見つけてしまった。
異国の服に身を包んだ少女と、それを取り押さえる三人の男たち。
人攫い。不味い。
そう思った時には遅く、後ろから現れた男に声をかけられた。
「嬢ちゃん。こんなところで何をしてる?」
その声に三人の男もこちらに気がついてしまう。前に三人の後ろに一人、狭い路地ではそれだけで逃げ場がなくなってしまう。
私は諦めながら振り返る。三人の男と違い後ろにいた男は身なりが良く。高価そうなアクセサリもしている。
どうやら彼らは人攫いよりもタチの悪い連中らしい。
「……奴隷商?」
「おや、それが分かっているなら、もしかしてお客か? だったら、店の方に顔を出してくれ、今日はそこの奴隷を回収に来たんだ」
ちらりと後ろを向くと少女が男たちから逃れようと暴れていた。よく見れば額から角が生えていた。
異人。物好きに売れば様高く売れるのだろう。だからこそ彼らもこうして回収作業をしているのだろう。
「ちなみにあの子いくら」
ほんの気まぐれで私はそう聞いた。家政婦を探そうと思っていたが、まぁ奴隷でも変わりはあるまい。
「嬢ちゃん笑いが、あの奴隷は加工前だ。鬼なんて危険な種族だ。きっちり意思を砕いて、腕の一つも潰さなきゃ、危なくてお客様に売れねぇよ」
男は鬼の娘が今から受ける。辛い未来をなんの気もなく言った。あまりにも普通に話をしたせいで、背後の男たちは下卑た笑いを浮かべ、少女は身近な悲鳴をあげた。
そして少女のこの先の未来を知った私は少しだけ、同情してしまった。
「勿体無い。私はあのまま欲しいわ。加工の手間もなく売れて、貴方にはいいと思うけど」
「おいおい本気か? 嬢ちゃんはサディストだったのか? 嬢ちゃんのそんなか弱い腕じゃあいつは扱えねぇぜ」
奴隷商の男はそう言って大声で笑いだす。
その挑発的な態度に、イラっとした。
「貴方。さっきから嬢ちゃんって舐めすぎよ」
私は服のポケットから、私の家のエンブレムが彫られた金貨を投げ渡した。
男はそのエンブレムと私の顔を交互に見ながら、恐ろしいものでも見たような表情をした。
「前金には十分でしょ。残りは私の家に取りに来なさい。言い値を払うわ」
私は出来るだけ威厳たっぷりに言い放った。
すると奴隷商は慌てて何度も頷くと、声を震わせて叫ぶ。
「お前ら、そいつはお客様のもんだ。手を放せ」
突然の変貌に不思議がりながらも、ゆっくりと身長に鬼の娘を解放した。
鬼の娘は地面に膝をついたまま立とうとしない。
私はゆっくりと少女に近づき手を差し伸べると、少女が動いた。
いいや、動いた。そう気がついたのはその瞬間じゃない。
私は女の子とは思えない力で壁に押し付けられた。その姿勢になったところで、初めて少女が動いたことを知覚していた。
そして、そんな事をすれば動くのは少女だけじゃない。
四人の男が同時に動こうと――
「動かないで」
私はその一言で男たちを牽制すると、目の前の少女の顔を見た。
「何が、目的でありんす?」
「何も、強いて言えば家政婦が欲しかったの」
その答えが気に入らないのか、私を押さえつける力が強くなった。
確かにこんな力を振るわれるなら、腕の一本も折ると言った奴隷商の言葉は正しいだろうな。とこんな時にもかかわらず、そんな事を思ってしまう。
「それじゃあ私からも質問。私をどうしたいの?」
少女が私に顔を近づけて耳元で静かに言った。
「お前を殺して、此処から逃げる」
私は思わず笑ってしまった。
そしてそれが気に入らないのか、喉を押さえつけていた腕に力が入れられた。
突然呼吸を制限され、笑うのを止めて咳き込んでしまう。
「私を殺したら、また貴方は四対一を演じるのよ。逃げられるわけないでしょ」
「それでも」
少女は子供らしい無策で愚かな夢を見ていた。
私はその夢があまりにも儚いもと知っていて、可哀想になった。
だから気まぐれに優しく、少女にだけ聞こえるように言った。
少女は私の顔を驚いた表情で見た後、背後をチラリと確認した。
「わかりんす」
そう言って私を押さえつけていた手を放す。
私は自由になった喉で一度深呼吸をした。美しいと言えない路地裏の空気を名一杯吸い込み吐き出した。
「それじゃあ、この子連れて帰るから」
私は勤めて冷静に言った。
男たちは何故突然少女が大人しくなったのか、驚いているようだったが追求することはせず私たちに道を譲った。
そんな驚いた顔をしなくとも、別に特別なことはしていないのにと私は呆れてしまう。私があの短時間で信頼を得たなんて思ってるのだろうか、私はただ人質にした方が逃げやすいと教えただけなのに。
なんにせよ。私は無事に帰路につくことが出来た。久しぶりの一人じゃない家に少しだけワクワクしている自分がいた。
しかし、当然ながら話はここで終わらない。
人質なんて自分が安全になれば荷物にしかならないのだ。
つまり誰もいない郊外の屋敷。なんて場所に入った時には役目は終わるのだ。
扉を開けて屋敷の中に入った瞬間、突き飛ばされて私は床に転がった。
「何が、目的でありんす?」
それは二度目の質問だった。しかし、一度と違うのはそこに込められた感情。
一度目は不安そうな声音だったが、二度目、すなわち今回は怒りが感じられた。
「さぁ、何でだろ」
本当にわからなかった。
家の仕事をさせるなら家政婦を雇えばいい。こんな高い奴隷を買う必要はない。
「私は逃げる為に、お主を殺さなきゃなりんせん」
「そう」
殺すと言われても、何も感じなかった。そもそも、あの日に私は死ぬはずだった。
「怖くないのかえ」
「そうね。あまり」
その言葉に毒気が抜かれたのか鬼の娘はため息を吐いた。
呆れた。と言いたげに私を見てくる。
二人の間に流れる微妙な空気、殺す事を躊躇う少女と、殺されても良いと思う私。
結論を出すには時間が必要だろう。
「ねぇ、ココアでも飲みながら考えない? こんな風に考えるよりきっと有意義よ」
その言葉に鬼の娘はため息を吐きながらも同意してくれた。
だから私は二人ぶんのココアを淹れた。そして、私たちは並んで良い案を考えた。
しかし、結局はその日良い案は生まれず、保留となった。
そしてそれは今日に至っても保留が続き、我が家のココア消費量は増える一方だった。