……今度は、間に合った
光が消えて目を開けたアスカが見たのはまるで地獄であった。炎に包まれる街、逃げ惑う人々。嫌な記憶とともに胃液がせり上がり、彼は口元を押さえた。焼ける建物と人のにおい。嫌でも思い出すのは故郷を奪われた日、仲間を虐殺された夜。
「くっ……」
それでも顔を上げて走り出そうとしたが、足がもつれた。バランスを崩した彼は炎に照らされる石畳に膝をついてしまった。魔力は空っぽとはいえ大した運動をしたとは思えないが、汗が身体中から噴き出している。
夜空を羽ばたく巨大な鳥が港方面へ向かっていくのが見えた。
「大丈夫ですか」
声音は柔らかい女のものだった。ふわりと揺れたのは先ほど船の上で出会った男と似通った白い法衣。差し出された手には頼らず立ち上がれば、相手の顔はアスカと殆ど同じ位置にあった。
「テレポ酔いです。数分で回復しますのでご安心を」
「あんたは?」
「……まあ、忘れていますよね」
ふふ、と女は笑って腰のホルダーから三つに分けられた棍を取り出し、それを繋ぎ合わせた。
「自己紹介はまたの機会に。この混乱で、外から魔物が入り込んだようです。それを排除したのち、ガルーダの対処をしましょう」
女は棍を振り、アスカの背後に迫っていた小鬼をなぎ倒した。淑やかそうな外見と裏腹に、戦闘能力は高いようである。そもそも、神官がこのような武器を持っているのは珍しいことだ。
アスカはいくつかの疑問が浮かんだのだが、それを一度打ち払い、短剣を構えた。
「早く片をつけたいんだが」
そうでなければ、逃げずに戻った意味がないのだ。剣を振り小鬼を一突きしたアスカを見やり、女は頷いた。
「我の言の葉は神の言の葉、以て彼の者を駿天となす――ファスト!」
慣れた魔法、だが慣れぬ他人にかけられる強化魔法。アスカは多少の違和感を覚えたものの、普段よりも効果が高いのを実感しつつ地面を蹴った。
最短距離で港まで抜けるには、商業地区のど真ん中を突っ切るようになる。宿場や酒場も軒を連ねる地区だが、そこも焼け落ちた区画があった。アスカは舌打ちをして、神官らしき女と並走する。
「水……、消火済みなのか」
港街のテメは水が豊富であるし、国としての機関もしっかりしているから、対処が早いのかもしれない。しかし、それにしては焼け跡を的確に水が流れたようであるし、炎の形跡がない建物には同じく水の跡もなかった。
「普通の水ではありませんね。魔導士の精霊魔法でしょう。しかしこれだけの水量となると、テメには水の上級魔導士が複数人いるのでしょうか。そんな話は聞いたことがありませんけれど……」
「ああ、テメの魔導士じゃなくてどこぞのガキだろ、たぶん」
アスカの脳裏に自慢げに鼻を鳴らす橙色の髪をした少年魔導士が浮かんだ。アスカが見たクルセルドの魔法は火と風だが、二つ使えるなら三つ、もしくはすべての属性の精霊魔法を使えるのかもしれない。
ということは、やはり彼らはこの事態に逃げるのではなく対処しようとしているようだ。クルセルドはともかく、エレナがそうするだろうから、ザッシュと彼は従うに違いない。アスカの足元で、残った水がばしゃりと跳ね上がった。
港の門を通り、ガルーダを探す。その弱り切った巨体はあっさりと見つけられたが、どうにも状況は最悪だった。ガルーダの爪を受け止めて身動きの取れないザッシュ。そのガルーダの嘴にともる炎。射程範囲内には逃げようとしている二つの影。
「あなたはガルーダを!」
言うが早いか、隣にいた女が駆けだした。口の中で何かしらの呪文を唱えているようだ。それとほぼ同時、アスカは助走をつけるとガルーダの翼を踏み台に駆け上がり、長い首の付け根、最も太い血管が通る場所に刃を突き立てて全体重をかけて切り裂いた。
※
エレナがクルセルドと出会ったのはまだエレナも幼い頃、七、八年ほど前の話だ。母親と一緒に出掛けた先で出会った、泣き虫の男の子。警戒心が強く、いきなり魔法をかけられた。周囲の大人たちは彼を排除しようとしたが、エレナはそうしなかった。
――やめてよ。この子、怖がっているだけじゃない。ねえ、さっきのは魔法?
――ま、まほう……、の、はず
――凄い、凄い!私あんなの初めて見たわ!
――俺、すごい……の?何で、お姉ちゃん、褒めてくれるの……?
――え、凄いよ。だって、この中に今のをできる大人がいる?いないわよね?
自分のことのように胸を張って大人を見回したエレナを、男の子は驚いたように見ていた。そして彼女が渋い顔をしている大人たちに鼻で笑って見せれば、彼はくしゃりと顔を歪めて泣き出した。まるで、生まれたての赤ん坊のように。
それから、クルセルドはエレナとともにいる。今ではすっかり生意気になってしまったけれど、エレナにとっては可愛い弟に等しい存在である。
ごぼ、と水中で止めていた息が水泡に代わる。エレナは水を蹴り、海面に顔を出して空気を吸った。
「クール!」
必死に上げた顔、彼女の目がとらえたのはクルセルドの背中とその正面で堰き止められた炎。そして、翻る紅に照らされた衣だ。そしてそれは、少年のものではなく、彼を守るように立つ別人の衣服であった。
「え、何……」
驚くのも束の間、魔鳥の断末魔が響いた。巨体そのものを踏み台に跳びかかった人物の刃がガルーダの首の血管を切り裂いたのである。炎を吐き切り最後の力も失ったガルーダはそのまま首を完全に地面につけ、息を止めた。
エレナは海から陸に上がると、クルセルドに駆け寄った。彼は彼女を振り返ることもせず、目の前で銀髪を揺らした女を凝視していた。「あんた」とつぶやくクルセルド。振り返った彼女に、エレナも見覚えがあった。白い神官の法衣、尖った耳、手には棍。
「案外、自己犠牲的な方なのですね」
「あなた……、確か、ミシェル……さん?」
「どうぞ、ミシェルとお呼びくださいませ」
にこり、と笑ったミシェルを、クルセルドは礼を言うこともなく睨みつけている。しかしミシェルはそれを気にしてなどいないようで、自分の衣を脱ぐとエレナの肩にかけた。そして、「エレナ!クール!」と彼らを呼んだザッシュの方へと顔を向けた。
エレナはザッシュに応えて手を振ったが、それはすぐに止まり、ゆっくりと下ろされる。ザッシュの後ろをのっそりとついてくる黒い影を見つけたからだ。
赤みを帯びた、けれどこの時間には漆黒に見える黒髪、身軽そうな装備も黒く、宵闇に紛れて行動する彼らしい。そう、それはこの港の手前で別れ、今はマートイ行の船に乗っているだろう青年だった。
「アスカ……?何で……」
アスカは出会った時と変わらない、面白みのない無表情でつまらなそうに言った。
「船のチケットが売り切れてたんだ。それで街の近くにいたらとんでもないのが飛んで来たから。どうせあんたたちが無茶してると思って」
「いや、流石に押しつぶされるかと思ったけどアスカがとどめ刺してくれて助かった」
「もう虫の息だったけどな。撫でるな」
わしわし、とアスカの頭を撫でまわすザッシュの手を、彼は無造作に払いのけた。
「だったらもっと早く来いよ、遅いっつーの」
「無茶言うな。街がどんな状況だと思っている。逆走だぞ、こっちは」
文句を言いつつもどこか嬉しそうなクルセルドにアスカは実に真面目腐った調子で返した。ザッシュが「照れなくても」などと言いながらまた彼の頭を撫でて、クルセルドが脇を小突くのを、アスカは振り払うことすら面倒くさいとでも言いたげな顔でされるがままになった。
その様子を見つめていたエレナの足が、ふらりと一歩前に出る。「エレナ?」とクルセルドが呼んだが、彼女は答えることなくアスカの前に立つと、そのまま彼の胸に額を預けた。
「……馬鹿じゃないの」
いつものように、我関せずと逃げてしまえばよかったものを。レストフで「自分の身は自分で守るものだ」と言ったのはアスカだというのに。彼に言わせるなら、首を突っ込んだ彼女たちにすべての責任があり、アスカには関係のない話なのだから。
エレナは震える指先で彼の服を掴んだ。
「でも、ありがとう」
「あまり、役には立っていないけどな」
淡々とした声が降ってきたと思った拍子。エレナの背中にアスカの腕が回ってその身体を引き寄せた。戦闘の運動や緊張によるものではなく彼女の胸は大きく鳴った。クルセルドの悲鳴がザッシュの掌に塞がれたが、アスカもエレナも気付かなかった。
アスカは冷えた彼女の身体を抱きしめて、白い首筋に顔を寄せた。少し早いけれど、確かに脈打つ彼女の身体に安堵して深く息を吐いた。
「……今度は、間に合った」
ぼそりとした呟きは、エレナにしか聞こえなかったが、彼女はしっかり受け止めるとゆるりと手を持ち上げて、アスカの頭をそっと撫でた。
「うん……、ありがとう」
うんうん、と頷くザッシュの拘束から身をよじって抜け出したクルセルドは「離れろ!」と二人の間に割って入り、彼らは身体を離した。威嚇する子猫のようなクルセルドを見下ろすアスカは涼し気な表情のままだが、対するエレナは頬を赤く染めている。
「お前なぁ!」
「怒るな、安心しろ。磯臭い平らには妙な気など起きないから」
「な、なんですって!」
先ほどとは別の理由でエレナは頬を真っ赤にして、肩にかけられた法衣の前を引き寄せた。そしてそこではたと気づく。
「そういえば、ミシェルもありがとう……、あれ?」
「いないな」
先ほどまでそこにいた女神官の姿がない。ザッシュがふむ、と考えるように口元に手を当て、クルセルドは忌々し気に舌打ちをした。どうやら聖族に助けられたことが彼には気に入らないらしい。
「はは、ガキだなクール」
「そういうところ本当子供っぽいんだから」
「お前ら、俺がいなきゃガルーダ倒せなかっただろうが……!」
ザッシュとエレナの言葉にクルセルドのこめかみには青筋が浮かんだ。ひくひくと表情を引きつらせる彼に「ああそうだ」と言ったのはアスカである。
「ガルーダの火がまだ街に残っている。消せるか」
「穏やかに、な」
ザッシュのつけ足しに、クルセルドは唇を尖らせた。ある程度出力を抑えたとはいえ、最初に使ったのは攻撃用の水魔法だ。あれを再度街全体に放てば洪水か高波に襲われたのと大差ないことになるだろう。
「レイン」
クルセルドが言えば、大気中の水分が集まって、低い位置に雨雲を形成した。そして、それは再度水滴となって地上に降り注ぐ。「おお」だの「やればできる」だの言っているザッシュとアスカに、彼はぎろりと睨みをきかせた。
「言っとくが元々攻撃用補助魔法だからな。本当ならこの後風属性の上級魔法で雷落とす」
「お前、本当クソガキだな……」
アスカの言葉にクルセルドはまた噛みついたが、対照的に魔法の雨は静かに降って炎を鎮圧、燻っていた小さな火種すらも全て消していったのであった。