あんな奴が勇者なんて嫌
アスカと別れたエレナたちは、テメの街でまずは宿屋を探した。三人一部屋、荷物を置いてとりあえずは身体を休めることにした。この提案をしたのはエレナであり、ザッシュもクルセルドも反対などしないのだが、少し意外だった。エレナのことであるから、ここまで来ると先を急ごうとするのではないかと思っていたのだ。
しかしながら彼女はベッドに身を投げ丸くなってしまっている。寝ているわけではないのだが、元気そうにも見えない。
「引き止めればよかっただろ。俺は、アスカが勇者じゃないかと思っていたし、エレナもそうだろ」
言ったのはザッシュだった。二人が旅を始めてからというもの、魔物に襲われたことは何度もあるが、アスカに出会ってからその頻度はぐんと増していた。それに、夜な夜な彼がひとりで戦っているのを、エレナは知らなくてもザッシュは知っていた。
「まあ確かに、狙われやすいとは聞くな。でも俺、あんなやる気ないのが勇者とか不安だぞ」
椅子に座り頭の後ろで手を組んだクルセルドが言う。「確かにな」とザッシュは苦笑した。
「昔、お父さんが言ってたの。勇者は神によって選ばれる、本人が望むと望まざるとにかかわらず、そうなるようになっているって。だからもし、私が本気でその存在を求めれば、自ずと現れるだろう、って。」
エレナはごろんと寝返りを打ち、仰向けになると腕で目元を隠した。
「アスカは行ったわ。だから勇者じゃないよ。それに、私もあんな奴が勇者なんて嫌」
唇を引き結んだエレナを見て、ザッシュとクルセルドは顔を見合わせた。肩をすくめて苦笑するザッシュにクルセルドは唇を尖らせている。
エレナは彼らの妹のような、姉のような存在だった。今まで大切に守ってきたつもりだが、どうやらあの盗賊の男が掠め取ってしまったらしい。顔立ちは悪くないし、どこか影のある雰囲気が年頃の少女には魅力的なのかもしれないが、性格には問題がありすぎるのではないだろうか。
「エレナが休むなら俺は晩飯まで街の様子を見てくるよ。人間側の動きが気になる。」
「そうだな、頼む。ずっとここにいるわけでもないだろうから、俺は装備と食料を整えてこよう」
ザッシュとクルセルドはそう言ってそれぞれ部屋を出て行ってしまった。残ったエレナはベッドの上から動かなかった。
エレナには、使命がある。それは誰に言われたわけでも強制されたわけでもない、自分自身で決めたものだ。彼女は何としてでも魔王を倒さねばならない。
しかしそのために必要な存在である勇者に課せられる運命が酷く残酷であることも、彼女は知っていた。たとえアスカが勇者だったとして、彼に背負わせることが、彼女にはできない。彼は他人とのかかわりを避けたがるし面倒くさがりだが、本当は心根の優しい青年であるから。「行かないで」などとエレナには言えない。できるのはせいぜい悪態をついて、餞別に薬を投げつけてやることくらいだった。
それから、どのくらいの時間が過ぎただろうか。エレナが身体を起こすと、窓の外はすっかり日も暮れて建物には明かりがともっていた。エレナは空腹を覚えて立ち上がる。ザッシュとクルセルドもそろそろ戻ってきていることだろう。夕食は階下の食堂でとることになっているから、下で待っていることにした。
階段を下りて食堂に向かうと、賑やかな声が聞こえてきた。鉛が埋め込まれたようだった胸のあたりが少しばかり軽くなるのを感じる。エレナはひとつ息をつき、扉を開けた。
多くの宿屋がそうであるように、この宿も二階以上に客室が、一階には食堂があって宿泊客以外も利用している。港町のテメは船乗りが多く、また彼らの多くは酒好きだ。酒類の揃えのいい店は繁盛し、夜でも街全体を活気づける。
店内を見回し、席を探すエレナの前を、小さな女の子が駆けていった。
「お父さん、お父さん!見て、リナ、お父さんにお守り作ったの!」
「おお!すごいなありがとう。これで次の航海もばっちりってもんだ!」
どうやら船乗りたちとその家族のようである。エレナは和気藹々とした様子をそっと見守った。
――お父さん!これ!エレナお薬作ったの!元気になる薬!
――そうか。エレナは母さんに似て賢いな
――きゃあ!ちょっとエレナ!あなたそれ毒草よ!
幼い頃、もう遠く、遠くなってしまった記憶。エレナはもうその時を取り戻すことはできないけれど、今ここにいる少女たちを守ることはきっとできるはずだ。そう、思った瞬間だった。目の前を赤い光が横切った。
「え……」
次の瞬間、吹き付ける熱風。エレナは腕で顔を庇い、目を閉じ、足を踏ん張った。
「あっつ……」
少し目を開けると、彼女の前十歩ほど先からの景色が、一変していた。そこに広がっていたのは食堂のはずなのに、何もない。溶けて変形したガラス窓の向こうに黒くなった隣の建物が見えた。
その間はやはりただ黒々としていて、嫌なにおいと煙が立ち込めている。そして僅かに残ったテーブルの脚が炭となり燃えていた。
「嘘……」
数秒前まで、そこで家族が、仲間同士が談笑していた。少女が嬉しそうに笑っていた。そのはずなのに。
一拍おいて聞こえたのは悲鳴、それから雄叫びであった。空が見えるようになっていた上を仰げば、翼を広げる巨大な鳥が嘴に炎を灯しているではないか。
「ガルーダ……!なんで、こんな!」
ガルーダはカカ山に住む魔族だ。言語を操ることはなく、強力な炎を吐き出し、山を守る巨大な鳥の一族である。確かに攻撃的な性格をしてはいるが、山を下りて人里を襲うなど聞いたことがない。
「エレナ!」
くすぶっていた火を、水流がかき消した。ガルーダが焼き払った跡を建物の残骸や他のものを巻き込んだ水が流れていく。
駆けてくるのはすでに剣を抜き放ったザッシュとクルセルドだ。ザッシュはエレナを守るように立ち、クルセルドは彼女に怪我がないことを確認する。
「エレナ、武器と指輪を取ってこい!」
「う、うん」
「つーか、普通の荷物と一緒にしとくなよ、反省しろよ、身につけとけよ!」
「ごもっともだ、魔導士様」
クルセルドの正論を聞きながら、エレナは駆けだした。幸い、彼女たちが取っていた部屋は攻撃にあっていない。しかしながら、あるべき階段は焼け落ちてなくなっていた。エレナは踵を返し、クルセルドを呼ぶ。
「クール!空飛ぶ魔法とか使える?」
「無理!」
確かに空を飛ぶ魔法というのも文献には登場するが、伝説と呼ばれる空間操作魔法の類である。天地の理を捻じ曲げることのできる魔導士など、今の世の中には存在しない。少なくともクルセルドはそう考えている。そして彼にできるとすれば、風の精霊魔法で飛ばすことだ。しかしそれでは、かけられた者が風圧で怪我をするか窒息することが想定される。
「翼をもたない種族が空を飛ぶには重力反発が必須なんだ。しかも極地的な。魔力の一点集中と出力の計算式と―」
「クール、今それ言っても俺もエレナもさっぱり分からないからいい」
「そうだなごめん」
しかし、このままここでガルーダと戦えば、建物は間違いなく全壊する。これを避けるには、とザッシュは周囲を見回した。テメの衛兵たちが駆け付けたようで、弓矢を構えてガルーダを狙っていた。
「エレナ、クール、一旦逃げるぞ」
「え」
「衛兵たちがいる。敵を港に誘導しよう」
確か、最終便が出航して今港は人が少ないはずだ。かなりの広さもあるので、宿屋や酒場、商店が密集するこの地区よりは格段に戦いやすい。
「それに、これ以上街中でクルセルドの魔法なんかぶちかました日にはガルーダ以上に恨まれる」
「消火してやったのに」
「もう少し穏やかに消してやれ」
三人は駆け出し、衛兵たちに合流する。弓矢と槍を手にした彼らは突然飛び込んできた三人組に驚いた。
「旅の者か?ここは我々に任せて逃げなさい!」
「そういうわけにもいかなくてね」
「あなたたちは街の人を街道側へ避難させて。私たちがひきつけるから」
エレナは兵士のうちの一人から弓を奪い取り、矢をつがえた。見据えた先のガルーダの嘴の先に見える炎が強さを増していた。狙いを定めて弦を引き、放つ。夜空を裂いた矢はガルーダの右目をとらえた。だが。
「まずい!」
一瞬遅かった。ガルーダの吐き出した炎は居住区方面に向かって放たれたのである。街を炎が駆け抜けていく。
「クソ……!」
「消火と救出、避難が先だ!二人ずつ各地区へ伝達!」
「は!」
隊長らしき男の指示で衛兵たちが走っていく。エレナはそれを見送り、ぎりり、と奥歯を噛みしめた。今の一撃による被害がいかほどのものか、正直なところ考えたくもない。
しかしながら彼女の矢はガルーダの気を引くことには成功していた。右目から血を流し、エレナの方へと顔を向けた。そしてその顔を、空中で集められた水分が形成した球が包んだ。
「こっちだ、デカブツ!」
北側、港方面からのクルセルドの魔法であった。呼吸ができずに苦しいのであろう、ガルーダは大きく首を振って水を振り払う。
「ザッシュ、エレナ、走るぞ!」
クルセルドが魔法を解除し、三人とも全力で港へと走る。それを追うようにガルーダも羽ばたいた。どうやらうまく食いついたようだ。しかしガルーダの飛行速度は速くないとはいえ、羽ばたく度に衝撃波が起こって建物のガラスを割り、屋根を吹き飛ばしている。
「で、ザッシュ。港についたらどうするんだよ」
クルセルドの問いかけに、ザッシュはにっこりと笑った。
「とりあえず飛ばれたままじゃ斬れないから叩き落してくれ」
「確かに、火なんて吐かなくても吹っ飛ばされそうだしな」
クルセルドは額に嫌な汗を浮かべつつ笑って見せた。石畳を駆け抜け大きな門をくぐれば港である。商業船が荷を積み降ろしするそこは開けていて、彼らはそこで足を止めた。
追ってきたガルーダに向けてザッシュは剣を抜き、エレナも弓を引き絞った。エレナの放った弓矢は広げられた翼に命中したものの、やはり大したダメージにはなっていない。
「下がってろって」
自信ありげに言ったのはクルセルドだ。ふわりと不自然に揺れた彼の赤毛。彼を愛し彼が愛する風の精霊の力である。本来精霊の力を借りるには呪文の詠唱を必要とするのだが、天才少年はそれをいとも簡単に省いてしまう。
「トルネード・スピア」
渦巻く大気が無数の鋭い槍となり、ガルーダの翼を貫いた。悲鳴を上げたガルーダはバランスを崩しながら地上へと降りてくる。美しく並べられた石畳を爪が破壊し、飛び散る破片をザッシュの剣が撃ち落とした。
「ああ、これで何とか剣が届く。ありがとうな、クール」
「本当剣士って奴は苦手が多い」
「はは、それでも盗賊やお前には勝てるけどな」
「うっせ!」
ザッシュが笑って駆け出し、巨大な鳥に鉄の刃を浴びせれば、続いてクルセルドの風の魔法が切り裂く。いかに巨体のガルーダといえども、徐々に蓄積されるダメージについに翼を地面に落とした。が、しかし。
「ザッシュ!」
「く!」
その身体に見合ったサイズの鍵爪がザッシュを踏みつぶそうとした。しかしザッシュもきちんと反応しており、剣で受け止める。
「たく、何やってんだ、お前!」
やや焦った声音のクルセルドが風の槍を生成するが、「待て!」とガルーダの爪を支えたままのザッシュが叫んだ。それもそのはず、残った最後の力か、ガルーダの口から炎がゆらりと立ち上ったのだ。クルセルドは舌打ちを一つして、エレナの手を取った。
「クール!でもザッシュが!」
「あいつがあの程度で死ぬか!それよりあれの射程範囲から外れないと……!」
ザッシュはガルーダの懐にいるから炎に巻かれることはないだろう。しかしクルセルドはあの炎を防ぐに足る魔法を持たない。彼は精霊魔法が異常なまでに得意な半面、魔力の質が回復や防御の魔法にはすこぶる相性が悪く、ほとんど使えなかった。
「クール、海よ!」
二人は海へ向かって駆けた。おそらく二人の足でガルーダの攻撃範囲から脱することはできないが、海に潜れば回避できるだろう。だが、とクルセルドは一度ガルーダを振り返った。間に合わない。そう悟った、天才と称される彼の判断は実に迅速である。
「エレナ、息止めて、ちょっと痛いけど我慢しろ!」
「え」
クルセルドはエレナを文字通り放り投げた。それと同時に風の魔法。突風が彼女の身体を海へと吹き飛ばした。これで、走るよりも一瞬早くエレナの身体は海に落ちるが、代わりにクルセルドの背中にはすぐそこまで炎が迫っていた。
「クルセルド!」
エレナの悲鳴が海の中に落ちていく。彼女の目には、微笑んだ少年の顔と炎が映り込んでいた。