ただの根なし草だ
翌日の朝早く。アスカは一人ケットマルへ続く道にいた。昨夜の余韻が少し残っているようだが、レストフの村はまだ眠っている。エレナとザッシュも宿屋だろう。ここでこのまま逃げることはたやすいように思える。
だがこの先ケットマル、港のあるテメまでは一本道だ。カカ山を超えれば魔王領なので、そちらに抜けることも可能だが、アスカは残念ながら魔族が嫌いだった。エレナたちも、このご時世に魔王領に行こうとは思うまい。つまり、どうあがいても通るルートは彼女たちと同じになる。
さてどうするか。暫く逡巡したのち、アスカは歩き出すことを決めた。ケットマルへ続く広い街道には朝霧が立ち込めている。ぎりぎり自分の間合いの少し向こうが見える程度だろうか。暗闇とはまた違った歩きにくさがある。アスカとしてはこちらの方が苦手だ。明るいのに、見えない。
「おい、あんた」
霧の向こう、揺らいだ影が声を発した。辺りにアスカ以外の気配はひとつ。無視を決め込んだ彼だったが、「おい」と再び声がかかる。それでも答えるつもりなどない彼が足を止めるわけがない。すると、声の主は一瞬で爆発した。
「おいって、言ってんだろ!」
ごっ、と。霧を裂いたのは炎の球だった。アスカは寸での所でそれを避け、短剣に手をかけた。「へえ、避けるのか」感心したような声は、よく聞くとどこか幼さを感じる。アスカは影をじっと目を凝らして見た。
今の火の玉は、精霊魔法の一種だ。それなりの知識と素質が必要で、誰にでも扱える類のものではない。敵は魔導士。あまり相手にしたくはないタイプだ。
風が吹く。自然のものとは少し違った。おそらくは相手の風属性魔法によるものであろう。その風によって霧が僅かに晴れていく。朝日も徐々に高度を上げた。
「安心しろよ。質問に応えてくれりゃ何もしねえ」
「……子供?」
アスカの前に立っていたのはやはり魔導士で、不敵な笑みを浮かべていたが、その顔は幼い。十五、六歳だろうか。橙に近い赤毛が陽の光を受けて輝いていた。その下の目は何とも生意気そうである。
「あんた、レストフから来たな。金髪の女の子と剣士の二人連れを見なかったか。結構目立つ奴らなんだけど」
思いきり心当たりがあったが、答える義理があるわけでもない。これ以上関わり合いになりたくないアスカは「いいや」と首を横に振った。すると、あっさりと少年の周囲に渦巻いていた魔法の風がかき消えた。
「そうか。ならいいや。悪かったな。ビギンに行っただろうと思ったんだけどな……、どこ行きやがったあいつら」
そう言いながら、少年はレストフに向かって歩き出し、アスカも彼に背中を向けた。
相手が引いてくれて助かった、というのが正直な感想である。
精霊魔法とは、イリウスの自然を司る精霊の力を借りた魔法であり、四つの属性が存在する。しかし大抵の魔導士は自分と相性のいいひとつの属性しか使えないのだ。上級魔導士と言えば、そのひとつを極めた者である。
だが先程の少年魔導士は火と風、二つの属性を使うらしい。それは天才だとか、大魔導士だとかいう類の存在だ。魔法はほとんど使えないアスカがまともに戦って勝てる相手ではあるまい。
年下を相手に悔しいだとか何だとか、そういった感情はない。相手と己の力量を把握して戦うべきか退くべきか、その判断は生きていく上で重要なことであり、退くことは恥ではない。
朝霧も大分晴れてきたな、と街道を見回し、足を速めようとした時だ。背後から、聞きたくない声がした。
「アスカ!何ひとりで出発してるのよ!」
アスカの足が止まる。背中を向け会っている少年の足も止まった。そんなことはおかまいなしと言いたげに、怒鳴り声が近づいてきた。
「もう!いい加減にしてよね!……って、あれ、クルセルド?」
「ん?ああ、何だ、誰かいると思ったらクールじゃないか。どうしたんだこんな所で」
エレナとザッシュの声は至って呑気なものだ。だが、その次の瞬間、空気が変わった。振り向きざまに放たれる火球。アスカは横に飛びのいた。それまで彼がいた場所を通り過ぎた炎は街道脇に植わっていた木にぶつかって、小さな爆発とともにそれをへし折った。
「俺は嘘をつかれるのがこの世で何番目かに嫌いなんだよ、お兄さん」
怒りに満ち溢れた大きな瞳。渦巻く風に赤毛が揺れた。アスカは短剣を抜いたが、このままではやはり勝機が見えない。逃げたとしても、魔法を振り切れる可能性も低い。もしもチャンスがあるとするならば、魔導士の最大の弱点である呪文詠唱の間だ。強力な魔法であればある程、その時間も長くなる。
「我の言の葉は神の言の葉、以て彼の者を駿天となす――ファスト」
アスカが呟いた言葉を聞きとったのか、少年は「へえ」と感心した様子を見せた。ファストとは身体能力を高める強化魔法の一種で、多少魔力があれば努力次第で誰にでも扱えるものだ。行動スピードを飛躍的に向上させるこの魔法は、敵と戦う時も逃げる時も、これまで何度もアスカを助けてきた。しかし。
「ウィンド・カッター」
「!」
一気に間合いを詰めようとしたアスカの頬を風の刃がかすめて赤い線を引いた。
「発想はいいぜ、お兄さん。普通の魔導士相手なら大正解だ。でも残念。俺は呪文詠唱なんてもの、必要としない」
言いながら少年の掌の上には既に赤い火の玉が形成されている。本当に呪文詠唱を必要としないらしい。そんなことができる魔導士が存在するなど、アスカには初耳である。これではどんなに速く動けても、懐に飛び込む隙を作ってはくれない。逃げる方向へと思考をシフトチェンジさせたアスカだが、当然相手には関係のないことだ。火球はそのままアスカへ向けて放たれた。
アスカも魔法によって反応速度を上げてはいるのだが、それより炎のスピードが速い。ぎりりと歯を食いしばった彼の前に、ひらりと影が躍り出た。空気もろとも切り裂かれた火の玉は二つに割れて地面を焦がした。
「あんた……?」
自分を庇うように立つ男を、アスカは驚いて見上げた。
「いきなり魔法を人に向けて放つのは良くないな、クール」
「ザッシュてめえ!」
やはり彼らは知り合いらしいが、それならば更にアスカにはわけが分からない。何故、彼は自分を庇うのだろうか。そして、エレナが引き絞った弓矢の先も、狙っているのはアスカではなくクルセルドという少年魔導士だ。
「クルセルド、やめなさい」
「エレナ?」
愕然。そう表現するのがいいのだろう。自身に向けられている矢じりを見つめた少年は、殺気も敵意も警戒も解いていた。
「エレナ、何で……」
「あんたこそ何でここにいるの。誰の命令?」
クルセルドを睨みつけているエレナのその表情は、これまでアスカは見なかった厳しいものである。クルセルドはと言えば、幼い子供のようにぶんぶんと首を横に振った。
「違う、俺が自分でついてきたんだ」
「仕事は」
「知らないそんなの知らない!エレナとエレナの母さんがあそこで働けって言ったから働いてたのに!なのに、エレナがいなくなるから!俺を、置いていくから……!」
先程の強気で生意気そうな様子とは正反対の、今にも泣き出しそうなクルセルドは不安げに瞳を揺らしていた。それを見たエレナとザッシュはそれぞれ武器をおさめて彼に近寄った。
「ああもう、ほら、泣かないの」
「変わらないなあ、クールは」
「るっせえ!」
そのやり取りは知り合いだとか仲間だとかというよりも、兄妹のようだった。アスカは暫くぼうっとそれを見ていたが、やがて剣をおさめた。やはり人と関わると碌なことがないな、と彼は小さくため息をついた。
※
少年魔導士クルセルドを加えた旅路は、賑やかなものになっていた。アスカを睨みつけ「お前は一体何者だ」「出身はどこだ」「普段何をしてる」と躾のなっていない子犬がキャンキャンと喚いているようだ。吠えられているアスカは辟易していた。答えるのも無視をするのも面倒くさい。
「悪いが俺は語れるような素性は持っていない。ただの根なし草だ」
これが全ての回答だと、アスカは視線すら合わせぬままに言った。するとクルセルドはアスカを指差してエレナを振り返り、叫んだ。
「何なんだよ、こいつ!何でこんな得体の知れない奴と旅してるんだ!」
「あっはっは、何言ってるんだクール。素性が定かじゃないのは俺もお前も同じだろ?」
「黙れ脳みそスライム野郎!」
どうやらクルセルドとエレナはそれなりに長い付き合いがあるらしい。しかし彼は彼女の旅に同行させられず、事情も話してはもらえなかったようだ。それにもかかわらずどこの馬の骨とも知れぬアスカが同道しているのが気に入らないのだろう。つまりはやきもちである。
アスカにしてみればいい迷惑である。ただでさえ人と関わることは苦手だというのに、やけに突っかかって来る少年は面倒極まりない。溜息を一つつき、ケットマルの方向へと顔を向けた。
街道にはレストフやビギンとケットマルを往復する商人やその護衛たちが行き交っている。装備が重たそうなのは長旅をしてきたビギンへの巡礼者だろう。彼らは時折立ち止まり、街道脇の瓦礫に祈りを捧げていた。破壊され朽ち果てた建物の柱。何かを祀っていたのであろう石碑。そんなものが、この街道のあちこちに点在している。二千年前にあったとされる聖魔戦争の名残だ。
ここだけではない。こうした遺跡や碑文は各地に残っており、信仰や研究の対象になっている。だがそれを、特に歴史に関する研究を独占しているのは聖族であり、魔族には殆ど許されていはいない。戦争の勝者の特権であろう。
だが二千年も昔のことを未だに調べているなど今を生きる上で何の役に立つのだろうか、ご苦労なことだ。アスカなどはそう思い、大して興味も持たずに石ころにしか見えぬ遺跡から視線を外した。
その目が次に捉えたのは、白昼堂々商人の荷馬車を足止めしている柄の悪い集団だった。魔物のみならず、人間の方も治安が悪化しているようだ。それ以上の感想は抱かず、彼はそのわきを通り過ぎた。後に続くエレナは気にしているようだったが、クルセルドに睨まれて肩をすくめていた。
それで正解、ああいったものには関わらないのが身のためなのである。だが、中には見て見ぬ振りのできぬ馬鹿、もとい善人も存在するらしい。「お待ちなさい!」高い声が響いた。
翻った銀髪。身に纏うのも純白の法衣であり、一目で神官だと判じることができた。それも、おそらくは聖族の者だろう。尖った耳は人間にはない。
「人を傷つけて奪っても、それは本当の意味で貴方がたのものにはなりませんよ」
「はあ?お説教か、神子さん?」
下卑た笑みを浮かべる男たちが女を囲んだ。それを好機と捉えたのだろう、商人は馬車を猛スピードで発進させ彼らの脇を通り過ぎた。女はそれを横目で見送るのみで、驚いた様子もない。
「おいおい、助けた相手に見捨てられたなあ?俺達もあんたのお蔭で取り逃がしたわけだし、代わりにあんたが補償しろよ」
「このままじゃお頭にどやされちまうぜ」
男たちは武器を手ににじり寄る。女は険しい表情で一歩さがった。野次馬たちがどよめく。人間が聖族の神官に手を出したとなれば大問題だ。しかしアスカにはそんなこと知ったことではない。さっさと目的を果たすために歩きだそうとしたが、やはり、邪魔が入った。
「ちょっと!女の子一人相手に卑怯じゃない!」
「あいつ……」
エレナはザッシュを従えて、ギャラリーをかきわけると男たちの前に立ちふさがった。アスカの隣ではクルセルドが頭を抱えており、どうやら意見は一致しているらしい。
「何だお前ら?」
「何だ、と言われても困るんだが……、多分君たちの盗賊団に荷物を奪われた被害者だな」
「私が薬草摘んでる間に勝手に荷物持っていったでしょ!」
「はあ?」
首を傾げる男たち。アスカの隣ではクルセルドが先程の体勢のまま今度は肩をふるわせ始めた。
「ザッシュの奴は何のためにいるんだ……!」
全くもって同感である。
「逃げてく奴らにそれと同じ刺青があったわ!仲間なんでしょ!」
「成程な。確かにこれは俺達の仲間の証。だがだからってお嬢ちゃんの荷物なんざ俺達は知らねえよ!」
エレナや男たちが差しているのはその身体の一部に刻まれた、五弁の花の刺青だった。それを見た瞬間、アスカが駆けだしていた。
人垣をかき分けたアスカは短剣を抜き放ち、相手を剣の腹で打ちのめし蹴り飛ばした。
「な、何だてめえっ……」
「名は」
男の一人に馬乗りになり首筋に白刃をあてがったアスカは、低く尋ねた。ひ、と息をのむ男。鮮やかな手際に周囲は口笛を吹いて囃したて、ザッシュが「おお」と小さく拍手をした。しかし、それも、「アスカ?」とのエレナの怪訝そうな呼びかけも、彼には聞こえなかった。
「あんたらのチームの名を聞いている」
「っ、だ、大地の剣……!」
「頭は誰だ。誰が仕切っている」
「ヤマトさん……!」
「……」
アスカが剣を引き立ち上がると、男たちは脱兎のごとく逃げ出した。向かう方向はケットマル。やはりそこを拠点にしている盗賊団があるというのは事実で、それが彼らなのだろうか。点になったいくつかの背中をじっと見つめているアスカを、エレナが見ていた。
「危ないところをありがとうございました」
アスカ達に声をかけたのは、神官の女だった。「いやいや」ザッシュが笑顔で答える。
「こっちの事情で割って入ったんだよ。それに君は俺達なんかが手助けする必要のない、なかなかの腕の持ち主だろう」
ザッシュが言いながらちらりと目をやったのは、女の腰にあるホルダー。三節棍が収められている。聖族は平和を謳い武力放棄を掲げているが、流石にこのご時世丸腰で旅をするわけがない。通常は護衛を雇うのだが、この女は一人旅のようだった。それにしても神官が武器を持つのは、通常ありえないのだが。
「物騒ですから気をつけてね」
「はい。そちらこそ、お気を付け下さい。カカ山を越えて魔族がこちら側に来ているようです」
「そうなの?」
「ええ、テメ国は既に登山道を封鎖、民間人が入れないようにしていますが……。今はもう魔王が狂ってしまったとみて間違いないでしょう。今までのように魔族と交流するのは難しいでしょうね」
は、と。嘲笑を吐きだしたのはクルセルドだった。
「流石、勝ち組の聖族様が仰ることは違うな」
「クルセルド」
窘めるエレナの声を聞かず、クルセルドは女を睨みつけた。
「魔族も人間も見下してきた聖族が、もう魔族との交流は無理?あんたらそもそもどこともまともに交流してないだろ。綺麗な御託ばかり並べて、人間にへつらわれて楽しんでるだけだろ」
聖族は二千年前の戦の時、女神と聖女に従った勝者だ。今もその神に仕える特別な存在だという自負がある。対する魔族は敗者であり、邪神の流れを汲む悪しき存在。それが聖族の言い分だ。しかしそれが絶対ではないことは世界の常識だ。事実、二百年前に狂い世界に混乱をもたらしたのは聖族の王である。
睨みつけるクルセルドを、女は少し驚いた顔で見た後、苦笑した。
「返す言葉もありませんね」
拍子抜けした。クルセルドの顔にはその様に書いてあった。その彼の頭をエレナが一発殴る。
「ごめんなさい、無礼な子で」
「いいえ、気にしておりませんわ。聖族がその様に見られているということは、事実です」
女はそう言って、緩やかに礼をした。
「私はミシェルと申します。またどこかでお会いしましょう」
ひらり、白い衣を翻して、ミシェルはアスカ達の目的地とは逆の方向へ歩きだした。
それを見送り、アスカは神妙な顔をする。カカ山の登山道入り口はこの先、テメの国の手前にある。腰にある剣は今一つ頼りなく、中級以上の魔族とたたかうには装備があまりに不十分だ。彼と似たような表情をしているエレナを見やったクルセルドが、眉を寄せた。
「何だお前ら、あいつが言うことや魔王が狂ったって噂を信じるのか?」
「クール……」
「馬鹿馬鹿しい。そんなの、聖族が流したデマに決まってんだろ。さっさと行くぞ」
「あ、ちょっと待ちなさいよ!」
歩きだしたクルセルドをエレナとザッシュが追う。アスカは一人その場にとどまりミシェルの行った方向を振り返った後、ゆっくりと歩き出した。