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禁忌は自己のためならず

 こーちゃん、野菜はしっかり食べてる?

 忙しい生活で、栄養が偏りがちなんじゃないのかい? 野菜ジュースだけじゃなくて、ちゃんと生の野菜も食べるんだよ。

 食べてる? ならいいんだけどね。

 食事は主食、主菜、副菜をバランスよく食べなよ。あんまり偏っていると、甚兵衛さんのように肝を冷やすことになるかも知れないからね。

 え、どんな出来事かって? ああ、こーちゃんには話したことがなかったっけ。

 こーちゃんの物書きの参考になるかどうか分からないけど、頑張って話してみるかねえ。


 江戸時代。人々はさほど動物の肉を食べていなかった。仏教での教えがあるし、生類憐みの令もどれだけ効果を持ったかは分からないけど、米と野菜が中心の食生活だったってのは確かだよ。

 ただ、その世情の中で、豚肉を積極的に食べている藩があった。どこだと思う? こーちゃん。

 そ、薩摩藩だね。昔から豚を食用として食べていた薩摩藩では、江戸時代の間でも養豚がかなりの規模で行われていたと聞いているよ。

 そして、この頃はちょうど琉球から、今の「かごしま黒豚」の元となる黒豚がやってきてね。地元の種との交配研究が盛んに行われていた時期でもあったのさ。ただ当時のことを考えると、あまり大っぴらに豚肉食べてます、なんてよそにアピールできなかった。

 じゃあ、よそに行くな、と言いたいが、そうもいかないのが江戸時代。薩摩藩の人たちも、江戸に定期的に行かないといけない義務があった。

 有名な参勤交代だね。


 甚兵衛さんは小さい頃から、豚肉が大好きだった。どのような食事にも豚肉を欠かさず入れるほどの、無類の肉好き。それでも体は薩摩隼人にふさわしく、がっちりしながらも引き締まっていて、武士としては立派な姿と言えただろうね。

 だが、ある時。甚兵衛さんのお父さんが急に亡くなられてねえ、彼は参勤交代の武者行列に参加することになったのさ。

 薩摩藩の参勤は並大抵の大変さじゃなかった。九州の隅っこなもんだから、道なんて全然整備されていない。港から船に乗って大阪まで出たら、あとはえっちらおっちら徒歩で先を急ぐんだ。

 計画も半年前から立ててねえ、他の藩の行列とバッティングしたり、ダブルブッキングしないように、みんなが頭を振り絞って知恵を出し合う。遅れたりしたら、最悪領地を取りつぶしされかねない重要な行事なのは、こーちゃんも知っての通りだろう。

 しかし、甚兵衛さんにとっての一大事は、そんなことじゃなかった。

「江戸に入ったら、一切の肉食を禁ズ」

 お殿様のお達し。肉食を良しとしない当時の江戸の世情を鑑みたものなのだろうけど、甚兵衛さんにとってはたまったものじゃなかった。

 今まで三日にあげず、豚肉を食べてきたんだ。江戸にたどり着いたら、一年近くも肉なしの生活を強いられることになる。彼にとっては、たまらない恐怖だったろうね。

 道中や宿泊場所の「本陣」ではどうにかなった。残念ながら、甚兵衛さんの家はそれなりの力があったから、江戸に着いたら国元に返されるような、端役ではない。

 江戸に着いたその日から、甚兵衛さんはわずかな時間を縫って、江戸を練り歩いた。確かに肉食は好まれていなかったものの、まったく無かったわけではない。一部では、今でいう裏メニューのように取り扱っていた店もあったんだ。

 執念ゆえか、豚肉を扱う店を探り当てた甚兵衛さん。相場よりもちょこっと高かったものの、仲間の目を盗んで、彼は薩摩にいた時に近い食生活を送っていった。


 ところが、江戸に滞在して半年近く経ち、事件が起こった。

 江戸に住んでいる人が、次々に体の異状を訴え出したんだ。

 だるさに始まって、手足がむくみ、しまいにゃ手足が動かなくなって、死に至る病さ。これは行列に参加していた人たちにも伝播し、ついには力尽きる者が出始めた。

「江戸煩い」がやってきたというわけさ。今風に言えば、「脚気」というやつだね。

 精米の技術が上がった当時の江戸では、白米を食べるのが主流だった。それによって、栄養が偏ってしまうのが原因なんだが、それを突き止められるだけの知恵と力を、当時の人々は持っていなかったんだ。

 お殿様の言うことを律儀に守っていた家来の方々は、次から次に脚気の餌食になっちまったんだねえ。

 その中で、甚兵衛さんだけは無事だった。何しろ彼は、変わらず豚肉を食べていたんだ。豚肉には脚気を防ぐに足る、ビタミンが十分に入っている。だから彼はぴんぴんしていられたんだけど、それはかえってお仲間の気を引いちまった。

 脚気に苦しむ者たちが、助言を求めて甚兵衛さんの下に集まったのさ。何せ、死んでいる仲間を近くで見ているんだ。血眼になってすがりつく同志を振り払うなど、武家の名折れ。

 一晩待ってくれ、といったん仲間を帰した甚兵衛さん。だが、頭を抱えざるを得なかった。

 自分が皆と違うのは、日々の食事だけ。きっと食事に原因があるのだと、甚兵衛さんはうすうす気がついてはいたんだ。

 昨日、自分が飲んでいたのは、豚肉をじっくり煮込んだ味噌汁だった。今更、白米を炊いた食事を出したところで、それは皆と変わらぬ食事。どうしてお前は「江戸煩い」にならない、という疑問の答えになっていない。

 かといって、素直に豚肉を食べたことを話せば、それはお殿様との約束を破ったことを白状することになる。切腹すらあり得るかも知れない。

 鍋に残った豚肉抜きの味噌汁をにらみながら、甚兵衛さんは寝泊まりする長屋の土間を見回したんだ。豚が染み込んだ味噌汁は独特の臭いがする。それをごまかすとともに、皆に自分が主食としていると説明して、違和感がない代物を用意しなくてはならない。

 悩んだ甚兵衛さんは、夕方の町の中へと繰り出した。

 店を物色しながら歩く甚兵衛さんの目に、一つの屋台が飛び込んできた。それは夜遅くまで開いていて、小腹が空いた時に最適な食べ物を売っていた。

 皆に振舞う準備も考えると、時間は残り少ない。そこで売っているものに、彼は自分の未来を賭けてみようと思ったのさ。


 結果的に彼は賭けに勝ったんだ。ここまで話したら、こーちゃんはもう分かったんじゃないかい。甚兵衛さんが何に目をつけたのか。

 ――ご名答。そば、だね。

 更に甚兵衛さんは臭いをごまかすために、にんにくを大量にぶち込んだんだ。当時、九州以外では、一部の漢方療法の間だけで使われていたにんにくの臭いが、彼の長屋に充満した。

 だけど、この奇跡のコラボレーションが功を奏して、しばらくするとお仲間は「江戸煩い」から回復。無事にお勤めを果たすことができて、めでたし、めでたし。

 一説じゃ、この甚兵衛さんが「豚骨」の発祥だなんていう人もいるくらい。

 好きっていう一念が、天に通じた一例って奴かもね。


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