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徒然短編集

いろは紅葉に拐かされて

作者: 紫木

 その日、私は何処をどう歩いたらそこに辿りついたのか。

 気づけば知らぬ間に、全く初めての場所へと足を踏み入れていた。


「……きれいね」


 でも不思議と恐怖心はなく、口からは自然とその景色に対する賛辞が溢れ出たのを覚えている。

 そこには何もありはしなかった。

 いや、言葉を事実に置き換えるのなら、そこはとても広大な森の中だったのだ。

 赤々と生い茂る紅葉が風に揺れ、まだ幼かった私ですらも、その光景には圧倒される以外に選択肢は持ち得なかった。


「やれやれ、困ったお嬢ちゃんだ」


 そんな風に景色に飲み込まれてしまっていた私だからこそ、いきなり掛けられた声に飛び跳ねてしまう。


「……おじさん、だれ?」


 必死で内心の焦りを隠そうとしていた私の声は、猜疑心に満ち溢れていたに違いない。

 だって、声の先に立っていたのは、ボサボサの髪に無精ヒゲを生やした、見るも怪しい浪人風の男性だったのだから。


「誰もなにも、それはこっちが聞きたいぐらいなんだけどな……それと、俺は君が思うほどにおじさんってわけじゃない」


 どうやらおじさんは、自分がおじさんと呼ばれたことに納得がいかなかったらしい。

 でも、西欧化も進んだこの時代、作務衣を着崩し、身なりを整えようともしないその様は、私にとって不審者であり、おじさんとしか呼びようがなかったのだ。


「まったく、何処をどうやって入り込んできたのやら……」


 そうやって面倒くさそうに頭をかくおじさんを見ていると、むくむくと私の中でイラッという感情が湧き上がってきた。

 何せ、幼少の頃の私は勝気な性格だったのだ。


「そっちこそ誰なのよ。私を誰だと思っているのかしら?」


 実際問題、何処の誰だと言えるほどの身分じゃないし、比較的裕福な家庭で育てられた何処にでもいる普通の女の子だ。

 でも、口をついて出たのは、当時読んだばかりの漫画のセリフ。

 背伸びをしたがる年頃とはいえ、思い出すだけでも顔から火が出そうになってしまう。


「はぁ、本当に困った嬢ちゃんだ……」


 おじさんがそうやって困るのも無理はない。

 でも、当時の私だって見ず知らずの場所でいきなり妙なおじさんに声をかけられたばかりだというのだから、少しは優しい目で見てくれても良かったんじゃないだろうか。

 今にして思えば、そう考えたくもなってしまう。


「まぁ、来てしまったものは仕方がない。嬢ちゃん、とりあえず付いてきな」


 挨拶もそこそこに、おじさんは私に背を向けると、森の中へと足を向け出す。


「むぅ……」


 この時の私は不機嫌の極みだった。

 渾身の一言を無視されただけでなく、おじさんは明らかに私の事を厄介者扱いしていたのだ。

 年端もいかない少女に危険な思想を抱けとまではいわないが、もう少し丁寧な扱いを心がけてくれても良いだろうに。


「どうした? 早く来いよ」


 不貞腐れた私はその言葉を無視しようとも考えたのだが、如何せん此処が何処だかもわからない状態ではこのおじさんを頼らざるを得ないのも事実だ。

 私は渋々、本当に仕方がなしにおじさんの後を追いかけた。



 おじさんが足を止めたのは、森の中にぽっかりと空いた小さな部屋のような空間だった。

 何故空間だなんて言い方をしたかといえば、そこは部屋の様ではあっても、断じて部屋と呼べるものではなかったからに他ならない。

 森の中だから屋根があるはずもないし、もちろん家具や寝具の類などあろうはずもない。

 あったのは空間の中央に置かれた、一式の画材だけ。

 でも、どうしてか私にはこの場所がおじさんの根城で、ここでどうやってか生活を営んでいるに違いないという直感が働いていたのだ。


「ますます怪しい……」


 おじさんは訝しむ私を尻目に、画材の前へと腰を下ろすと、またしてもため息混じりに「やれやれ……」と愚痴をこぼしていた。

 ほんと、感情を隠そうとしないおじさんだ。


「さて、嬢ちゃんに質問がある」

「……何よ」


 そんな態度をとられては、私としても相応の態度で返答する義務がある。

 と、とにかく私は勝気すぎていたのだ。


「嬢ちゃんはこの場所が何処か分かるか?」


 さしずめ、ここが近所の森では無いということだけは理解できていた。

 だって私は、こんなに赤々と咲き誇る森そのものを、見たことも聞いたことも無かったのだから。

 

「そうか……ならいい。それなら時期に帰り道も見えるだろうさ」


 おじさんはそれだけを口にすると、まるで私のことに興味を失ったかのように、画材へと意識を向けてしまう。

 正直――「はぁ!?」な展開だ。

 こっちはまだ状況も理解できず、おろおろおろおろと周りを見渡すことしか出来ないっていうのに、年長者としてその態度は如何なものなのだろうか?

 ましてや、付いて来いと言ったのはおじさんの方なのに……

 言葉には責任が伴う。これは私が当時友達と喧嘩した時に、母親から言い聞かされた厳命だ。

 おじさん、使命を果たせ。

 私はその場でガツンと一発決めてやるつもりで口を開く。


「……寒いんだけど」


 ああ、何とも情けない話だ。

 先程までの威勢はいったい何処に吹き飛んでしまったというんだろうか。

 ここぞという時に私は勇気を振り絞れない。

 この言葉の何処にガツンとした要素があるというのだろうか。

 その場で膝を付いて堕ちるところまで堕ちたくなった記憶が、今でもありありと思い出せてしまう。


「悪いが、これで我慢してくれ」


 でもおじさんはそんな私の様子に気付いた様子もなく、放り投げるように一枚の薄布を手渡してくれた。

 うん、意外と優しいところもあるのかもしれない。


「って、これ……」


 渡された薄布を広げた瞬間、私はその場で絶句してしまった。

 これは単なる膝掛けやマフラーなんかじゃない。

 赤い生地に所々花が散りばめられたそれは所謂、おべべ(・・・)だったのだ。 

 前言撤回、これは明らかに私に対する挑戦状である。

 

「あのさぁ、おじさんにはデリカシーってものが……って、何その絵……」


 今の今まで混乱や怒りで気付かなかったのだが、おじさんが腰を下ろした先の画台には一枚の絵画が置かれていた。

 それは私の感情の全てを吹き飛ばすほどに綺麗で、言葉を失うほどに赤く、あまりにも見事な代物だった。


 ――赤い着物を着た女性が、落ち葉を()むように愛でている


 少なくとも、当時の私にはそれが衝撃的すぎた。

 それほどまでに、その絵に描かれた人物は、その場に居るようで、それでいて居ないような感覚を覚えさせたのだ。


「あまり見るな。人様に誇れるものじゃない」


 おじさんは恥ずかしがっている訳でもなく、ただただ面倒くさそうに溜息をつく。

 そんなに私の存在が鬱陶しいのだろうか。

 とは言え、ここで引き下がるのも癪な話だ。

 

「……ふーん、結構綺麗じゃない」


 敢えて上から目線で物を言う。

 子供時代の話とは言え、何とも度し難い選択だ。


「で、誰なのよ、それ? 教えてよ」


 しかも遠慮も思慮も欠けている。

 当時の私はぐいぐいとおじさんとその絵の関係を暴こうと躍起になっていたのだ。


「困った嬢ちゃんだ……」

 

 でも、流石は大人というべきだろうか。

 おじさんは怒るわけでも無視する訳でもなく、ただただ面倒くさそうに、その絵に関して話し始めてくれたのだ。


「これは数年前に、わざわざこの場所を訪ねてきた何とも度し難い女の姿だ。そいつはあまりにも度が過ぎていてな、またぞろ現れても忘れないように、こんな風に絵にしたためたっていうわけだ。……俺は人の顔を忘れやすいんでね」


 最後の言葉は自分に対する皮肉だったんだろうか。

 よく分からない。

 そこから感情を読み取ることなんて、十を過ぎたばかりの子供には出来ようはずもなかったのだ。

 でも、疑問に思ったことはある。


「鬱陶しいから、絵に書いて残すの?」


 いくら人の顔を忘れやすいとはいえ、鬱陶しいと感じるものを残したりするものなんだろうか?

 ことこれに関しては、今になっても理解がし難い。 


「安心しろ。何も今ここで嬢ちゃんの絵を描こうってわけじゃない。嬢ちゃんもそれなりに困った奴だが、アレに比べたらずいぶん上等なほうだ」

 

 私にはそうやって苦笑するおじさんの顔が、初めて格好よく見えてしまった。

 そして同時に、もっと知りたいという欲求が、自分の中で芽生えてきたのを覚えている。

 現金なものだ。

 その笑顔で警戒心を解いただけじゃなく、むしろ興味を示すようになってしまったのだから。


 でも、私に与えられた時間は、そう長くはなかったようだ。


「どういった心変わりでそんな風になってしまったのかは知らないが……。残念だったな、そろそろお迎えの時間が来たようだ」

  

 突如として豪風が吹き荒れ、私の視界は真っ赤な紅葉に塞がれる。


「それなりに厄介なお客さんだったが、まぁそこまで迷惑をかけられた覚えもない。達者で暮らせよ、嬢ちゃん」

「えっ!? えっ!?」


 何が起こったのかも、何が始まったのかも分からない。

 その時の私はおろおろするだけで、言葉の一つも紡げずにいた。

 

「悪い夢を見たと思え。何一つ思い出す必要もない」


 声がどんどん遠ざかっていく。

 それが私に残された唯一の感覚。



 ――嬢ちゃんは紅葉の朱に拐かされただけだ



 それがおじさんから私に向けられた、最後の言葉だったと思う。




 あれから十年、私は今でもあの出来事の一切合切を忘れられずにいる。

 何を得られた訳でもなければ、何かを置き忘れてきた訳でもない。

 それでもあの出来事は私にとって、追いかけるだけの価値があるものだ。


「ふぅ、これで今年四つ目の観光地」


 こうして秋になれば、私は自分の足で観光地を巡りまわる。

 あの世界とは違えども、何処も彼処も紅葉に溢れ、観光客の笑顔が絶えない。

 これだけの数の人間が一気にあの世界へと誘われたら、おじさんはどんな風に思うだろうか?

 きっと、面倒くさそうに首を振るだけで、取り立てて何をするわけでもない。 


「紅葉の朱に拐かされて――か……」


 どれだけ何処まで追いかけようと、あれ以来、あの世界へは辿り着ける気配もない。

 でも、必ず私は辿り着く。

 だって、あの世界は私の想像が正しければきっと……


 ビューっと風が吹いた。


 目の前が紅葉で真っ赤に染まり、息も出来ないほどの感覚が私の全身を支配する。

 そして……


「やれやれ、困った嬢さんだ」


 十年経ったにも関わらず、その場所はそのままで……


「まったく、何処をどうやって入り込んできたのやら……」

 

 少しは服装ぐらい変えれば良いのに……

 私はほら、赤いおべべから紅葉柄の着物に着替えてあげてるんだよ?


「まあ、来てしまったものは仕方がない。取り敢えず、付いて来い」


 と、前と同じように、おじさんは先だって私を案内しようとする。


 現在(いま)の私と紅葉が描かれた、あの絵画のある場所に――


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