リビングミート
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「くぼみさんは生まれてから十年間、一度も目が見えたことがなかったのですね?」
病院の先生の声が聞こえる。
「彼女は光を知らずに育ってきました。ですので、視力を取り戻した彼女が見て感じる世界は、わたしたちのものとはまったく違うものであるかもしれません」
「と、いうと?」
心配げな声でお母さんがいう。わたしの目の話をするときのお母さんの声だ。ちょっとの期待と心配に彩られた、静かで意思のこもった声色。
「ここに図があります。何に見えますか?」
「……立方体?」
「そうです。九本の直線で表現された正方形の図。しかし、そうと分かるのはお母さんが目で見るのになれているから。目の見えるようになったばかりのくぼみさんには、これがただの直線の集まりか、宙に浮いた糸くずのようにしか見えないかもしれないのです」
「……」
「見えるということを知ったばかりのくぼみさんは、何をどんな風に感じ取って良いのかきっと戸惑うことでしょう。ですので、目が見えるようになってからのケアこそが、彼女にとって大切なのですね」
「……分かりました」
「では。くぼみさんの包帯を取ってあげてください。
「……はいっ」
そう言ってお母さんは優しい手つきで私の頭に巻きついた包帯を取り除く。暖かく、柔らかく、それでいて静かな大好きなお母さんの手だ。
「できましたか?」
「はい」
お医者さんが言う。
「では。目を開けて」
わたしは閉じていたまぶたを開く。
そこには形容する方法がわからないほど気持ち悪い肉の怪物がわたしを取り巻いていた。
絶叫を上げる。
光のある世界は化け物に満ち溢れていた。
肉の怪物から逃れようと暴れる。ぐちゃぐちゃと体中をうごめく肉、でろりと飛び出した二つの眼球、むき出しにされた歯。ひょろりとした四本の棒きれが肉の固まりからひょっこり生えていて、くねくねとおぞましい動きでわたしを羽交い絞めにしようとする。目の前を覆いつくすソレは見るも醜悪で、わたしは涙を流して暴れ、叫んだ。
気がつけばわたしは暖かい布団の中にいて、両手足をベッドに括りつけられて気絶していた。目を覚ました眼窩に広がる天井は真っ白で、ぼんやりとした照明の光は瞳の奥を貫くようだった。思わず目をつぶる。
まぶたを食い破って中に這入っていく蛍光の光に耐えられなくなり、わたしは思わず身をよじった。これが目の見える世界なんだとおぼろげに認識する。全てを覆い尽して脳裡に突き刺さる乱暴な光。わたしは光というものが怖くなった。アタマから布団をかぶる。
「くぼみちゃん」
と、外からお母さんの声がした。
「大丈夫? 何か怖かった?」
酷く心配げな、泣きそうなのを気丈にこらえているといった母の声。必死でわたしのことを理解し、歩み寄ろうとする優しい言葉だった。
「ぶよぶよしたものが」
わたしは言った。
「ぶよぶよで、かくかくしてて、すっごく不気味にうごめいて。汚い塊が。わかんない。何あれ。わかんない。わかんない」
お母さんは布団の上からわたしのことを抱いてくれた。暖かい感触に、胸を覆いつくす不安感が吐き出されるような思いがした。鼻と喉から色んなものが溢れてえづく。気がつけばわたしは泣いていた。
「大丈夫よ。くぼみ」
お母さんは言った。
「何も怖くないの。お母さん、目の見える世界の話、ずっとしてあげてたでしょう? 聞いてくれたじゃない、くぼみ。見てみたいって。ねぇ」
布団の中で泣き出したわたしを安心させるための優しい声。こういう時お母さんがとても大きく思えた。
「ゆっくりで良いの。くぼみ」
言って、お母さんは布団に手をかける。
「これがお母さんよ。何も怖いこと無いの。……大丈夫?」
お母さんはそこで布団をはがそうとする。そこには確かにおかあさんがいるはずだ。お母さんを見てみたい。ずっと思っていたことだ。わたしは意を決して中でうなずいてみせる。
きっとさっきのは酷い夢だ。そう信じて。
布団が開かれ、眩いほどの光がわたしの世界を覆いつくす。
そこに立っていたものの姿を見て、わたしは全身が凍りついた。冷やした鉄の塊を喉に詰め込まれたような圧迫感。頭の中が唐突に静かになったと思ったら、気がつけばわたしは気を失っていた。
肉の夢を見る。わたしは肉の塊の中、ぶよぶよとした中に突っ込まれごめいている。中から例のひょろりとした腕やら足やらが生えてきて、わたしの体を撫で回し引っつかむ。わたしは中で何もできない。泣いて叫んで嘔吐して、死んでしまいそうにもがき続けるだけ。
汗びっしょりで目を覚ます。おばあちゃんの声がした。
「まだ学校には行けないの?」
苛立ったようなトゲのある声。普段なら絶対こんな風には言わない。もっと落ち着いた優しい声だったはずだ。
「ふつうの学校に行きたくないだけなんじゃないの? 人間が怖いなんて、おかしいでしょう」
「……お医者様も言ってらしたわ。珍しいケースだって。私も信じられないけれど……」
「おまえが甘やかすからいけないんだ。……まったく」
おばあちゃんとお母さんの仲が悪い。前はあんなにお互い優しかったのに。こんなとがった声は出さなかったのに。それもこれも全部肉の所為だ。あの肉の化け物がみんな悪いんだ。
おばあちゃんが帰っていくのを布団の中で待ち続けてから、わたしは部屋のベッドを立ち上がる。壁を感じる直前まで歩く。そのまま部屋を出て行こうとして、勇気を振り絞って目を開ける。
黒くて大きなものがわたしの目の前に出現する。うねうねと陽炎のようにうごめく影の塊。生きているみたい。
わたしはそっと目の前の壁に触れてみる。大丈夫。震える手でわたしは思った。ゆらゆらとその場でうごめくだけのものだ。怖くない。
わたしは天井を見詰める。最初はただの真っ黒が無限に続いているように感じられる。でもしばらくそれを見詰めていると、薄くらい中で闇の千切れた地点があるのを発見する。細かい木の筋が幾重にも刻まれた天井だ。
しばらく天井を見詰めていると、この部屋の中にわたしを害するものなんて一つもないんじゃないかと思えてくる。そりゃそうだ。この壁や天井が襲い掛かってくるのだったら、わたしが眠っているうちにさっさとやってしまっているはずだ。そう思いわたしは薄闇の中を歩いて蛍光の紐を手繰り寄せる。静かに引っ張る。
眩い光が世界を覆う。壁やタンスや天井が寝室の中に出現する。それらはとても大きく輝いて、ゆったりと大きな目でわたしを見下ろしているようだった。息を飲む。わたしは傍にあったカーテンを開ける。眼前に広がる窓の外。最初に目に入って来たのは、吸い込まれるように広大な青色だった。これが空なんだと思うまで、わたしはじっと窓の向こうに見入っていた。全身が震えて膝を突いてしまう。それくらいに嬉しかった。
千切れた雲の形を知った。塗りたくったような白さを知った。屋根の三角も生い茂る木も、全てお母さんに話してもらったのと良く似ていた。
酷く抽象的なものの集合に見えた。あちこちいろんな色が張り付いてぐちゃぐちゃに乱舞して、じっと見詰めていると何がなんだか分からなくなる。わちゃわちゃのぐちょぐちょで、それでいてどこか美しくもある。これが見える世界なんだと感じた。
お母さんを見に行こうと思った。わたしは一度もお母さんを見ていない。そう思うと途端に楽しみになる。襖を開ける。冷たくて長い廊下が見える。その向こうから、眩い光と包丁の音。わたしは息が詰まりそうな思いで、だけれど期待に満ち溢れながら台所に足を踏み入れる。
肉の塊が包丁を持っている。
「くぼみちゃん?」
目を開けて歩くわたしに肉の塊が反応する。包丁を放り出して肉の塊がこちらに飛び込んでくる。どっと汗が噴き出す。わたしはその場で叫びだしそうに肉の抱擁から飛びのく。
体が台所にぶち当たる。ごろごろと野菜らしき物体がわたしの足元に落ちてくる。一緒に落下してきた包丁が足元に当たりかけるを咄嗟に回避する。見えるから避けられたんだ、そう思ってわたしは心臓を高鳴らせる。
「くぼみちゃんっ」
肉の塊がこちらに近付いてくる。ひょろりとした足を折り曲げ、床の包丁を手にしようとする。わたしは息が詰まるような恐怖感を覚える。
咄嗟にお母さんの匂いを思い出す。それによって恐怖を紛れさせる。化け物より先に包丁を拾う。追いすがる肉の塊に向けて包丁を突き刺す。想像していたとおりのぐにゃりとした感触に悪寒がする。引き抜く。赤くてべたべたしたものが肉の合間から噴き出して、思わず怯みそうになる。我慢する。もう一回刺す。
肉の塊はその場で丸まって動かなくなる。それに向かって何度も何度も包丁を差し込む。化け物が完全に停止するまでそれをやる。
怪物を倒し、高鳴る心臓を押さえながらわたしは息を吐く。
「お母さん。お母さん、どこにいるの」
どろどろべたべたの足で歩き出す。肉の塊の恐怖がまだ全身を包んでいる。包丁を持ったままお母さんを探す。赤い部屋の隅々を調べる。お母さんはいない、どこを探してもいない。確かにいるはずなのにどこを探しても見付からない。
「お母さん、お母さん。返事してよ、お母さん」
わたしは気がつけば泣き出していた。どんなに呼びかけてもお母さんは返事をしない。大好きなお母さん。わたしは一人ぼっち。肉の塊と一緒の部屋で一人ぼっち。
ゆらゆらと歩き回っていると、お母さんが使っていた鏡台の前に突き当たる。
確かここにはカガミというのがあるはずだった。思わず覗き込む。そこにはもう一体の肉の塊が包丁を持ってゆらりと立っている。わたしは目を見開いて包丁をそこに叩きつけた。怪物の体に亀裂が走る。破片が飛び散る。わたしはその姿が分からなくなるまで、何度も何度も包丁でそれを切り裂き続ける。
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