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黄金の蹄、紅蓮の太刀、モンゴル草原を駆ける牛若丸 ~ 源義経、東西を貫く覇道 ~  作者: 如月妙美


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第3章:空白の十七年、狼の目覚め —— テムジンという名の「器」

1.モンゴル高原の風:言葉を繋ぐ古老と若き狼

 アムール河を遡り、さらに西へ。  義経一行が辿り着いたのは、地平線が天と溶け合う、果てなき大草原であった。

 そこは、湿潤で緑豊かな日ノ本の山河とは全く異なる、無慈悲なまでの開放感と乾燥に満ちた世界だった。乾いた風が吹き抜けるたび、丈の低い野草が黄金の波のようにうねり、野生のニラやヨモギの鋭い匂いが鼻腔を突く。空は「テングリ(永遠なる蒼天)」の名にふさわしく、吸い込まれるほどに深く、どこまでも澄み渡っていたが、その美しさの裏には、一晩で家畜を凍りつかせ、軟弱な生命を容易く刈り取る極北の冷徹さが潜んでいた。

 義経と弁慶、そして奥州の地獄を生き抜いてきた二十名の精鋭郎党たちは、安東氏から譲り受けた頑強な馬と、現地で調達した粘り強いモウコノウマに跨り、その乾いた大地を静かに進んでいた。  彼らの装束は、すでに日ノ本の武士のそれではない。鹿やトド、あるいは狼の皮を幾重にも重ねた重厚な防寒着を纏い、顔は強い陽光と乾いた風に灼かれ、石碑に刻まれた碑文のように深く険しい皺が刻まれている。だが、その腰に差した和刀の洗練された反りと、背負った長大な和弓の圧倒的な張力だけが、彼らが東方の黄金の国から来た「異能の武者」であることを無言のままに主張していた。

「……御館。前方、土煙が上がっております。争いの音も聞こえる。ただの狩りではありますまい」

 弁慶が、手綱を引き絞りながら呟いた。その視線の先、なだらかな丘の向こう側から、鋭い金属音と、馬の激しい嘶き、そして野蛮な怒号が風に乗って届いてきた。

 義経は無言で手綱を引き、丘の頂へと馬を進めた。眼下で繰り広げられていたのは、凄惨な略奪の光景であった。数十騎の屈強な戦士たちが、わずか数張の古いフェルト製テント――「ゲル」を取り囲み、火を放っている。黒煙が蒼天を汚し、女たちの悲鳴が草原を切り裂く。  必死の抵抗を続けているのは、身なりもみすぼらしい、数人の若者たちであった。その中心に、一人の若者がいた。ぼろぼろの革鎧を纏い、刃こぼれした曲刀をがむしゃらに振り回しながら、仲間を守るように立ちはだかっている。

「面白い目をした若者だ。……弁慶、三郎。手を貸すぞ。日ノ本の武芸、この地の連中に見せつけてやれ」

 義経の声は、静かだが鋼のように鋭かった。二十名の精鋭たちが、一斉に和弓を番える。日ノ本の強弓は、草原の民が使う短弓よりも遥かに重く、強靭な張力を持っている。義経が放った最初の一矢が、襲撃者の首領の喉元を正確に貫いた。

「ヒュルルルルッ……!」

 鏑矢かぶらやの唸りが草原に響き渡ると、襲撃者たちは何事かと動きを止めた。その一瞬の隙を逃さず、二十名の武者が一団となって丘を駆け下りる。それは、草原の民が経験したことのない「集団戦」の形であった。個々の勇猛さに頼るのではなく、一糸乱れぬ隊列を組み、正面から圧倒的な圧力をかける。弁慶の長刀が一閃するたびに、人馬が文字通り両断され、草原は瞬く間に血の海へと変わった。

 静寂が戻った草原で、生き残った若者が義経の前に進み出た。彼は荒い息を吐きながらも、決して武器を置こうとはしなかった。 「……貴様らは、何者だ。この辺りで見ない顔だが、その弓、その力……人間とは思えん」

 若者が発した言葉は、古モンゴル語であった。義経たちはその意味を測りかね、重苦しい沈黙が流れる。その時、破壊されたゲルの影から腰の曲がった一人の古老が這い出してきた。名はコルチ。彼は義経たちの姿を見るなり、驚愕に目を見開いて地面に額を擦り付けた。

「……カムイ。東の、アイヌ・エ(アイヌの地)から来た、神の軍勢か?」

 コルチが発したのは、不器用ながらも聞き覚えのある響き――アイヌ語に近い日本語の断片であった。彼は若い頃、はるか北方の東海岸でアイヌの民と毛皮交易を行っていた経験があり、そこで東方の民が使う言葉を断片的に習得していたのである。

「老い人よ、言葉が解るのか。我らは海を越えてきた」

 義経が問いかけると、コルチは震える声でテムジンに伝えた。 「テムジン様、このお方たちは、海の向こうの黄金の国から、鴉の羽に乗ってやってきた神の使いです。その弓を見なされ、その刃を見なされ。我らの知らぬ理を持っている。このお方たちが味方になれば、貴方の野望は天に届く」

 テムジンは、コルチの通訳を通じて義経を見つめ返した。その黄金色の瞳には、疑念と、それ以上の渇望が渦巻いていた。 「俺はテムジン。キヤト・ボルジギン氏族の主だ。……あんたが神か人かは知らんが、その力を俺に貸せ。この引き裂かれた草原を、血の海から救い出し、一つの旗の下に纏め上げるために」

 義経は、若き狼の瞳に宿る、自分と同じ「地の底から這い上がってきた者」の気配を確信し、その血塗られた手を取った。


2.覇道の教本:鋼の技術と軍略の指南

 義経は、テムジンの小さな群れに滞在することに決めた。二十名の精鋭郎党たちは、単なる護衛ではなかった。彼らはそれぞれが、日ノ本の武芸、工芸、そして組織論の「師範」となり、テムジンの兵を根本から作り替えていった。

 まず着手したのは、武具の質の向上であった。武器の製造に詳しい郎党・金平かねひらは、草原の民が顧みなかった河原の砂礫から「砂鉄」を採取する方法を教えた。 「テムジン、見よ。大地には力が眠っている。これを火で叩き、不純物を除けば、お前の剣は折れぬ牙となる」  金平は移動式の炉を考案し、奥州平泉で培われた製鉄技術を簡略化して伝授した。出来上がった矢じりは、草原の短弓に適した「返し」の強いものではなく、風を裂き、敵の革鎧を容易く貫通させるための細く鋭利な「征矢そや」であった。さらに、夜襲において敵を攪乱するための音響兵器「木蕪きかぶら」の製作法も授けられた。

 実戦の場においても、義経は自ら馬を駆り、日ノ本の合戦で磨き上げた「真の戦」を叩き込んだ。

「草原は平坦に見えるが、獣の道もあれば、風の溜まり場もある。山地と平原では、筋肉の使い方が根本から異なるのだ。馬の背に揺られるだけでは、ただの荷物と同じだ。馬の一部になれ」

 義経は、二十名の精鋭を教官とし、テムジンの従者七十名を加えた合計九十名の中核部隊に対し、苛烈な身体訓練を課した。山岳地帯での俊敏な動きを支える内腿の締め方。平地での長距離疾走に耐えるための、丹田を意識した呼吸法。  特に、日ノ本独自の「騎射」の技術は、草原の戦士たちに衝撃を与えた。馬上から乱射する彼らに対し、義経が教えたのは、馬の四肢が疾走の中で完全に宙に浮く一瞬――「静止の刻」に狙いを定める「静」の極意であった。この技術により、モンゴル騎兵の命中精度は劇的に向上し、一射必殺の恐怖を敵に植え付けることとなる。

「馬を労われ。馬を休ませる時間は、お前たちが眠る時間よりも重要だ。馬が死ねば、お前は草原の塵となる」

 休息時の馬の扱い方――「掛け繰り」の技術。筋肉の強張りを解き、呼吸を整えさせる法。さらに、馬の蹄を守るための保護技術。これにより、テムジンの騎馬隊は、敵の想像を絶する速度と距離を連日移動し、神出鬼没の奇襲を可能としたのである。


3.殺戮の彼方へ:統治の理と広大なるビジョン

 ある夜、満天の星の下で、義経はテムジンと焚き火を囲んでいた。テムジンは、その日行われた苛烈な訓練によって統制された自軍を思い返し、興奮気味に語った。 「クロウ、あんたの戦術があれば、俺を裏切った連中を皆殺しにできる。この草原から敵がいなくなるまで、一人残らず、その種を絶やしてやる」

 義経は、焚き火に薪をくべながら、静かに、しかし冷徹に首を振った。 「テムジン、真の戦たるもの、その目的は殺戮ではない。殺戮は手段に過ぎず、目的は『平定』にあるのだ」

 テムジンが怪訝そうな顔をする。義経は自らの凄惨な過去を紐解くように続けた。

「敵対する者には非情であるべし。これは真なり。倭国においては、親子・兄弟が敵方に分かれ、血を洗う戦を繰り広げた。かつて平家の棟梁、平清盛公は、敗れた我が父・義朝の息子である頼朝と、幼きこの義経らの兄弟に情けをかけ、その命の細火を繋ぎ止めた。だが、その一時の情けゆえに、平家は後に我ら源氏の手によって滅ぼされたのだ。情けは時として、己の種族を滅ぼす毒となる」

 義経は、夜の闇に吸い込まれていく火の粉を見つめた。その瞳には、平泉の業火が反射しているかのようだった。

「そして今、私は兄への情けと信頼に報われず、刺客の軍勢を放たれ、忠義なる影武者の身代わりに救われて、この果てなき平原に立っている。兄・頼朝の真意は測りかねるが、恩讐を超えて今にして思えば、それもまた武人としての冷徹な正道であったのだろう。奴は情けを捨て、冷徹なる秩序を選んだ。だからこそ、日ノ本を統べる王となれたのだ」

 義経の言葉は、テムジンの野心に冷たい楔を打ち込んだ。

「だがな、テムジン。殺戮だけでは勢力は増えぬ。ただの破壊者は、いずれ自らも破壊される。例えば、我らがここで同族同士、殺し合いを極めたとしよう。どちらが勝っても、残るのは血を流し、やせ細った軍勢だけだ。そうなれば、別の部族にたやすく滅ぼされる。殺し尽くすことは、自らの未来を削ることと同義なのだ」

「帰順する者は、その忠実さに応じて受け入れよ。我の二十名の武将と汝の七十名の軍勢は、中核なる精鋭として維持しつつも、降った者もその能力に応じて評価し、重用するのだ。主軸が揺るがぬ限り、外からの血は力となる。そうして勢力と領土、軍馬と兵糧を拡大せよ。殺すのではなく、呑み込むのだ。これこそが帝国の作り方だ」

 テムジンは焚き火の炎を見つめ、黙って聞いていた。 「島国の倭国、日ノ本でさえ、そうして血を混ぜ、勢力を築いた。いわんやここは、蒼天が翻る広大な平原だ。壁も海も、我らを止めるものはない」

 義経は立ち上がり、遥か東の方角を指差した。 「テムジン、見よ。西方は遠く、そして東には広大な『中原ちゅうげん』――中華の地がある。そこには計り知れぬ富と、高度な文明が眠っている。我らの代で叶わずとも、いつかはそこを目指すのだ。草原の小競り合いに終始するな。お前の志は、この天と同じく無限でなければならぬ。お前が目指すのは、草原の王ではなく、世界のあるじだ」

 テムジンの黄金色の瞳が、夜空の星を映して輝いた。これまでは生き残るための戦い、復讐のための略奪しか知らなかった若者が、初めて「世界帝国」という概念に触れた瞬間であった。 「殺すのではなく、呑み込む……。そして、その先の富を掴むか。クロウ、あんたの見てきた景色は、俺が思っていたよりずっと広く、深い。あんたという影が、俺を導く光に見えてきたぞ」


4.十七年の沈黙:日本刀を捨て、草原の法を握るまで

 季節は巡り、草原に幾度もの雪が降り積もり、そして融けた。義経たちが日ノ本を離れてから、すでに十七年の月日が流れていた。  この「空白の十七年」の間、義経は表舞台に出ることは一度もなかった。彼は常にテムジンの「影」として、あるいは一族の最高顧問として、その覇道の礎を築き続けていた。テムジンの勝利の裏には常に、義経の緻密な計算と、二十名の郎党たちが率いる精鋭部隊の活躍があった。

 もはや義経の顔に、かつての判官の面影はない。髭は長く伸び、肌は草原の苛烈な環境に耐えるために厚く、褐色の革のようになっていた。彼はコルチの協力もあり、完全にモンゴルの言葉を話し、その複雑な部族間の法を理解していた。だが、その心根にあるのは依然として、平泉という理想郷を追われた男の、壮大な「文明の再構築」の意志であった。

「御館。……そろそろ、その刀を置く時が来たようですな。我らの役目も、第二の幕が開こうとしております」

 傍らに立つ弁慶が言った。弁慶もまた、草原の男たちから「テングリの遣わした巨人」と畏怖される存在となっていた。義経は、自身の腰から日ノ本の武士の象徴である二本の太刀を外した。そして、平泉から守り抜いてきたその刃を、重厚な革袋に収め、ゲルの奥深くに封印した。これは、過去との完全なる決別、そして「日本」という枠組みを超えた存在への転生を意味していた。

「源九郎義経は、今日、真に死んだ。……私はこれから、この世界そのものを『平泉』とするための、永遠の風となる」

 義経は、テムジンが全部族の長として推戴される「クルルタイ(大集会)」の前夜、彼と二人きりで向き合った。テムジンは、すでに壮年の風格を備え、その瞳には王者の威厳と、数多の戦場を潜り抜けた経験が満ち溢れていた。

「クロウ。あんたがいなければ、俺はとっくに野垂れ死んでいた。あんたこそが、この帝国の真の創造主だ。あんたに最高の位を与え、俺の隣に座らせよう」

 義経は静かに、しかし断固として首を振った。 「私は影だ。影が光の前に出ることはない。テムジン、お前が『チンギス・ハン』という名の大いなる光になれ。私は、お前の背後にある闇となり、敵を、そして世界を呑み込んでやろう。お前が天を仰ぐとき、私はその足元の影として、お前を支え続ける」

 翌日。オノン河の畔で、九つの白い軍旗が風にたなびいた。数万の騎馬武者たちが、一人の王を讃えて、大地を震わせるほどの叫びを上げる。 「チンギス・ハン! チンギス・ハン!」

 その喚声の渦の端で、黒い外套を纏った二十一人の男たちが、静かに馬を並べていた。義経――いや、「クロウ」は、腰の新しいモンゴル刀を握りしめ、かつて鎌倉で見せたものより遥かに冷徹で、遥かに巨大な微笑を浮かべた。

 空白の十七年は終わった。狼が目覚め、世界が悲鳴を上げる、未曾有の覇道の始まりであった。


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