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黄金の蹄、紅蓮の太刀、モンゴル草原を駆ける牛若丸 ~ 源義経、東西を貫く覇道 ~  作者: 如月妙美


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第1章:北天の星、散りてなお輝く —— 衣川の偽装と「蝦夷への門」

1.炎上する衣川館:義経、死出の旅路の嘘

 文治五年(一一八九年)閏四月三十日。陸奥の空は、呪わしいほどの夕焼けに染まっていた。  平泉を象徴する黄金の栄華は、今や漆黒の煙となって天を汚している。

 北上川と衣川が激しくぶつかり合う要害、高館たかだちを包囲したのは、奥州藤原氏の四代当主・泰衡やすひらが差し向けた数千の軍勢であった。  かつて義経を慈しみ、「奥州の父」と仰がれた藤原秀衡がこの世を去ってから、わずか数ヶ月。  兄・源頼朝の執拗な追及と、鎌倉からの軍事的圧力を恐れた泰衡は、父の遺言を裏切り、源氏の至宝たる九郎判官義経を屠る道を選んだのである。

 館を囲む漆塗りの勾欄こうらんは、熱風に煽られて無残に剥がれ落ちた。  かつて秀衡が京から呼び寄せた絵師が描いた極彩色の障壁画は、炎に舐められて炭化し、音を立てて剥落していく。  阿弥陀堂の軒先で揺れていた風鐸ふうたくが、熱で溶け落ちる寸前、悲痛な金属音を一度だけ響かせた。

「九郎を殺せ! 首を上げ、鎌倉の殿に差し出すのだ。さもなくば、この奥州に安寧はないぞ!」

 寄せ手の喚声が、春の嵐に混じって不気味に響き渡る。  降り注ぐ数千の火矢が、高館の檜皮葺ひわだぶきの屋根を次々と舐め上げた。乾燥した木材が爆ぜる音が、まるで断末魔の叫びのように連なった。

 その火の海の中心、最奥の御堂で、源義経は静かに座していた。

 かつて一ノ谷の断崖を獣のごとく駆け降り、屋島で暴風雨を突っ切り、壇ノ浦で平家を海の藻屑に変えた「戦の天才」の姿は、そこにはなかった。  身に纏うのは、重厚な大鎧ではなく、死装束にも似た純白の直垂ひたたれ。  その襟元には、わずかに奥州特有の細かな金糸の刺繍が施されていたが、今は煤と熱風に晒され、灰色に汚れ果てている。

 彼の膝には、一振りの短刀が置かれていた。名刀・今剣いまのつるぎ。  三条宗近が鍛えたとされるその刃紋は、揺らめく炎を反射して怪しく波打ち、まるで主人の最期を惜しむかのように冴え渡っている。  義経は細く白い指先で、その冷たい鋼の感触を確かめた。

「……兄上。これが、貴方の望んだ結末か」

 義経の薄い唇から、乾いた言葉が漏れた。  頼朝のために平家を滅ぼし、源氏の世を打ち立てた。その恩賞が、逆賊の汚名と、この炎の檻である。

 義経の瞳は、怒りよりも深い虚無、そしてそれを通り越した、冷徹なまでの「知」の光を宿していた。  その視線は、崩れ落ちる御堂の朱塗りの柱ではなく、その先にある、北の果ての闇を見据えていた。  彼にとって、この死地は終わりではなく、巨大な「転機」に過ぎなかった。

「九郎様。もはや御堂の階まで火が回っております。一刻の猶予もございませぬ。……お急ぎを」

 襖を静かに開け、血に塗れた一人の若武者が現れた。義経の忠実な郎党、杉目太郎行信である。  彼は義経と背格好が驚くほど似ており、長年、その影武者として数々の修羅場を潜り抜けてきた。  行信の頬には、先ほどの乱戦で浴びた返り血が凝固し、朱い筋が顎へ流れている。  その手には、義経がかつて戦場で愛用した「笹竜胆」の紋入りの直垂が抱えられていた。

「行信。……済まぬな」

「滅相もございません。私の命、ここで殿の『死』となるために捧げます。……義経公、どうか、新たな地で、真の覇道をお示しください」

 行信は、義経から譲り受けた錦の直垂を羽織り、義経の目の前で自らの腹を深く、一文字に掻き切った。  ぐっ、という短い呻き声とともに、鮮血が御堂の畳を紅に染め上げた。  むせ返るような生臭い匂いが熱気に混じる。行信の顔が苦悶に歪むが、その瞳は最後まで主人への忠義に輝いていた。

 義経は震える手で、自らの身代わりに果てた忠臣の首を刎ねた。  その顔を傍らの熾火おきびに押し当て、何者か判別がつかぬように皮膚を焼き崩す。  それは、血も涙もない作業であった。だが、この残酷な「嘘」だけが、頼朝の追撃を断ち切る唯一の刃となることを、彼は知っていた。

「さらばだ、日本ひのもとの九郎判官義経」

 義経は、炎に包まれた御堂の床下、湿った土とカビの匂いが立ち込める秘密の脱出口へと身を投じた。  その背後で、御堂の屋根が轟音を立てて崩落し、火の粉が夜空へ高く舞い上がった。

 この瞬間、歴史上の「源義経」は死んだ。  そして、名前を奪われた一人の「狼」が、北天の荒野へと解き放たれたのである。


2.武蔵坊弁慶、仁王立ちの真実:主君を逃がした「鉄の壁」

 衣川の館を囲む柵の前に、一柱の「黒い山」が立ちはだかっていた。  武蔵坊弁慶。  その巨体は二メートルを超え、黒漆塗りの腹巻はらまきに身を包んだ姿は、さながら地獄の底から負い出した不動明王のようであった。  頭を包む白い頭巾は、飛び散った返り血と煤で赤黒く汚れ、その隙間から覗く目は、狂気と覚悟の入り混じった異様な光を放っている。

 その背には、戦場を幾多も凪ぎ払ってきた「弁慶の七つ道具」が、重々しく背負われていた。  巨大なまさかり、熊手、刺又さすまた、そして愛用の長刀。  手にした長刀は、柄が太く、刃渡り三尺を超える大業物である。  その足元には、すでに数十人の寄せ手の死体が山をなし、流れた血は泥と混じって足首を浸すほどのぬかるみを作っていた。

「ここより先、一歩たりとも通さぬと申したはずよ!」

 弁慶の咆哮が、衣川のせせらぎと炎の爆ぜる音を完全に掻き消した。  寄せ手の兵たちは、その圧倒的な威圧感に喉を鳴らし、一歩も前へ出ることができない。彼らは恐怖のあまり、震える手でただ遠巻きに矢を放つことしかできなかった。

 シュッ、シュッ、と空気を切り裂く鋭い音が鳴り、弁慶の体に次々と矢が突き刺さる。一本、二本……。  その数は、やがて五十本、百本を超えた。  弁慶の黒い鎧は、背負った矢羽で針鼠のようになり、傷口からはドロリとした重い血が溢れ出し、漆塗りの鎧を濡らしていた。  鎧の隙間から覗く素肌には、数えきれないほどの切創と火傷が刻まれていたが、巨漢の呼吸は驚くほど静かであった。

「ははは……効かぬわ! 我が主の旅路を邪魔する小蠅どもが。貴様らの魂など、この弁慶が地獄の底まで蹴り落としてくれる!」

 実は、この時の弁慶は、ある特殊な秘術を施されていた。  義経が幼少期に鞍馬山で学んだ、伝説の異能者・鬼一法眼より伝授されたとされる陰陽の秘術である。  肉体の痛みを遮断し、限界を超えて活動させる特製の劇薬。  そして、呼吸を停止させてもなお筋肉を瞬時に硬直させ、鋼の柱のごとく立ち続けるための気功術である。  弁慶は、義経から授けられたその黒い薬を、開戦の直前に一気に飲み干していた。その代償は、自身の命である。

 弁慶は知っていた。  自分がここで「完璧な死」を見せ、数千の兵をこの一点に釘付けにしなければ、義経の北への脱走を成功させる「空白の刻」は生まれないことを。

 やがて、弁慶の咆哮が止まった。  瞳を見開き、長刀を杖のように大地に突き、両脚をしっかりと踏みしめたまま、その心臓の鼓動が止まったのである。

 雨のように降り注ぐ矢が、その動かぬ死体にさらに突き刺さる。  一本の矢が左の頬を貫き、鼻孔から血が噴き出しても、弁慶はびくともしない。  その立ち姿は、もはや生物ではなく、大地の怒りが形となった神像のようであった。

「……死んでいるのか?」

「馬鹿な、目を見開いているぞ。近づけば一瞬で、あの長刀が我らの首を撥ねる!」

 寄せ手の兵たちは、死体にすら恐怖し、数時間もの間、その場を動くことができなかった。  夕闇が迫り、弁慶の巨影が長く地に伸びる中、誰もがその不動の鬼神に魂を吸い寄せられ、背後の館で起きている「奇術」に気づく者はいなかった。

 だが、歴史が語らぬ続きがある。

 夜の帳が完全に下り、泰衡の軍勢がようやく館を制圧し始めた頃、深い霧の中から数人の影が現れた。  それは、奥州の険しい山々に潜んでいた山伏のネットワーク、「修験者」たちであった。  彼らは、暗闇に紛れて死体の山を分け入り、まだ微かに芯のような体温が残っていた弁慶の巨体を、手際よく荷車に乗せ、戦場の混乱に乗じて運び出したのである。

「弁慶。お前の地獄、まだ終わらせはせぬぞ。私とともに、世界の果てまで付き合ってもらう」

 闇の中で低く囁いたのは、館を脱出し、山伏の衣に着替えた義経本人であった。  弁慶は、死の淵にありながら、主君の声を確かに聞いた。  その太く、節くれ立った指先が、痙攣するように微かに動いた。

 鉄の壁となって主を救った男は、今、自らもまた歴史の表舞台から消え、冥府の軍団の一員として、北の荒野へと引きずられていったのである。


3.北へ、さらなる北へ:十三湊から望む大陸の影

 衣川の惨劇から数ヶ月。  平泉の栄華を破壊し尽くし、奥州を蹂躙した鎌倉軍の執拗な追撃を逃れ、義経一行は陸奥の険しい山道を、ひたすら北へ向かっていた。

 同行するのは、傷を癒した弁慶、そして伊勢三郎、駿河次郎ら20名の精鋭郎党のみである。  彼らは粗末な、しかし厚手の山伏の装束に身を包み、人目を避けるように八甲田の原生林を越えた。  初夏の山々には、エゾハルゼミの声が降り注ぎ、山ツツジの鮮やかな紅が、かつての合戦の血を思い出させた。  夜は焚き火も焚かず、野苺や木の実、時には蛇を捕らえて飢えを凌ぐ過酷な逃避行であった。

 目指すのは、本州の最北端に位置する巨大な交易港、十三湊とさみなとである。  この湊は、当時の日本において異質な空間であった。

 鎌倉の支配も、京の朝廷の法も、ここでは通用しない。  そこには、北方の島(蝦夷ヶ島)からやってくるアイヌの民の丸木舟や、さらにその先にある、見たこともないほど巨大な大陸――「山丹さんたん」からやってくる異国の商船がひしめいていた。  港には、乾燥した鮭の匂い、塩辛い潮風、そして北方特有のトドの脂臭さが混じり合っている。

「……ここが、日ノ本の終わりか」

 港を見下ろす丘の上で、義経は立ち止まった。  潮風が、彼の伸び放題になった髪を激しくなびかせる。  目の前に広がるのは、鉛色をした冷たい日本海。その水平線の彼方には、どんよりとした重い雲が垂れ込め、何か巨大な怪物が口を開けて待っているかのような、不気味な静寂があった。

「九郎様。……いえ、御館みたち。船の用意ができております。津軽の王者、安東氏の計らいで、夜明け前に発ちます」

 弁慶が、まだ赤紫色の傷痕が残る首筋をさすりながら報告した。彼の声は以前よりも低く、重みを増している。

「安東は、兄上の目をごまかせるのか?」

「彼らは海の民です。鎌倉の武士が馬を駆けるより、彼らが波を操る方が数段速い。追っ手は、この荒波を越える術も、その先に広がる『世界』の大きさも、何一つ知りませぬ」

 その夜、十三湊の最奥にある、断崖に隠された天然のドックから、一隻の堅牢な船が静かに出航した。  それは日本の和船とは構造が根本から異なり、船材には腐りにくい北方のぶなや桂が贅沢に使われ、荒波に耐えうるよう船底が深く、二つの頑強な帆を備えた「海防船」であった。

 船体には、アイヌの装飾にも似た渦巻き状の魔除けの紋様が刻まれ、その内部には、平泉の焼け跡から運び出された大量の「砂金」が隠されていた。  奥州藤原氏が数百年にわたって蓄えた、世界を買い叩けるほどの黄金。  これこそが、義経が大陸で再起するための「血」となるものである。

 義経は船首に立ち、次第に遠ざかっていく日本の大地を見つめていた。

 かつて、この国で自分は神として崇められ、犬として追われた。  平家を滅ぼした一ノ谷の栄光も、屋島の夕暮れも、静御前と交わした「しづやしづ」の哀しき誓いも、すべてはこの霧深い闇の中に消えていく。

「……さらばだ、日本ひのもと。私はもう、源義経ではない」

 義経の視線は、北の空に、ひときわ冷たく輝く一星――北極星を捉えていた。

 当時、大陸では金王朝が衰退の兆しを見せ、北方の草原では、バラバラに引き裂かれた部族たちが、新たな「王」の到来を待ち侘びていた。  後に「蒼き狼」と呼ばれることになるその巨大なうねりの中へと、義経の船は吸い込まれるように進んでいく。    義経の手には、一羽の烏が彫られた古い法螺貝が握られていた。  彼はそれを強く握りしめ、一度も振り返ることなく、未知なる混沌の彼方へと、漆黒の海を切り裂いていった。

 水平線の向こうで、轟く重厚な雷鳴。  それは、新たな英雄の誕生を告げる、神々の祝砲であった。


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