夫に愛されないお飾り妻は、戦国の世の夢を見る
異世界恋愛ですが、時代劇風な部分も所々で入っています。ふんわりとした雰囲気でお読みいただけたら嬉しいです。
……しとしと雨が降り注ぐ。
細雨はやがて泥濘となり、粘りつく土が重い足に絡みついた。
もつれてどしりと転がった身の痛みは耐えがたく、起き上がろうと足掻いても這いつくばることさえままならない。
纏わりついた濡れた衣は、僅かに残った熱をも奪い去る。鎧の下でとめどなく滴るは、雨のしずくか、それとも血か。
鉄砲と矢に背を射られ、虚ろにさまよいながら身を隠す場を求め歩いた末のことだった。
倒れて幾度と息を吸えども、水底に沈んだように苦しみが続く。喘ぎ浅息を繰り返したのち、それはやがて波が引くように和らいでいった。
――――やがて凍てつく寒さも苦しみも失われ。
いよいよかと、現し世との別れを悟り瞼を下ろす。
(静……)
呼びかけは声にならず、深く永いまどろみに落ちた。
********
季節外れの肌寒さで目を覚ますと、外は雨が降っているようだった。
「セリーナ様、本日の午後にパリス伯爵邸にてサロンの集まりがあるようでございます。イザベラ夫人から是非にとのお誘いがございますが、いかがなさいますか?」
朝の身支度を整えた後、侍女が私にそう伝えた。
あまり調子が良くなかったので一瞬断ろうかと考えたけれど、思い直して誘いを受けることにした。
「ええ、では伺うことにするわ。ご夫人方からエクトール様の近況をお聞きできるかもしれないものね」
私がそう言うと、侍女は少しばかり哀しそうな顔をして「かしこまりました」とその場を後にした。
私の側で仕えている者は皆、私が『夫に愛されないお飾り妻』であることを知っている。嫁いだ当初から夫婦の会話は一切なく、目すら合わせてもらえない憐れな妻だと。
ヴェルニー伯爵家の嫡男、エクトール=ヴェルニーと婚約してから六年、結婚してから三年が経つ。その間に微塵も交流がないなんて、誰が聞いても信じがたい話だろう。
エクトールはこの夫婦仲を上手く周囲に誤魔化しているようで、これまで義両親から子の催促をされることはなかった。
とはいえ、口も聞かない相手と平然と暮らせるほど、私の心は強くはない。
けれど半年前、夫に軍の指令が下った。紛争が起きた近隣国を偵察する任務に就いたという。
長期間の遠征に出ると聞いて、ほっとしたのは言うまでもない。やっと息苦しい生活から解放されると 喜んでいた。
そもそも、私たちの結婚には初めから愛なんてない。向こうに歩み寄る気がないのだから、私が努力したって仕方がない。
互いに冷めているのだから不憫に思う必要はないと言いたいけれど、この家に嫁いだ身としてそれは口には出来なかった。
だから侍女やメイドからの憐れみの視線は、仕方のないことだと黙って受け入れている。
午後になって外を見ると、すでに朝の小雨は止んでいた。パリス伯爵家に向かう頃には日が姿を現し、雨上がりの湿った空気が肌に纏う。
到着したのは午後二時ごろで、すでに数人の知人が集まっていた。
「ごきげんよう、セリーナ様。お待ちしておりましたわ」
主催のパリス伯爵の妻であるイザベラ夫人に迎えられ、サロンの一席に案内された。今日誘われたご夫人たちは、ここ最近集うことの多いお仲間だ。
私と同様、軍に就く夫を持ち遠征を見送った奥様方。たまにこうしてお茶会を開いて情報交換をしていた。
「シェバルト様が率いる小隊も、最近になってプロトス聖国に入られたとお聞きしました。その後、近況を知らせるお手紙は届いていらっしゃるの?」
イザベラ夫人が率先してご夫人たちに話題を振っていく。彼女はこの仲間内の年長者で、すでに爵位を継いだ夫の妻。つまり正式な伯爵夫人だけれど、それでも私と七歳程しか離れていないので気軽に誘ってくれていた。
「ええ。先日手紙が送られたばかりですわ。とはいえ書かれていることは私や子供のことばかりで、肝心なことには一切触れず……こちらは心配しているというのに」
「あら、そうなんですの? でもプロトス聖国は小さい国でありながら、周辺国からの影響が少なく平和が保たれているとか。だからてっきり観光のお手紙でも届いているかと思ったのよ」
「そんなこと一言も書いておりませんでしたわ。それならそうと、あの方も一言添えてくださればいいのに」
尋ねられたご夫人は不満そうな口ぶりながら、安堵の表情を浮かべる。続けてイザベラ夫人が私の方に顔を向けた。
「ただプロトスを抜けた先の国境付近が不安定になっているとの知らせが入っておりますわ。ヴェルニー様はそちらに向かわれたと聞いていますが、ご連絡はありまして?」
当然だけれど、あの夫が私に手紙を寄越すはずもない。時々、当主である義父が食事の席で話題に出すことがあるけれど、それを聞いて把握するのがせいぜいだ。
だから仕方なく正直に話した。
「それは初耳ですわ。もしかしたら父であるヴェルニー伯爵には知らせが行っているかもしれませんが、私には何も」
「そう。――もしかしたら貴女に心配をさせたくないのかもしれないわね。余計なお世話かもしれないけれど、内戦地域では部隊が巻き込まれることも十分に考えられます。少し心構えをしておいた方がよろしいかもしれませんわ」
イザベラ夫人は神妙な顔でそう助言をしてくれた。
二時間ほどのお茶会は、その後もそれぞれの近況報告や政治の話などで時間が過ぎていった。
パリス邸を出た帰り道、私は久しぶりに胸に空虚さを感じていた。
分かっていたはずなのに。命が危ぶまれる場所に行く時でさえ、私は何も知らされない。
何も期待などしていなかったのに、久しぶりに湧き上がる嫌な感情に気付いて、思わず苦笑いをしてしまった。
始まりから終わっていた私たち。
初夜から随分と思い知らされたけれど、まだ懲りていないのかと笑ってしまった。
あの日、寝室で緊張していた私を気にかけることはなく、エクトールは私を居ないものとして扱かった。
婚約時から気付いていたけれど、やはり私はエクトールにとって将来のための一つの駒でしかないのだろう。
それならそれで構わない。けれどそこまで徹底して嫌われる意味が分からなかった。
けれど結婚してから、もしかしたらと思うことがあった。
彼には大切にしている妹がいる。彼の六つ年下で、私より三つ年下の美しい令嬢。
いつも彼女に寄り添い、過保護な様子を見せている夫を見て、妹を愛するあまり他の女性には興味が持てないのかと疑った。
ふぅん、と私は遠巻きに冷めた目で見ていたけれど、その妹はなぜか私に近寄ってくる。
「セリーナ様、これお兄様からプレゼントされたの」
呼んでもいないのに私の部屋を訪れ、そう言って自慢げに見せてきた。手にしていたものは、美しい首飾りやペンダント、宝石箱など色々なものがある。
「……お優しいお兄様ね」
「でも、私にはちょっと大人な雰囲気であまり合わないみたいで」
そしてそれを差し出す。
「せっかくのお兄様からのプレゼントを無駄にはできないから、セリーナ様に貰っていただけないかと思って」
「それはエクトール様がエリスさんの為に選んだ物でしょう。そんなことをしたらお兄様が悲しむわ」
「いいえ、気に入らなければ誰かにあげていいと言われているから大丈夫です。それに照れ屋なお兄様だから、もしかしたら本当はセリーナ様にお渡したいのではないかと思って」
夫の妹のエリスは見た目が綺麗なだけではなく、その中身も可愛らしい人だった。
兄が冷たい人間などと考えもしないから、私への無関心さも良く捉えようとする。それが逆に惨めな気持ちにさせて、文句のぶつけどころも見つけられずに気が滅入るだけだった。
そんな彼女も来年の結婚に向け忙しい毎日を送っている。エリスのことは嫌いではないけれど、会う機会が少なくなってやっと落ち着いたところだ。
サロンでの話から久しぶりに昔のことを思い出し、何ともいえない気分でヴェルニー邸まで戻った。
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――静、これは天満で買うてきた櫛じゃ。お前に似合いかと思うてな。
――――まあ、これはべっ甲ではございませんか?
――ああ、いや……本物を買うてやりたい心は確かにあった。しかし支度金を丸ごと使うわけにもいかんわけだしな。贋物にはなるが、けして安うもんやないぞ
――――はい、わかっております。それにこれほど美しい櫛は見たことがありません。長く大切にします、伝十郎様……
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朝から調子が良くなかったせいか、帰宅してソファで休んでいたら、うたた寝をしてしまった。
不自然な体勢だったせいか、変な夢を見ていたような気がする。知らない場所で、誰かとプレゼントのやりとりをしていた。
……エリスのことを考えていたせいかしら。あの子からは何回もプレゼントを押し付けられたから。
でも夢の中の人は、随分と貧しい身なりで変わった服を着ていた。あれは何なのだろう
記憶にない不思議な風景ことをぼんやりと思い出していると、侍女が私に声を掛けていた。そろそろディナーへ向かう支度をすると言う。
もうそんな時間かと、重い体をゆっくりと起こした。
ディナー用のドレスに着替え、ダイニングルームへ向かった。
いつものように義父であるヴェルニー伯爵と義母のルイズ夫人、そしてエリスがテーブルに集まる。ヴェルニー家にはエクトールの他に二男もいるが、彼は王宮の宿舎に住んでいるためこの場には居ない。
食事が進み始めると、伯爵が考え込むように重く口を開いた。
「実は少し前にエクトールから手紙が届き、国境を越えた内戦地に向うとの知らせがあった。無闇に心配させてはいかんと皆には話していなかったが、先程エクトールのいる部隊との連絡が途切れたという知らせがあった」
伯爵の言葉に、その場にいた全員が声を失う。私ですらそうなのだから、義母やエリスに至っては計り知れない。
「そんな……だって、ただ偵察に向かっただけでしょう?」
「お兄様が? あちらはそれほど大変な状況なのですか⁉」
二人はわずかな沈黙の後、次々と質問を投げかける。
「落ち着きなさい。今はまだ連絡が取れないという事実しかわかっておらん。しかしお前たちが言うように戦争に行ったわけではない。紛争に巻き込まれたとは考えにくいが、万が一ということもある。場合によっては負傷して帰る可能性もあるかもしれないと心構えをしていてほしい」
伯爵の様子から、そこまで切羽詰まった話ではないように思うけれど、やはり血を分けた家族となると衝撃なのだろう。
義母とエリスが交互に質問をぶつけ、私はそれを聞きながら黙々と食事を続けた。
私には関係のないこと。夫が亡くなった時だけ、その後のことを考えればいい。
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――喜べ、静。わしは後藤殿が率いる備に加わることになった。これが負け戦ではないことを皆に示して見せようぞ!
――――お声を静めてくださいませ。しかし関東の勢いを耳にすると、伝十郎様の身を案じてしまいます
――あの高名な後藤又兵衛殿が大坂の御所様の味方になられたのだ。我らの奪われた誇りと在所を取り戻す、一世一代の勝負であるのだぞ。わかってくれ、静……
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眩しさに思わず目を開けた。カーテン越しに入る光は僅かだったけれど、その薄明るさが目に馴染まなかったようだ。
身体を起こすとズキズキと頭と目の奥が痛み、しばらく瞼を閉じてじっとする。
「おはようございます、セリーナ様。いつもよりお早いお目覚めで」
「ええ。……お水が飲みたいわ。それから、カーテンを開けるのはもう少し経ってからにしてもらいたいの」
私はこめかみを押さえてそう伝えた。
……なんだろう、またあのおかしな夢を見た。前と同じ、知らない異国の風景。
あの場所はどこ? 私は何の夢を見ているの?
意味も分からないのに、胸がざわつく感覚に戸惑った。
昨晩エクトールが内戦地に向かった話を聞いたから、こんな夢を見てしまったのだろうか?
腑に落ちない気持ちを抱えつつ、私はその後もいつもと変わらない日々を過ごした。ご夫人たちとのお茶会や鑑賞会、時々催される夜会など。
エクトールが加わる隊が連絡が取れなくなったことが軍関係者に広まると、噂や情報交換などで更に交流が活発になった。
仲良くしているご夫人方から慰められることもあったけれど、それを微笑みで返しては適当に流すようにしていた。
私は夢の中の「シズ」のように、エクトールを心配する必要がない。あの夫婦の行く末は知らないけれど、あれだけ思い合っているのならさぞや辛かろうと思う。
私は一生、味わうことのない気持ちだけれど。
そんなことを思いながら、人生で一番酷い目に遭った日のことが蘇る。
『エクトール様。もう遅い時間でございます。私もそろそろ眠たくなってまいりました』
初夜の日、私が勇気を振り絞って夫に伝えた言葉。
私に背を向けて本を読んでいた彼は、ぱたりとそれを閉じたかと思うと、こちらを一瞥もせずにさっさと隣室へ消えていった。
ただ呆気にとられ、言葉を失った。何も言えないままその後姿を見送ると、その直後に猛烈な恥ずかしさに襲われて涙が溢れた。もしその時に鏡でも見ていたら、きっと顔を赤くして醜い顔をしていただろう。
そんな人を今更気に掛けて何になるというのか。私は私の役割を果たしていればよいのだと、そう思ってヴェルニー家で生きてきた。
……だけど、この胸のざわめきは何だろう。
伯爵の報告を聞いてから、内心が穏やかではないことに何となく気付き始めていた。
私はあれから、あの夢を度々見るようになった。
どこか知らない山の奥のどこか。毎日畑を耕して、もそもそした飯と味噌漬けを食べる日々。
出てくる顔ぶれは、いつも同じ。
……飯……味噌漬け……?
あれが何かを知っている自分に驚いた。そう、あれはかて飯と味噌漬けだ。土間には味噌樽があって、それで……。
「セリーナ様、もしかしてお身体が優れないのでは?」
私の様子がおかしいことに気が付いたらしく、侍女が心配そうに声を掛けてくれた。
何だか夢を見る度に頭痛が酷くなっていってる気がする。
一旦考えることを止め、休息を取ることにした。
・・・
廊下がやけに賑やかなことに気がついて、重い目を開けた。頭痛も和らいだので体を起こし、側で待機していた侍女にどうしたのか尋ねる。
「何かあったの?」
「実は先程、エクトール様が王都に戻られたと連絡がありまして、ただいまお迎えの準備をしているところでございます」
「えっ……」
思ってもみなかった報告に、思わず声が上がった。
「ご安心ください。セリーナ様が体調を崩されていることはすでに報告し、エクトール様をお出迎えする時間までお休みいただくよう言い渡されております」
私の焦りが伝わったのか、気を利かせて侍女が教えてくれた。
エクトールが帰って来た。突然その事実を知って、またあの息苦しい日々が戻るのかと気が遠くなる。けれどぼんやりとはしていられない。
「気分も回復したし、お義母様のところへご相談に伺います。私もお迎えする準備をしなくては」
役割はしっかりとこなす。子を作れるのかさえ分からないのだから、手を抜いてこれ以上自分の価値を下げることなどしたくない。
私は気を引き締めて、自分の部屋を後にした。
「お帰りなさいませ、エクトール様」
執事が最初に声をかけ、一同が夫を出迎えた。
「エクトール。よく無事に戻りました。危険を顧みず国に尽くしたあなたを、母として誇りに思います」
伯爵夫人である義母が一歩前に出て、エクトールにねぎらいの言葉を掛けた。ヴェルニー伯爵と共に王宮から戻った二人を、エントランスで迎える。
義母に続けて、私も夫に声を掛けた。
「お帰りなさいませ、エクトール様。ご無事であることを心から信じ、片時も忘れることなくお待ちしておりました」
思ってもいない言葉が、するりと口をついて出ていた。
自分でも驚いて、思わず口元に手を当てる。用意していた台詞と全然違うことを喋ってしまい動揺した。
「お兄様、私も心配しておりました。どうなることかと……」
そんな私に誰も気付いていないらしく、皆が久しぶりの再会を喜んだ。
――――もちろん、夫は私に目もくれないけれど。
「父上、母上、ご心配をお掛けしました。色々と報告もありますが、実はプロトス聖国での滞在中に贈り物を買っています。珍しい物など手に入れたので、後ほど部屋まで届けさせるので受け取ってください」
「あなたが怪我もなく帰ってきてくれたことが、一番の贈り物よ。今日は祝いの晩餐会になりますから、仕事の話はお早めにしてくださいね」
義母から告げられたスケジュールに、伯爵とエクトールは苦笑いをして執務室へと向かった。
二人の姿を見送った後はそれぞれの自室に戻り、晩餐会への準備に入る。
私と侍女も部屋に戻り、一緒にドレスと装飾品を選び始めた。祝いの席だから華やかなものをと考え、組み合わせを決める。
ではそろそろ着替えに入ろうかというところで、部屋に誰かが訪れた。
侍女が表に出てしばらくすると、小さな箱を手に持ち不思議そうな顔をしながら戻ってきた。
「セリーナ様、こちらはエクトール様がこの部屋に持って行くようにと仰っていたようで……」
はっきりしない物言いに、私も首を傾げる。
「……これは先程言っていた贈り物?」
「おそらくセリーナ様への贈り物だと思うのですが……届けに来た者も、この部屋へ持っていくように言われただけのようで」
ここは私の寝室だ。そう考えると私宛てだと考えるのが自然だけれど自信がない。
私たちの関係を知っている侍女もそう思ったようで、伝える言葉には迷いがあった。
「取り敢えず、中を見てみましょう」
渡されたのは薄い小箱。
そっと蓋を開けると、中には小さな平たい陶器が入っている。これがプロトス聖国で購入したという物なのだろうか。
これは宝石入れ? そう思いながら陶器の蓋も開けてみる。
するとその中には、透き通った黄金色のべっ甲の飾り櫛が入れられていた。
「……セリーナ様?」
私は声を失い息を呑む。
激しい動機と眩暈が私を襲い、手が震える。
それでも手を延ばし飾り櫛に触れた。
(これは天満で買うてきた櫛じゃ……お前に似合いかと)
(これほど美しい櫛は見たことがありません。長く大切にします、伝十郎様……)
私は櫛を握りしめ、一人で部屋を飛び出した。伯爵の執務室にいるだろう夫に確かめたくて、足早に廊下を駆ける。
「セリーナ様!……」
まさか、まさか。
はやる気持ちを押さえきれず、辿り着いた執務室の扉を勢いよく開けた。
話をしていた伯爵とエクトールが、驚いた様子でこちらを振り向く。とにかく話を聞きたかった。なぜこれを選んで私にくれたのかと。
知り合ってから六年、今やっとこの人と目が合った。
私は、この瞳を昔から知っている。色も形も、何もかも違うというのに。
その奥にある、慈しみの魂を私は知っている。
「『静』…………」
見つめながらそう呟き、そして意識が遠くなるのを感じた。
誰かが私の手を取り触れている。
優しく包むその掌は、とても温かく。
呼び戻されるように、私はゆっくりと目を開ける。いつの間にかベッドに横たえられ、すぐ側で見つめる夫と目が合った。
「エクトール様、私……」
さっきまでいた寝室。執務室へ向かい、気が遠くなったところまでは憶えている。もしかしてエクトールがここまで連れてきてくれたのだろうか。
「すまなかった」
私が身体をゆっくり起こすと、彼はそっと私の顔に触れた。声をつまらせ低く呟くエクトールは、私に知らない顔を見せる。
でもこの人が誰であるか、今の私はわかっていた。
「あのべっ甲の飾り櫛でやっとわかりました。――あなたは『静』なのですね」
「やっと……やっと。もう一度あなたに会いたいと願って……」
泣いているのか、声を押し殺すようにしてエクトールが応える。涙を堪えるように、目を赤くして震えていた。
そんな彼を安心させてあげたくて、微かに笑ってみせた。
黄金色の髪に深緑色の瞳。伸ばされた大きな手は、私の知るたおやかで華奢なものではなかったけれど。
「私は『静』を、置いてきてしまった」
夫の手に自分の手を重ね、過去に思いを馳せながら囁いた。
あの日、撤退を余儀なくされ殿を務めることになったところで、もうあの家には戻れないのだと覚悟した。
奪われた郷を取り戻し、静に豊かな暮らしをさせてやりたいと願ってのことだったけれど。
結局何の願いも叶えられず、愛する人をあの地に残してきてしまった。
「本当に申し訳ない思いだった。あなたを幸せに出来なかったことも、一人残して世を去ってしまったことも…………でも、どうして私たちはここに……大坂は? あなたはどこで――」
古い記憶と今の自分が混在して、何を考えればいいのかわからない。
「セリーナ落ち着いて。大丈夫、急いで思い出さなくていい。ゆっくり考えることも語り合う時間もこれから沢山あるのだから」
エクトールの深い眼差しを受けて、安心したのか再び瞼が重たくなってくる。
どうしてこれまで私と関わろうとしなかったのか、なぜ二人で輪廻転生のようなことになったのか、聞きたいことは山ほどあるというのに体がいうことをきかない。
「後のことは私に任せて、今はゆっくりとお休みなさい」
穏やかなエクトールの声に誘われるように、私は再び深い眠りへと落ちていった。
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「お休み、セリーナ」
眠るのを見届けた後、はだけた毛布を彼女に掛け直した。
きっと今は記憶が戻ったばかりで疲れているのだろう。
私も同じだった。違う所があるとすれば、私は生まれた時から昔の記憶を持ち続けていたということだけ。時々夢に見たり鮮明な覚醒があった時は、今のセリーナのように深く眠ることを繰り返していた。
ぼんやりとした過去の情景、当時の想いを胸に抱えて過ごした幼少期。
子供で経験が浅い故か、自分の抱く感情を理解できず、理由もなく泣いたりぐずったりしたことも多々あった。けれど言葉を覚え、世の中を学び、エクトールとして成長していく中で、徐々に『静』だった頃の気持ちが馴染んでいったような気がしている。
その中で、必ず守らなければならないと自覚していたことが一つあった。
それは『蘇りの約束』という、私の願いの代償。
物心が芽生える以前から、それだけは一度たりとも忘れたことがなかった。もしも約束を破ってしまったら、私の大切な人が消滅してしまう。
それはこの魂に刻まれた、神との約束事だった。
伝十郎様が帰らぬ人となったと知らされた日。
夫と共に大坂の城へ向かった村人が、彼の命に従い逃げてきたのだと号泣する姿を呆然と眺めていた。
自ら髷を切り落としたという遺髪を渡され、もうあの人はここへ帰ってこないのだと泣き崩れた。
大坂の不利を知らせる噂を耳にする度、縋る思いで神仏に供物を捧げては拝み続けた。どうか生きて帰してほしいと願い、それは叶えられることはなかった。
悲しみに暮れ、泣きはらして抜け殻のようになった後、私はあることを思い出した。
それは、死者の蘇りを叶えるという『熊野詣』
古より常世と現世の境と伝えられる、あの御山にたどり着ければ伝十郎様に会えるかもしれない。
そんな思いに駆られ、冬の寒さも厭わずに旅に出る支度をした。
遺髪と近くの寺で頂いた添状を大事に携え、野盗や落ち武者から隠れるように冷たい風の中を歩く。
戦のためか道中の宿や茶屋も入り難く、幾日か野宿を重ねたこともあった。持参した団子は日を追うごとに固くなり、少しずつかじっては飢えをしのいで熊野を目指した。
そしてやっと辿り着いた御山は、この世のものとは思えぬ美しさと厳しさを見せてくれた。
降り積もった雪は拒むように道を覆い、わずかに怯んだものの足を止めずに歩き続ける。
あまりに辛い道のりに、峠まであとどれくらいだろうと思った時には足が鈍りつつあった。叩いてもつねっても痛みを感じない。それでも夫を生き返らせるには行くしかないのだと、何度も足を叩きながら引き摺るように一歩ずつ前に進んだ。
もう少し、あと少しと言い聞かせながら歩き、やっと視界が開けた場所に辿り着く。
その見晴らしの良さに、とうとう峠まで来たかと眺めれば、坂を下った先に鳥居が小さく立っていた。
このまま行けば、やっとお社に着く。
そう思ったら力尽きたようにその場に座り込んでしまった。さすがにもう疲れた、少しだけ休んでからまた歩こう。そう思って軽く目を瞑る。
冬の山が余程堪えたのか、いつの間にか眠ってしまったようだった。寝たおかげで疲れが取れたのか、気付けば随分と身も軽くなっている。あれだけ冷えて辛かったというのに、まるで湯に浸かったかのように雪さえも温かい。
不思議に思って顔を上げると、そこには後光を放つまばゆい御姿があった。
明らかに人ならざる御方に畏怖し、私は咄嗟に手を合わせ額を雪に擦りつけて頭を下げた。
『権現様、権現様でございますか』
ひれ伏したまま、私は涙を流していた。まさかこの峠でお姿を現してくださるとは思いもよらず、縋るように拝みながら願いを口にする。
『私の夫、伝十郎が戦にて命を落としました。お願い奉ります、どうか夫をこの世へ呼び戻してくださいませ。あの人なしで生きていくのは辛抱できないのです』
そう言って私は何度も額を擦りつけた。
すると頭上から、男とも女ともわからない声が降り注ぐ。
〈そなたの消えゆく灯、最期に燃やしつくす光はあまりに哀れそのもの。その殊勝なる思いに応え、願いを叶えてつかわそう〉
『権現様、ありがとうございます。ありがとうございます……』
私は狂ったように拝み倒した。この奇跡を逃してはならないと必死に思いを伝える。
〈離れがたき夫婦の魂、新たな世へと送り届け申そう。――されど、この宿命を覚えるは祈りを念じたそなたのみ。夫はすべてを忘れ果て、浮世を歩むことになるであろう〉
『夫と再び会えるなら、いかなる定めも受ける覚悟にございます』
〈蘇らせし魂は、脆く儚い。もし夫の覚えが戻らぬ内にそなたが触れようものなら、たちまち相手の魂は弾け露と消えよう。再び共にあることを望むなら、互いの魂が呼び合うその時まで待たねばならぬ〉
神は私に約束事を授けた。
目を合わさず、言葉を交わさず、触れてはならない。万象には陽と陰の理があり、望みを叶えるならば陰の枷が生まれるのだと。それが破られるなら、すべて泡沫となり消え果てると言われた。
しばし言葉を失った。たったそれだけのことで夫の魂を消してしまうという重み。それを背負う覚悟があるのかという話だった。
けれど救いの言葉も賜った。伝十郎様が私のことを思い出すことができたなら、陰陽の力は消滅し再び夫婦として過ごせると。
――――私はその望みに掛けることにした。
〈そなたの願いを受け入れた。最期は心穏やかに眠るがよい……〉
それかどのくらい時が経ったのか、気付けば見知らぬ地で知らぬ言葉を聞いていた。
それが私の親の声であることを知るのは、もうしばらく後のことになる。周囲の状況も掴めぬまま知らない言葉を覚え、ゆっくりと新しい自分に馴染んでいった。
まだ物心がつかず読み書きが出来ない幼子の頃は、漠然とオランダやエゲレスの国に生まれたのだと思っていた。
静だった頃は外つ国の人々を見たことはなかったけれど、噂で聞いた紅毛人のような特徴を持つ人々が暮らしていたからだ。
けれど成長して物事がわかるにつれ、日本はおろか、かの国々よりもさらに進んだ文化の国らしいという事を知ることになる。魔法が細やかな生活を支え、当時の人々よりもはるかに楽な暮らしを送っている。
私は伯爵家の嫡男としての教育を受けながら、まだ見ぬ伝十郎様の魂と再会することを夢見ていた。今世の自分が男であることも、今思えば不思議なくらい何も気にもしていなかった。ただ会いたい、それだけを純粋に思っていた。
しかし大人になるにつれ、自分に課せられた枷の重さも徐々に自覚するようになる。もし何か一つでも間違いを起こせば、あの人の魂は失われる。それはすなわち死であることが分かっていたから、会いたい気持ちと相反するように、恐れも次第に募っていった。
そしてついにその日が訪れる。
私が十八、あの人が十五の時だった。
「セリーナでこざいます。エクトール様とこうしてお会いできましたこと、心より光栄に存じます」
リケンス子爵から紹介され、娘のセリーナが私に向けて挨拶をする。家同士が繋がる婚約の場で、初めて彼女を目にした。
まだ表情に幼さを残した可愛らしい女性。私は見た瞬間に心が震えるのを感じた。
とうとう伝十郎様が私の前に現れてくださった。そう悟ると同時に、絶対に犯してはならない禁忌に直面する。目を合わせてはいけない、言葉を交わしてはいけない、触れてはいけないのだと。
私はすぐに彼女から視線を外し、彼女の父親に向けて感謝の言葉を述べた。
神との約束は、思った以上に厳しいものだとこの時に初めて思い知る。
ただ再会するだけでなく、改めて夫婦になるという願いまで叶えられた。しかしそれは逆に私と彼女を追い詰める。
セリーナは私を見ても思い出さなかった。それは知り合って一年、二年たっても変わらない。いつまでも記憶が戻らない彼女に焦りを感じ始めた。
神との約束を交わした時、なりふり構わない私は都合の良いことを考えていたように思う。きっと伝十郎様ならば、私を見て思い出してくださるだろうと。
そんな思いは当てが外れ、私たちの溝はただ深くなるばかりだった。当たり前のことだ、私はセリーナを完全に居ない者として扱っているのだから。
結婚して初夜を迎えた日。とにかく関わらないよう本に没頭し、そろそろ……と声を掛けてきた彼女を無視して隣室に逃げた。それがどれだけ恥ずかしく屈辱的なことか、かつて妻だった私には痛い程わかる。
愛したいのに、彼女を傷つけることしかできない自分がもどかしく、やがて心が疲弊していった。
すべてを承知している私がそうなのだから、事情を知らないセリーナは更に辟易していただろう。そう思うとあまりに辛く、そして申し訳なさでいたたまれない日々を送っていた。
婚約してから六年、結婚してそろそろ三年が経とうとしていた頃、軍から遠征の話が舞い込んできた。近隣国への調査に向かうこの任務は、その時の私にはある意味救いでもあった。
静の願いは命懸けだったけれど。
もしかしたら叶わない方がよかったのかもしれないと、悲しくも思い始めていた。私の勝手な願いでセリーナを縛り付け、その結果傷つけることしかできなかった。
そんな思いが心をかすめ、考えた末に遠征の任務に志願した。
内戦地に向かうという事で、ある程度の危険と長期任務になることを覚悟していた。そして少数精鋭で入った先で、一気に隊が崩れ大きな危機に見舞われることになった。
捕まれば殺される可能性が高い状況の中、犠牲者を出すわけにはいかず撤退を余儀なくされる。
それでも負傷は免れず、傷を負った仲間を前方拠点まで連れ帰ったところで自分が平和に慣れきっていたことを思い知った。
戦乱とは程遠い平穏な暮らし。安定した世の中で、騎士は主に勉学と自己鍛錬に励むものだった。
初めてこの身の危険を感じた時、ふいに伝十郎様のことが心に浮かんだ。
あの人は、どんな気持ちで戦に向かったのだろう。多くの命が奪われる戦乱の世で、どれだけの覚悟を持って出ていったのか。
――――昔のように、お前にはええ衣装を着せて、たらふく飯を食わせた思うとった。それがこの戦で叶うかもしれんのじゃ
そう言って大きく笑う伝十郎様の姿が今の私に重なる。
同じく戦地に向かう立場でありながら、あの人とは心意気が何もかもが違っていた。
拠点を置いていたプロトス聖国に戻り、負傷者の手当てをしているあいだに街の様子を見て回ることにした。ここは内戦地に近いにもかかわらず平和が保たれ、自国とはまた違う独特な空気が流れている。
そこでは市場が開かれ賑わっていた。いつもは店で商売をしている人々が、定期的に広場に集まり新商品や特売品などを並べるのだという。
どうやらその日だったらしく、何気なくそれらを眺めながら散策した。
日用品だけでなく、美術品や骨董品、宝飾の類まで並んでいる。高価な物を外に置ける治安の良さに感心していると、通りすがりに一つの品が目に留まった。
それは、べっ甲色の飾り櫛。
思わず息を呑んでそれを見つめた。
「旦那様、こちらは本物のべっ甲ですよ。なかなか市場に出回らない貴重なものですが、特別なルートで仕入れた品でございます」
そこで立ち止まったせいか、店主が気を利かせて説明をしてくれる。
けれど私は言葉を返せないまま、胸が締め付けられる思いでその櫛に触れた。
――――静、これは天満で買うてきた櫛じゃ。お前に似合いかと思うてな
あの人の少し照れたような顔が浮かんで苦しくなった。私も同じようにセリーナを愛したい。でもそれは叶えることができない。
私は彼女を解放した方がいいのだろうか。長い間心の奥底にしまい込んでいたこの思い。
今のままでは子を授かる機会さえ奪い、生涯を籠の中に閉じ込めてしまうことと同じことをしている。
大切に思うなら身を引かなければならないのだと、苦しいけれど自分を誤魔化すことが出来なくなっていた。
ならば最後に心残りが無いよう、私の想いを返品しよう。
そう思い、べっ甲の飾り櫛を手に取った。伝十郎様が私にくれた、贋作のべっ甲櫛とは違うけれど。私はそれをお返ししなければと心に決めた。
無事に王都に戻りヴェルニー邸で帰還の挨拶を終えた私は、父の書斎へと向かった。
王宮ではあまり話せなかったこともあり、より詳細な内容を報告していたところだった。
まさかセリーナが訪れるとは誰が予想出来ただろうか。
突然勢いよく扉が開いたかと思うと、使用人に届けさせたべっ甲櫛を持ってセリーナがこちらを見ていた。
あっ、と思った時には遅かった。彼女の視線を受け止め、時が止まったかのように見つめ合った
油断した――――そう思った時には身動きが取れなかった。彼女は死んでしまう。そう失意に呑まれかけた時。
「静…………」
その名を呼んでくれた。
驚く間もなく崩れ落ちたセリーナを抱きとめ、安らかな寝息をたてているその体に触れた。
生きている。目を合わせても、こうして触れていても、彼女の鼓動は消えていなかった。
いきなり来て倒れた彼女と涙を流す私を見て、驚きを隠せないでいる父に妻を部屋に連れて行くことを告げた。
貴族女性らしく白く華奢な身体は、日に焼けて浅黒い肌をした伝十郎様とは程遠い。それなのに、愛しくて愛しくてしかたがない。
彼女を抱きかかえたまま部屋へ入ると、侍女が驚いた表情をしたまま固まっていた。
構わずセリーナをベッドに寝かせ、その寝顔を見つめる。
やっと全て私の願いが叶ったのだと、ついに枷は外れたのだと、確かな実感と喜びが私の中に生まれていた。
しばらくして目を覚まし、ぼんやりとした表情の妻を見て様々な思いが駆け巡るなか、やっと一言だけを口にする。
「すまなかった」
絞り出すようにそれしか言えなかった。泣いてしまいそうで、そんな姿を見せたくはなかったから。
ずっと抱えていた罪悪感の言葉。それは冷えた夫婦関係のことだけでなく、魂を縛り付けてしまったことに対する思いだった。
再び深い眠りに入ったセリーナを見て、私は今日の晩餐会を延期することを父に願い出た。妻が倒れたところを見ていた父はすぐに了承し、私はセリーナのもとへ戻る。
やがて目を覚ました妻に、私は謝りながら静の願いとこれまでの事を話した。すると今度はセリーナが手を延ばし、私の髪を優しく撫でる。
「私の方こそあなたに謝りたかった。ずっと寂しい思いをさせて、こんなに重いものを背負わせて。私の最期の心残りは、ただ静のことだった…………あなたが命をかけて叶えてくれた願いが、私の思いまで叶えてくれた。本当に、本当にありがとう。こんなの、まるで夢のよう」
私は妻をそっと抱きしめ、昔話に思いを馳せた。
「セリーナ。この世界は広いけれど、いつか二人で日本に行ける日が来るといいな」
ここではまだ知られていない未知の国だけれど。
いつか戻れる日があるのだとしたら、願いを叶えてくださった神にお礼を伝えたい。けれど、
「私はもう、戦乱の世は結構ですわ。あなたと平穏に暮らせたら、それがなによりも幸せなのですから」
困った顔をしてそう話す妻が、とても愛おしくて柔らに流れる髪を撫でた。
セリーナは私に顔を寄せながら、聞き覚えのある一節を口に乗せた。
それはかつて太閤様が遺された、伝十郎様も好まれていた有名な句。
露と落ち 露と消えにし わが身かな
なにはのことは 夢のまた夢 ………………
〈おわり〉
ここまで見てくださった方がいましたら、本当にありがとうございます!
異世界恋愛✕戦国とか、読む人がいるのか不安ですが⋯⋯もう続編が出ないだろうと思っていた大好きなゲームが発売され、思わず記念に書いてしまいました。
初短編で読みにくい所もあるかもしれませんが、少しでも面白いと思っていただけたら幸いです。




