第7話 痛み
“起きるはずだったもの”が、最初から無かったように消えた。
音も、衝撃も、破壊もない。
ただ――目の前の鉱獣の動きだけが、途中で切り落とされたように止まり、遅れて世界が呼吸を取り戻した。
アリンの外套の裾が、忙しく揺れている。
リンレイの髪は、風で揺れている。
鉱獣の濁った唾液が、糸のまま宙で震えている。
それだけだった。
「……なに、いまの……」
リンレイの声が掠れる。
理解しようとして、言葉が追いつかない音だけが漏れた。
アシュアは――返せなかった。
自分が何をしたか分からないからだ。
“祈った”だけだ。必死に、拒むように。
なのに、世界がその祈りに従ったように見える。
見える、だけだ。
事実がどうかは分からない。
分からないのに、身体の奥が遅れて――
「……っ」
膝が抜けた。
視界が一瞬、暗転する。
底が抜けたように血が引き、耳の奥で高い音が鳴る。
喉がひくつき、息が吸えない。
次の瞬間、内側から“握り潰される”痛みが来た。
腹でも、胸でも、内臓全部でもない。
もっと奥。
身体という器の、中心の“芯”を、針金で締め上げられるみたいな痛み。
「――っ、ぅ……!」
アシュアは反射で腹を抱えた。
けれど抱えているのは皮膚だけで、痛いのはそこじゃない。
間に合わない、届かない。
どこを抑えても無意味だ。
熱が巡る。
火ではないのに、燃えている。
呼吸のたびに、内部が削られていく感覚がある。
そして。
パキッ。
乾いた音が、身体の中でした。
それは多分、骨が折れる音じゃない。
もっと小さくて、もっと嫌な音だった。
石英を爪で弾いたような硬質な“割れ”の気配。
アシュアの口から、息とも呻きともつかない音が漏れた。
指先が痺れて、地面の感触が遠い。
視界の端が歪み、世界が傾いていく。
――違う。
――違う、違う。
何が違う?
何が起きた?
自分は、いま、何を――
焦りが、痛みより先に喉を塞いだ。
分からない。
分からないのに、身体だけが壊れていく。
「アシュア!」
リンレイが駆け寄ろうとした、その瞬間――
「動くな!」
アリンの声が、刃みたいに飛んだ。
それは怒鳴り声ではない。
戦場の指揮。
余計な音を切り捨てて、必要だけを落とす声。
リンレイの足がビタリと止まる。
悔しさと恥が、その場で硬直した。
アリンは一歩も下がらず、鉱獣の群れとアシュアとリンレイ、その全てが視界に入る位置を保ったまま、淡々と言う。
「リンレイ。アシュアの後ろに立って、守れ」
「……っ、はい」
返事が震えていた。
今更逆らうような事はしない。
あの時、自分は死んでいたかもしれない。
様々な感情が混ざり合い、さっきまでの余計な尖りがなくなっていた。
リンレイがアシュアの横に立つ。
鉱具を構える腕が、まだ僅かに震えている。
それでも――この震えは恐怖じゃなく、後悔が強い。
アシュアは、そのやり取りすら遠い。
痛みが波のように押してくる。
吐き気、目眩、錯視。
手足の感覚が薄くなり、指がうまく曲がらない。
――祈っただけだ。
――祈っただけなのに。
“祈り”が、身体を削っていくようである。
「アシュア?聞こえる?」
アリンの声が近い。
いつの間にか、視界の端にアリンがいた。
首からぶら下げたペンダントが、赤く煌めいていた。
鉱獣を牽制しながら距離だけを詰めている。
近づきすぎず、離れすぎず。
守りの形を崩さない。
「息を吸って、ゆっくり吐いて。焦らなくていい」
焦らなくていい。
その言葉が逆に焦りを呼んだ。
焦っていないのに焦る。
焦る理由が分からないのに焦る。
痛みが怖い。
でももっと怖いのは、何が起きたか分からないことだ。
「僕は……っ、いま……」
声が掠れて、最後まで言葉にならない。
自分の声が自分のものじゃないみたいだ。
アリンは一瞬だけ、アシュアの目を見た。
その目が妙に静かだった。
(やっぱり……メイさんの言う通りだったわね)
その表情だけが、言葉の代わりになった。
確信ではなく、そして断定でもない。
けれど、“知っている側”の目だった。
「いいわ……今は喋らなくていい」
アリンはそう言い切って、少しだけ口調を柔らげる。
「君の身体は、君が悪いわけじゃない。今は、ここを生き残る。分かった?」
「……っ、はい……」
返事をしたのかも分からない。
だがアリンは、それで十分だというように頷いた。
次の瞬間、アリンの視線が鉱獣へ戻る。
戦場の温度が切り替わる。
アリンは、迷わない。
残りの鉱獣が、隊列を崩して詰めてくる。
リンレイがアシュアを庇うように一歩前に出る。
だがアリンは、そうさせない距離を作る。
最初の一体が踏み込んだ瞬間――外套が翻った。
アリンは羽織り直すように肩を滑らせる。
これが彼女の碑術、転衣。
鉱石によって特性のある外套を具現化する力である。
布が空気を裂く音。
そして――熱の気配。
「……熱衣」
再び、外套から陽炎が立ち上がった。
熱が“纏う”というより、熱が外套の内側で生きている。
鉱獣の突進が来る。
アリンは迎え撃たない。
半歩だけ、位置をずらす。
ぶつかるはずの質量が、すれ違う。
外套の熱で空気が歪み、鉱獣の動きが一瞬狂う。
その隙に、アリンの一撃が無駄なく打ち込まれる。
削る。
裂く。
砕く。
決して派手ではない。
剣戟のような見栄えもない。
単調に、効率よく、鉱獣という“鉱物の害”を処理する手つきだ。
二体目、三体目。
攻撃の角度が変わっても、アリンの立ち位置は変わらない。
リンレイとアシュアから鉱獣を引き剥がす動線だけが、寸分違わず繰り返される。
“うまい”じゃない。
“当然”としてやっている。
経験を積んだレンジャーなら、これくらい当たり前。
そう言わんばかりにこなしてみせた。
一体の鉱獣が、外套の内側に噛みつく。
金属を噛むような音がして、牙が滑る。
「チッ……」
アリンが短く舌打ちした。
次の瞬間、外套を引き剥がすように肩を回し、外套ごと“着替える”。
「暑過ぎ!」
吐き捨てるように言って、熱衣を解除し、別の外套へ。
熱の気配が一瞬で引く。
その言い方が、あまりにも自然で――いや、リンレイの眉が僅かに動く。
(……自分の力なのに、暑いの?)
疑問は浮かぶ。
だが、問う暇はない。
鉱獣はまだいる。アシュアは崩れている。
自分は守りに徹しなければならない。
アリンは“外套を替える”ことで、戦場の空気を変えた。
物理攻撃を受け流す種類か、あるいは別の性質か。
外套が攻撃を逸らし、確率で滑らせるように見える瞬間がある。
けれど、アリンはそれを誇らない。
ただ淡々と、必要な時に必要な外套を羽織るだけ。
鉱獣の数が減っていく。
散らばっていた個体が、じわじわと退路を失う。
アリンは逃がさない。
しかし、無理に追い回さない。
自分の位置から、全てを終わらせる。
最後の一体が、逃げるように坑道の影へ退こうとした。
アリンは追わない。
代わりに、懐からナイフのような物を取り出す。
そして、逃げる鉱獣へと投げ込んだ。
“処理”の一撃。
凄まじい勢いの投擲が、鉱獣の胸部を貫く。
鉱獣は、崩れて沈黙した。
静寂が戻る。
残ったのは、鉱獣の欠片と、粉塵と、熱の残り香。
そして――アシュアの荒い呼吸。
アリンはすぐに戻ってくる。
戦闘が終わった瞬間の切り替えが早い。
「アシュア、立てる?」
「はい……」
その言葉が情けなく聞こえて、焦りが再燃する。
自分の体が自分の言うことを聞かないことが、怖い。
アリンは膝をつき、アシュアの肩に手を置いた。触れ方が雑じゃない。
だが甘くもない。
現場の手つきだ。
「目は見えてる?」
「……はい」
「指は?動かせる?」
「……っ、少し……」
「よし…じゃあ息。ゆっくり。合わせろ」
アリンは、アシュアの呼吸に合わせて、自分の呼吸をわざと聞かせるように吐いた。
それが、不思議と効いた。
呼吸が、戻る。
戻ると同時に、痛みが“形”を持つ。
形を持てば耐えられる。
アリンは立ち上がり、周囲を確認した。
倒れた鉱獣、散った個体、坑道の壁に残る、削れ方。
それらを見て――アリンの目が、わずかに細くなる。
(……妙だわ)
数が揃い過ぎている。
出方がが揃い過ぎている。
“自然発生”のような雑さがない。
アリンの中で、答えが固まっていく。
(これはもしかして……誰かが……)
鉱獣の発生、暴走、誘導。
誰かがこの坑道で“起こした”、可能性が高い。
けれど、アリンは言わない。
ここで話せば、余計な恐怖と混乱が増える。
アシュアは今、立っているだけで限界だ。
リンレイは反省で縛れているが、心が折れ切ると危ない。
「帰りましょう!」
アリンは短く、明るく言った。
あくまで、決定事項として。
リンレイが頷く。
アシュアもそうするしかない。
坑道を出る道中、アリンはリンレイの横に並ぶ。
歩調を合わせ、逃げ道を塞ぐ位置。
優しいのに逃がさない距離感であった。
そして、一喝する。
「……リンレイ」
「はい」
「さっきのは、判断じゃない。癇癪だ」
「……っ」
リンレイの肩が跳ねた。
何故か、言い返せない自分がいる。
言い返す資格がないと分かっている。
アリンは続ける。
「動くなって言ったのは、君がまだ“戦場”に立てないからだ」
「……分かってます」
「分かってるなら、やらないで」
声は強い。
でも“切り捨て”じゃない。
「君が死んだら、君の才能も、未来も、全部そこで終わる。私はそれが嫌だ」
「……っ」
リンレイは唇を噛んだ。
自分の行いが、誰かの命も危険に晒したことを再確認した。
アリンはそこで初めて、少しだけ息を吐く。
「次は私の指示に従って。出来ないなら、もう現場には連れて行けない」
「はい……」
リンレイの返事は小さい。
でも、さっきより芯がある。
アシュアは、そのやり取りを聞きながら歩く。
身体の奥の痛みはまだ残っている。
時々、また“パキッ”が来そうで怖い。
そして思う。
――祈っただけで、これだ。
――もし、次があったら?
――次も祈ったら?
――僕は、僕の身体を、どれだけ削る?
怖い。
でも――怖いのに、あの瞬間、確かに。
彼女を“守れた”気がした。
それがいちばん厄介だった。
坑道を抜け、地上の光が差す。
冷たい風が頬を打つ。
生きてる、という実感が遅れてくる。
アリンは振り返らずに言う。
「さぁ、王都へ帰りましょう。報告は私がまとめるわ」
言葉の裏に、決意がある。
ただの帰還じゃない。
アリンはもう――何かを疑っている。
でも、それを二人に背負わせない。
アシュアはふらつきながら、問いを飲み込む。
リンレイも、何かを聞ける雰囲気ではないと自覚する。
三人は、王都へ向かって歩き出す。
坑道の奥に残された鉱獣の欠片だけが、静かに粉を落とし続ける。
まるで――次の“何か”の準備をするように。




