第1話 初めての選択
この世界では、鉱物は珍しいものではない。
大地の割れ目から露出した結晶は、道の縁に埋まり、壁の装飾として削られ、時にはそのまま放置されている。
雨に濡れれば鈍く光り、日が差せば眩しく反射する。
それは危険で扱いづらく、けれど人の暮らしから切り離せないものだった。
人類は鉱物を恐れ、しかし拒絶する事は出来ない。
美しく、残酷に、それは世界に根付いていた。
教会の朝は、静かだった。
石造りの天井は高く、冷たい空気が澱のように溜まっている。
祈りの声が反響するたび、壁に埋め込まれた結晶が微かに震えた。
アシュアは列の先頭に立っていた。
年長者として、というより、自然とそうなった位置だ。
背はまだ伸び切っておらず、体つきもやや細いが、姿勢は崩れず、祈りの言葉は淀みない。
「――本日も、無事に目覚められたことに感謝を」
丁寧で落ち着いた声だった。
子供のものとしては、少しだけ大人びている。
後ろに並ぶ子供たちは、彼の背中を見ている。
安心するように、倣うように、同じ言葉を口にする。
アシュアはそれを気配で感じながら、視線は前に向けたままだった。
祈りが終わると、ざわめきが生まれる。
朝食の準備。
掃除の分担。
年少の子供たちは騒がしく、年長はそれをなだめる。
アシュアは自然に動いた。
水桶を運び、転びそうな子の手を取る。
「走らないでくださいね。危ないですから」
叱責ではなく、ただの注意だ。
それでも子供は素直に頷く。
――いい子だ。
そんな言葉を何度も向けられてきた。
老婆は、奥の椅子に座ってそれを見ていた。
白髪をきれいにまとめ、古びた衣を纏った老婆だ。
背は曲がり、手は枯れ枝のように細い。
それでも、その視線だけは鋭く曇りがない。
「アッシュ」
老婆は彼を、アッシュと呼ぶ。
名を呼ばれると、彼はすぐに振り返った。
「はい、お婆様。何か御用でしょうか」
「今日も、皆の面倒を見てくれているね」
「当然です。年長ですから」
老婆は、満足そうに微笑んだ。
「そう。いい子だね」
アシュアは一礼する。
その言葉に喜びはなかった。
拒絶もなく、ただ受け取る。
「この後は?」
「少し洞窟の方へ行ってきます」
「そうかい……あまり離れ過ぎるんじゃないよ?」
「はい」
少しだけ圧のある物言い。
老婆の問いに対し、アシュアが NOを突きつけた事はない。
それが日常だった。
「ねぇ、アッシュ!」
子供が、無邪気な顔で話しかける。
「あれみて!すっごいきれい!」
視線の先には、じんわりと内から光を放つ鉱石。
子供達は、教会に飾られた無数の鉱石を見て目を輝かせている。
「え、ええ!……そうですね!」
明るく笑った。
しかし、直ぐに胸の奥が重くなる。
込み上げる不快感をなんとか沈めようと、アシュアはこうして笑う。
「アッシュ……」
「はい、お婆様」
老婆が笑う。
「子供たちを石に近づかせるんじゃあないよ」
「はい、申し訳ありません」
老婆の口角は吊り上がっているが、目は笑っていない。
アシュアの背中に汗が滲んだ。
「それと、石を集めてきなさい」
「午前中のうちに、やっておきましたよ?」
老婆の視線が暗く沈む。
「なんだい?」
疲弊した身体が、僅かに震える。
肉体労働が出来るのは、年長のアシュアくらいである。
「いつも言っているだろう? 答えは……イエスか、ノーのどちらかだよ」
「……もちろん、イエスです」
また、アシュアは笑う。
取り繕うように、隠すように。
教会で暮らすうちに、そんな癖が身についていた。
ーーー
昼を過ぎた頃、不穏な空気が教会に流れた。
誰かが何かを察したわけではない。
ただ、音が減った。
話し声が小さくなり、足音が揃わなくなる。
子供たちは理由もなく、落ち着きを失っていく。
アシュアはそれを理解していた。
――来る。
老婆が立ち上がる。
「アッシュと……そうだね、ルウも来なさい」
指名されたのはアッシュと、もう一人の子供だった。
まだ少し幼く、泣き虫で、朝も彼が起こしてやっていた子だ。
ルウは不安そうにアシュアを見る。
アシュアは軽く頷く。
「きっと大丈夫ですよ」
張り付いた笑みであると理解している。
それが本心かどうかについては、自分では分からないでいた。
奥の部屋は、冷たかった。
壁には無数の鉱石が埋め込まれている。
原石のままのもの、削られたもの、形を成したもの。
どれもが、人の手によって配置されていた。
長く伸びた真紅の絨毯の先、部屋の中央には石の台が構えられている。
子供は、それを見て立ち止まった。
「や、やだ……」
声が震える。足が動かない。
老婆は、ゆっくりと近づいた。
「怖がらなくていい。すぐに終わるよ」
そう言って、ルウを台の上に横たえさせる。
「や、やだぁ!!」
幼く、甲高い悲鳴。
次の瞬間、拘束具が鳴った。
金属と石で作られた枷が、四肢を無慈悲に固定する。
関節が引き延ばされ、皮膚が紫色に変わっていく。
アシュアは、思わず歯を食いしばった。
ルウの腹部に刃が当てられる。
そして、驚くほど滑らかに切り裂かれた。
肉が割れ、腹腔が露出し内臓が震える。
ルウの喉から獣のような悲鳴が漏れていた。
「ルウや、もう少しだよ」
老婆の手には鈍色に光る鉱石。
それは、脈打つ臓腑の中へ直接押し込まれた。
――ブチィ、と肉が千切れる音がなった。
異変は即座に始まる。
皮膚が、内側から硬化する。
取り込んだ鉱石が内部で膨張し、切り開かれた腹部を塞ぐ。
次は指先だった。
白く、乾いた音を立てて、肉の質感が失われていく。
ルウは悲鳴を上げようとしたが、喉が震えただけで声にならなかった。
血が流れる。
だが赤ではない。
濁った灰色が結晶の隙間から滲み出る。
骨が軋む音が、肉の内側から響いた。
「――あ、あ、あ……!」
歯が砕ける。
歯茎ごと鉱化し、口が歪に開いたまま固まる。
あまりにの激痛に、四肢は捻じ曲がり、肋の骨は肉の壁を突き破っていた。
徐々に、徐々に、ルウが人間から遠ざかっていくようだった。
目だけが、最後まで動いていた。
助けを求めるような血走った瞳が、アシュアを捉える。
目があった。
心の奥を覗き込むように。
アシュアは目を逸らさなかった。
いや、逸らせなかったのだ。
ルウの全身が固まっていく。
老婆が手にしていた鉱石と、似通った色へと。
胸の奥が冷たくなる。
吐き気が込み上げる。
それでも足は動かない。
ルウは途中までは確かに人だった。
そして途中から、物になった。
完全に動かなくなるまで、数分もかからない。
台の上には、人の形をした鉱石だけが残る。
歪で、醜く、そして――
「……少し、崩れたね」
老婆が、残念そうに呟く。
「若過ぎたか……耐性も足りないね。だけど、悪くはない」
アシュアは唇を噛んだ。
何も言えない。
否定もできない。
ここで声を上げる意味を、彼は知っている。
老婆はゆっくりと振り返り、アシュアを見る。
「他の子たちもまだ若い」
柔らかな声だ。
「焦る必要はないね。完成は、時を待つものだからね」
一歩、近づく。
「……そうさね」
視線が、アシュアの身体をなぞる。
「そろそろ……かな」
アシュアの心臓が、一つ跳ねた。
「ねぇ?アタシの、可愛いアッシュ」
優しく、愛おしむようであった。
その瞬間、アシュアは理解する。
次は、自分なのだと。
「アタシの為に……輝いてくれるかい?」
湧き上がる恐怖が、底から全身を包んだ。
「………あ」
息が詰まる。
そして、老婆の言葉が脳裏を過ぎる。
『いいかいアッシュ。答えはYESかNO、どちらかしかないよ』
何度も、何度も、繰り返し言われてきた言葉。
だからこそ、アシュアは悟る。
今まで口にしてきた"YES"では、もう生き残れない。
「すいません……お婆様……NOです」
老婆は笑みをこぼしたまま、手を振り上げた。
その時、アシュアは走っていた。
祈りの場を抜け、廊下を駆け、扉を押し開ける。
叫び声が背後で上がったが、振り返らない。
丁寧さも、礼儀も、ここに置いていく。
今はただ、生きるために。
老婆に対し、初めて示した否定であった。




