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3-1 法か信仰か

 山を抜け、谷を越えた先に、それはあった。

 龍族・グラデルン共和国の辺境──蒸気機関の轍も届かぬ山間の村アルスノヴァ。こよみが地図を覗きこみながら呟いた。

「……法も記録も、たぶん届いてませんね、ここ」


「そういう場所ほど、強い掟と弱い正義が同居するものだ。行くぞ」

 法条斬は迷いなく歩みを進めた。足元には、土埃と薬草の混じったにおいが漂う。まるで古びた教会のような、重たく澄んだ空気。


 村の広場には、集まった人々のざわめきが渦を巻いていた。中央の杭にはひとりの老人が縛りつけられ、薪が足元に積まれている。


「火刑……?」


 フィニアが息を呑んだ。


「──異端だ!」

 怒号が飛んだ。群衆の中の中年男が叫ぶ。


「この者は“言ってはならぬ言葉”を口にした! 掟に従い、火で浄めねばならん!」


「神の怒りを買う前に、我らの手で罰を!」


「異端は伝染する。ここで断ち切らねば……!」


「待て!」

 こよみとフィニアが駆け出そうとするのを、斬が腕を伸ばして制止する。その目は、ただ一点を見つめていた。


「先輩っ……でも、あのままじゃ……!」


「よく見ろ、こよみ、フィニア」

 斬の声は低く、研がれた刃のようだった。

「この村の“裁き”は、声の大きさと感情で行われている。……つまり、いまここにも、法がない」


「龍族は妖精族と同じく、とても古い文明ですから……」とフィニア。


 その瞬間──

「薪に火を──!」


 村人のひとりが松明を振りかざした。だが、その火が老人に届くことはなかった。斬が疾風のように駆け、鞄の角で松明を叩き落としたのだ。松明が地面に転がり、火の粉が舞った。群衆がどよめく。

「な……なにを──!」


「貴様、どこの者だ!」

 群衆の怒号に、斬はひとつ大きく息を吸い込み、そして──


「我が名は法条斬。異邦より現れし、“弁刃士”だ」


 ざわめきが、静寂へと変わる。彼の風貌、異質な黒衣、赤い外套そして言葉のひとつひとつが、この村の空気を裂いていく。


 斬は老人の前に立ち、村人たちに向き直る。

「問おう。──この者の“罪”とは、何だ?」


 誰かが答えた。「禁じられた言葉を語った。だから掟に従い──」

「禁じられた言葉? では、その言葉とは何だった?」


 ──沈黙。


「なぜ禁じられた? 誰が、いつ、どう定めた? そして──その記録は、あるのか?」


 村人たちの顔が、次第に曇る。

「掟は……昔からそうだった……長老様が……」


「つまり、“昔から”が理由であり、“誰かの伝聞”が根拠であるわけだ。──それで、命を奪うというのか?」

 静かに、しかし確実に、斬の声は群衆を刺していく。


「私はその“言葉”を聞いていない。だが、皆がそれを理由に、この者を処刑しようとしている。つまり──“聞いたことのない言葉”を、証拠なく信じて火にくべる。それが、お前たちの“正義”か?」


 どこからか、ざわりと草が揺れたような音がした。

 村の奥、木造の建物の影から──ひとりの少女が現れた。


 蒼い長髪に眼鏡、少年のようにも見える軽装。腰に革製のバッグを下げ、右手には巻物を抱えていた。何よりも額に「第三の目」らしきものがあり、耳横から龍の角のようなものが生えている。


「師匠……?」

と、信じがたいものを見つけたように、彼女は呟いた。


 斬が眉をひそめる。「……誰だ?」


「ボク、ミュウル・ザザっていいます。グラデルン共和国の法学生です!」


「あら、私と一緒ですね……」フィニアが驚いて、会釈する。


 龍族の少女──ミュウルは堂々と歩み寄り、巻物を掲げる。

「この村の掟、たぶんボクが見つけた古文書と齟齬があります。記録の変化を調べてたら、たまたま来たんだけど──」


 ぱらり、と巻物が開かれる。古代語の符号が並び、誰もが目を白黒させる中、斬はふっと笑った。

「面白いな。なら、お前は証人だ。──“掟の正当性”を問う、最初の証人にしてやる」


 ミュウルはきょとんとした後、ぱっと顔を輝かせた。

「ボク、師匠って呼んでいい!?」


「好きにしろ」


「え? そこは先生じゃないんですか」とフィニア。


 村人たちは目を見交わし、動揺していた。だが、誰一人として、再び火刑を叫ぶ者はいなかった。

 斬はゆっくりと群衆を見渡す。

「信仰は救いであって、証拠ではない。──だからこそ、“裁き”には記録と論理が要るんだ」


 その瞬間、グラデルンの山間の村に、異世界初の“異端審問の法廷化”の火が灯った。


◆◆◆


「……異端審問、か」

 斬が呟いた。その語感に、村人の数人がこちらを振り向く。異邦の者の姿に目を細めるが、すぐに視線を戻した。


「掟によれば、“禁じられし言葉”を口にした者は、火刑に処す」

 広場の壇上、威厳のある声が響いた。長老らしき男が掲げた羊皮紙は、信仰の聖典か、それともただの掟か。


「問う。お前は“シスア・メルグ”と発したな?」

 縛られた老薬師は口を動かしたが、言葉にはならなかった。喉が嗄れきっていたのか、それとも恐怖か。


「おい」

 斬が一歩前に出た。こよみが制止しかけたが、彼は構わず壇上へと歩みを進める。

「“シスア・メルグ”とは何だ?」


「……古の魔導語。“死者を目覚めさせる言葉”とされ、禁じられておる!」


「その証拠は?」


 斬の問いに、村人たちはざわつく。

「証拠も要らぬ! 掟がある! 信仰がある!」


「信仰は救いだ。だが、裁きではない」

 斬の言葉に、広場が静まり返った。


「俺は現にこの男が、“死者を目覚めさせた”現場を見ていない。お前たちも、見ていない。ならば問おう。その言葉が“死を招く”と、なぜ言える?」


 長老の眉がひくついた。「掟だ」と繰り返すしかなかった。


 そのとき、風を切るようにミュウルの声が響いた。

「それ、そもそも法的に定義が曖昧すぎます! あのさ、今の告発、“異端”って言葉にちゃんと定義あるの?」


 斬はその軽快なテンションに目を丸くしたが、すぐに目を細める。

 ミュウルが手にしていたのは、村の掟が記された古文書の写しだった。斬がそれを一瞥する。


「“異端とは、精霊の声に背き、民の教えに反する言葉を発した者”……なんだこれは。情緒だけで構成されてるじゃないか」


「でしょ! しかも、数年前に更新されたグラデルン元老院の覚書には、“禁術の定義は要再検討”って書いてあるの。つまりこの村の掟、今の法とズレてるんだよ!」


「元老院の人間か?」


「えっと、じいちゃんが。でも、ボク自身は旅して見聞広めてるだけ!」


 こよみがポカンとして言う。「……あの法学生、“じいちゃんが元老院”って言いましたよね?」


「言ったねー!」


「あの、つまりどういう血筋ですか……?」


「まぁボク、法学生と名乗ってるけど──実質、龍族元老院の推薦枠ってやつかな?」


「龍族の元老院といえば、国の中枢の家系ですね」

 こよみとフィニアが呆れ気味に黙る中、ミュウルは老薬師のもとに近づいた。


「このおじいちゃん、“シスア・メルグ”って言葉を使ったんだよね? その意味って……“蘇生”とかじゃなくて、“湿地で採れる治癒草の古名”って記録にあったよ」


 斬の眉が跳ね上がる。

「ほう。それは正確な記録か?」

「少なくとも、グラデルン医術学会の古文献にはそう載ってる。掘り返してきたばかり!」


「使えるな」


「えっ、師匠、認めてくれた!?」


「黙れ。次はその記録をこっちで精査する。証拠になるなら、火刑の根拠は根本から崩せる」


 村人たちの間に動揺が広がる。

「そ、そんな……掟が……!」


 斬は堂々と前に出た。

「異端かどうか? それを決めるのは神ではない。この記録に基づく、“事実”だ!」


 こよみはその姿に思わず息を呑んだ。隣でミュウルが目を輝かせる。

「これが……裁判なんだ……!」


 法という名の新たな火種が、今まさに村の中心に投じられたのだった。


◆◆◆


「師匠、記録庫の鍵、もらってきましたー!」


 村の裏手、かつて役場だった石造りの建物。その一角にある記録庫の重い扉が、キィー、と音を立てて開いた。ミュウル・ザザは満面の笑みで古びた巻物と木板を抱えて現れた。蒸気の匂いがする油まみれの鍵を腰に吊り下げている。斬の袖に巻物を押し付けながら、ボーイッシュな口調で早口に報告を始めた。

「見てくださいこれ! 村の掟と祈祷書の古い版、それに“異端”に該当する術式一覧! しかも年代順に整理されてたんです!」


「お前……本当にただの法学生か?」

 斬は半ば呆れ、半ば感心した声を漏らした。


「じいちゃんが元老院の監査役なんでねー。資料漁りは龍族のたしなみってやつです!」

 その隣で、フィニアがくすくすと笑っていた。古文書を片手に、詩的に変換された内容を口ずさんでいる。

「“火を以て裁かれしは、癒やしの手なり”……この記述、詩にできます」


 斬は巻物を広げながら、眉根を寄せる。淡い紫のインクで記されたその一文には、明らかに“矛盾”があった。

「医療術と禁術の境界が……あまりに曖昧すぎる」


「ですね」

 ミュウルは頷いた。


「この“掟第三節”には、〈血を操る術〉が禁じられてるとあるんですが、その一方で、疫病封じの“血清祈祷”は許されてるんですよ。つまり、“血”自体がダメなんじゃなく、“誰がどう使うか”で意味が変わるんです」


「まさに、それが制度の未熟さの証だ」

 斬は唇を噛む。


「だからこそ“制度外”の存在を恐れ、そこに“異端”のラベルを貼って封じ込めようとする。証明できぬものを排除し、言葉で縛れぬものを焼く。──だが、それは本当に“裁き”か?」

 村の広場では、すでに人が集まりはじめていた。

 火刑の杭は取り外され、代わりに粗末な木の台が設けられた。その上に老薬師が座らされている。腕には縄がかけられたままだが、顔つきはどこか落ち着いていた。

 村長らしき老人が広場の中心で声を張り上げる。

「この者は“異端”である! 禁じられた言葉を用い、掟に背き、村の霊威を穢した! よって処罰は──」


「失礼」

 静かな声が割り込んだ。

 その場に響いたのは、フィニアの記録魔法が発動する淡い旋律だった。空間が波打ち、記録が映し出される。斬が求めた“過去の映像”が、精霊の詩とともに再現された。

 ──映像の中、老薬師は病に伏す子どもの脈を取り、薬草をすり潰していた。村人の母親が涙ながらに礼を述べる様子も、鮮やかに投影される。


「……これは、癒やしの光景だ」

 誰かが呟いた。村人たちの空気が変わる。


「これが……禁術?」


「ただの医療じゃ……?」


「記録の一片にすぎませんが」とフィニア。


 斬は前に進み出る。

「これが“証拠”です。信仰の火ではなく、記録の光が照らしたものです。そのために中立法国パルミナから妖精族の記録詩官を呼んだ」


 村長は叫ぶ。

「だが! 掟は“言葉を交わさぬ術者”を許さぬと書かれている!」


「ならば問おう!」

 斬の声が跳ねた。

「その“言葉”とは誰のものか? “交わす”とは、言葉の往復か、それとも意思の共鳴か? 制度とは、曖昧な言葉を明確にするためにある。法とは、感情を整え、理を通す道だ」


 ミュウルが補足する。

「そして、その掟……そもそも“旧版”と“新訂版”で内容が違ってます! 見てください、“禁術”の定義が、三年前に書き換えられてるんです!」


「なに……?」

 村長が呆然とした声を漏らす。

「その再定義が、記録として残っているなら」

 斬は口角をわずかに上げた。

「──もう“異端”とは、制度から外れた者ではない。“制度の不備”そのものが生み出した、影のラベルだ」


 沈黙が落ちた。

 広場にいた村人たちが、次々と視線を老薬師に向ける。恐怖でも怒りでもない。戸惑いと、わずかな後悔。そして、理解の兆し。

「……まさか、あの薬は……」


「うちの爺ちゃんも、あの人に診てもらってた……」


「火あぶりなんて、そんな……」


 ミュウルが前に出て、きっぱりと言った。

「法は、信仰を否定するものじゃない。むしろ、あなたたちが信じる“救い”の形を守るために、こうして制度に落とし込もうとしてるんです!」


 彼女の声は、明るく、まっすぐだった。

「誰かを救いたかった人が“異端”と呼ばれるなら──制度そのものを、もっと優しく作り直せばいい。ボクたちは、それを学ぶために法を学んでる!」


 斬はその背中を見つめ、頷いた。

 思えばこの異世界で、自分以外に“制度”という言葉をここまで自信を持って語った者は、初めてだった。


「よし、ミュウル。お前を正式に──臨時助手に任命する。報酬はアイスでいいか?」


「わーい! ボク、師匠についていきます!」


 空に浮かぶ魔法の記録が、ゆっくりと消えていく。

 その余韻の中、フィニアがふと呟いた。

「信仰も制度も、どちらも“祈り”なんですよ。守りたいものがあるから、記録し、伝える。そうやって生きてきたんです、この世界は」


 斬は静かに笑った。

「いい記録詩官を持ったもんだな、俺は」


 ミュウルが元気よく手を挙げる。

「ボクも負けないよ! 次は制度の運用で村を説得する番だもん!」


 広場の空気は揺れながらも、確かに一歩、前に進んだ。制度と信仰。感情と記録。その接点に、今、新たな裁きの光が差し込みつつあった。

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