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2-4 陽だまりの妖精

 仮設の法廷は、ティオの契約事件の判決をもって、閉廷を迎えようとしていた。記録魔法の投影台が光を弱め、記録官であるフィニアが静かに詠唱を止める。魔導石板に刻まれた記録文が浮かび上がったまま、空中に残る。


「被告——いや、原告ティオの契約は、有効と認める」

 法条斬の声が、広場の静寂を裂いた。


 その一言に、椎名こよみは一瞬息をのんだ。だが、それは驚きではない。斬はこの結論を初めから導こうとしていた。ただ、その道筋がこれほど明快に、これほど静かな威力をもって示されるとは、誰も予想していなかった。


「契約締結の場において、ティオは、報酬と引き換えに労働を約束し、義務を履行した。その意志は、たとえ発語がなくとも——明確であったと記録と証言が証明している」


 村人たちの中にいた運転手のシュフラが、顔をしかめてうつむいた。彼が契約を反故にし、不払いを起こしたことが、正式に「違法」と宣言された瞬間だった。

「よって、シュフラ氏には未払いの報酬を、銀貨三枚分相当の物品または貨幣にて、原告に支払うことを命じる」


 斬は続けた。

「さらに。契約能力の有無を“発語の可否”と“姿かたち”で判断した発言は、人格への毀損といえる。ゆえに、名誉回復の意を込めて、記録台帳に訂正文を記し、村に開示することを命じる」


「ま、待ってくれよ!」


 シュフラが思わず叫んだ。

「あれは、ただの……ただの子どもに見えたんだ! 言葉も通じねえ、まともな契約なんて——」


「その『見え方』こそが、制度を蝕む」


 斬の目が細められる。睨みではない。ただ、それ以上に刺すような、沈黙の威圧だった。

「契約における意思能力は、外見でも発語でもなく、“意志”の存在で決まる。それを証明したのは、我々ではなく——彼自身だ」


 ティオは、少し離れた場所に立っていた。肩をすぼめていたが、斬の言葉に応じるように、ほんの少しだけ胸を張った。


 小さな手に、かつての契約印——廃印——を握って。

 フィニアの光が走る。魔導石板に、新たな記録の名が刻まれる。


──《記録案件第二号・王都廃印を用いた契約不履行事案、

   契約は有効、報酬の支払いと訂正文の開示、印章に関する事案、未決》。


 淡々と告げられるフィニアの声は、どこか祈りにも似ていた。


「未決と……いうのは?」

 ひそひそと交わされる村人の声に、斬が答える。


「──証拠が語り、記録が残る。そして記録された“疑念”は、制度のど真ん中を撃ち抜く剣になる。これは、制度の物語です」


「……制度?」

 村長の声が、思わず漏れる。


「そう。制度とは“繰り返せる希望”です」

 こよみが振り向き、村人たちに向けて言った。


「この裁判が、一度きりの奇跡で終わらないように、記録して残す。それが制度の、いちばん小さくて、でも最も強い力なんです」


 ティオは一歩、前に出た。


 その背中はまだ小さい。斬はその背に声をかけた。

「ティオ。君の訴えは、記録された。それは、誰かが君を見たという証明であり、誰かが君の正しさを認めたという足跡だ」


◆◆◆


 夕刻。

 岩肌をなぞるように白い湯気が立ちのぼっていた。

 交易の村ヴァルノースの外れにある大衆浴場。


 といっても辺境の村にあるものらしく、湯舟は自然の岩を削って作った露天風呂で、風に揺れる竹垣の向こうにはなだらかな草原が広がっている。


「……ふぅ」


 法条斬は湯舟の端に肘をかけ、長い息を吐いた。

 隣では、小さな体がぷかりと湯に浮かんでいた。妖精族の少年——ティオ。まだ言葉もおぼつかない彼は、丸い瞳で斬をじっと見つめていた。


 斬は手をかざして、ぽん、と軽く湯面を叩いた。ティオがまねる。ぴちゃり。

「ジェスチャーだけで会話するのも、悪くないな」


 そう言って、斬は両手で「てんとう虫が飛ぶ」ような仕草をした。ティオはきょとんとしたあと、笑って両手をぱたぱたと振る。


 それを見た斬は、軽く頷いてみせた。

「よし、判決を下そう。お前は——“陽だまりの妖精”だ」


 ティオはその言葉の意味など理解できないまま、斬の真似をして胸を張った。

 湯の温もりと、言葉のいらない静かな交流。そこには戦いも弁論もない。異邦の弁刃士が、ただ一人の子どもと、静かに湯を楽しむ時間だった。


 一方——竹垣の向こう側。


「ねえ、こよみさん。斬先生のこと……どう思ってるの?」

 唐突に、フィニアが湯にぷかりと浮かびながら、声をかけた。


「はっ!? な、なにを……!」

 思わず赤くるこよみに、対面で湯舟に腕をかけているヴェルネが目を細めた。


「ほう……それは興味深いわね」


「や、やめてくださいよヴェルネさんまでっ……!」


「だって、気になるじゃない。あれだけツッコミ入れてるのに、なんだかんだ一緒に行動してるし。弁刃士とその助手って間柄……以上なのでは?」


「そ、そんな風に、異世界の人たちにも見えるなんて……!」

 こよみは湯の中でぶくぶく沈みかけた。


「……斬先生って、頭の中ずっと“法”のことでいっぱいな気がします」

 フィニアが湯舟のふちに顎を乗せ、ぽつりと呟いた。


「でも、たまに……誰よりも人の話、ちゃんと聞いてくれるときがある。あれ、ちょっと、嬉しかったりして」


 ヴェルネは鼻で笑った。

「あの男が、あんたの“詩の引用”を全部記録して、分析してたって話なら知ってるわ」


「えっ、ええ!? そんなの聞いてませんけど!」


「“記録魔法は証言に類する”って理屈で、証拠になるからって言ってたけどね。でも……それだけじゃないんじゃないかしら?」

 フィニアの長い耳が、ほんのり赤く染まっていた。


 こよみは、竹垣の向こうから聞こえる小さな水音に耳を傾けた。

 そこには、普段は裁判で人を論破する男が、小さな妖精の少年と静かに遊んでいる光景があるのだろう。


「……私は、ただ」


 こよみは湯の表面をなぞるようにして言った。

「先輩が“勝つ”ことばっかりじゃなくて……“救う”ことを考えてくれているところがいいなって。そう思うことは……あります」


「へぇ……」


 ヴェルネが少しだけ表情を和らげた。

「そういうの、意外と……刺さるかもね。”法”を語るやつには特に」


 しばらく、三人は湯気の中で黙っていた。

 ただ、どこかぽかぽかした空気の中で、竹垣越しの誰かの笑い声が、湯舟に届いていた。


◆◆◆


 翌日。

 こよみは石版の内容に目を通しながら、資料を一つひとつ紙に書き写していた。魔導記録だけでは読めない者もいる。そのために、彼女は「文字による写本」も併せて整えているのだ。


「念のため、王都に提出するための副本も作っておきます。形式は、現行王都式の契約様式に近づけて……」


「おい、こよみ、お前まさか、それを王都に?」


「当然です。——この事件は、村だけの問題じゃないのでしょう?」


 その言葉に、斬は口元を緩めた。

「……成長したな、お前」


「それ、上から目線すぎませんか、先輩」

 だが二人の間には、確かにあったのだ。制度という“形のないもの”が、こうして“残るべきもの”へと変わっていく手応えが。


 やがて、背後からコツリと高めの足音が近づく。

「ずいぶん格好つけてたな」

 現れたのは、赤い軍服姿の魔族の女、ヴェルネ・グラディスだった。鋭い眼差しで斬を一瞥し、ふいに目を細める。


「その印章——私も見覚えがある。三年前、ネクタルカ帝領の交易会議に出された王都財務報告の添付資料にも、よく似たものがあった……」


「なるほどな。じゃあやっぱり、王都の記録は、何かしら“加工”されてたってわけだ」


「それが事実だとしたら——国家の根幹が、揺らぐわね」


 その瞬間、ヴェルネの瞳が、斬の顔に鋭く注がれた。

「……三年前、ネクタルカの軍事裁判で“弁刃士”を名乗った男がいた。記録によれば、口先ひとつで将軍を免職に追い込んだという。あなたと同じように、法で剣を折る男だった」


 斬は肩をすくめた。

「それは俺じゃない。俺がこの世界に来たのは、ほんの数週間前だ」


「だが——雰囲気は似ている。おそらくは、“あの男”……に近い思想。冷徹で、合理的で、そして——」

 そこで彼女は一拍置いた。


「記録に、こだわる者だ」


 斬の背に積もった埃がふわりと舞い、光にきらめく。記録台の魔力が残響し、空中に文字の残光を一瞬だけ浮かび上がらせる。


「また会いましょう、法条斬。先に王都で待っているわ。途中、もし“彼”と会ったら——そうね、伝えて『記録は生きている』と」


「わかった。伝えられる機会があれば、な」


「こよみ女史、それとフィニア女史、また……温泉でも、ふふ」

 それだけ言って、ヴェルネは踵を返した。赤いマントが風に揺れる。すぐに、魔導列車の汽笛が遠くから響いた。


 ティオはその音に気づいたのか、その瞳で斬とこよみとフィニアの瞳と目を合わせた。そして感謝の気持ちを表情で現したのだった。ヴェルネがティオを連れて王都へ戻っていく。


 こよみがその背を見送りながら、ぽつりと呟いた。

「この村で……法が人を救った。私は、そう信じたいです」


「救ったのは“制度”じゃない。“訴える意志”だ」

 斬は契約印を再び懐にしまい、記録台に背を向けた。


「だが、その意志を残す“仕組み”が、ようやく生まれた。始まりの記録だ。……これが続けば、やがて、この世界も変わっていく」


 異世界の空は、どこまでも青かった。

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