2-3 奇妙な契約印
白石で囲まれた仮設法廷の中央に、静かな緊張が張り詰めていた。
フィニアは黙って魔導石板に記録を加筆していた。
《第一審、訴訟記録……
王都由来印章との整合判定……
詩的文言は……制度の指紋が、沈黙のなかで叫んでいる……》と。
「いいね」斬は片眉を上げた。
「そのまま書いておけ」
村長は椅子に崩れ込むように座り込み、村人たちは不安げに視線を交わし合っていた。
こよみは、そっと斬に尋ねた。
「……先輩。これって、つまり……このティオくんの契約の件が、村だけでは終わらず、やはり帝都ゼルグラードまで届くってことですか?」
斬は、少しだけ静かに、だが確信を込めて頷いた。
「一つの印章が、一人の少年の声なき意思を証明し──そして、それが制度の中核を侵す毒となる。この裁判は、単なる村の問題ではない。制度が、どこから腐り始めたか。その“最初の記録”となるかもしれない」
こよみの手が微かに震えた。彼女は、これが歴史の分水嶺になるかもしれないと悟った。
「──裁判を続行します」
斬の声が響く。その言葉が、沈黙に沈んだ村に再び風を起こす。
ティオが見上げていた。
話すことのできないその目は、しかし静かに何かを訴えていた。
「声がなかったわけではない。ただ、記録されていなかっただけだ」斬は彼に向けてそう語った。
斬は手にしていた契約印を掲げた。
「この印章は小さなものかもしれない。けれど、その内側にある“制度の不具合”を無視すれば、いずれこの国の法は腐る。そしてその腐敗は、やがて王さえも、民さえも、滅ぼすだろう」
広場に、静かな緊張が張り詰める。
ヴェルネがその場に立ち尽くし、斬を見つめていた。魔族の冷たい眼光が、どこか熱を帯びて揺れる。
「……あなたは、敵になると厄介だが、味方でも……やっぱり厄介ね」
「ありがたい誉め言葉だ」
斬は軽く笑った。
村長はしばらく沈黙していたが、ついにぼそりと漏らした。
「王の印章が偽物だった……その記録が本当なら、この国はもう……」
「そう。その“偽印”は、王国の信頼そのものを蝕む。だが、それを暴くために必要だったのは、ティオのような、声を持たぬ者の一歩だったんだ」
斬は視線をティオに向けた。小さな妖精族の少年は、既に何も言えない。けれど、わずかに俯きかけた顔を上げ、その金の瞳でまっすぐ斬を見返していた。
「声がないことは、存在がないことと同義じゃない。制度とは、声のある者だけのものじゃないんだ」
そのとき、村の誰かが拍手をした。
ぽつ、ぽつ、と。その音が広場を伝い、やがて少しずつ、他の村人たちへと広がっていく。
「わからないこともある。だが……、裁きが暴力ではなく、記録になるなら、それを見届けたいと思う」と村長が呟いた。
フィニアが、そっと石板を置いた。
「じゃあ、記録官としての役目──終わりですね」
「いや」
斬は即座に首を振った。
「記録はここで終わらない。これから続くすべての裁判の、その始まりを刻んだだけだ」
こよみが思わず息を呑んだ。
「つまり……?」
「この国の記録も、いや、この異世界の記録も、これを礎に揺らぎ始める。そしてその連鎖は、やがて紛争をも止め得る剣となるだろう。剣と違って、刃はない。だが、代わりに時間を貫く力がある」
斬は、静かにティオの記録が刻まれた魔導石板を掲げた。
「この村の片隅で、声を失った少年が残した記録──それが“最初の判例”となる。これこそが、裁きの剣ではなく、裁きの秤の第一歩だ」
フィニアが瞳を潤ませて言う。
「だったら、詩にするしかないですね。この日を、“記録された沈黙”として」