2-1 沈黙の妖精
ヴァルクラッド王国北東部、中立法国パルミナとの山間に開かれた交易の村ヴァルノース。週に一度の市の日、村の中心広場には露店と人波がひしめき合い、香辛料と干し魚と麦粉菓子の匂いが入り混じる中、怒声が響いた。
「こいつが盗ったんだ! 間違いねぇ!」
ひときわ大きな声に、人垣がざわめきを増す。人々の視線の先にいたのは、小さな影だった。
身長は腰ほど、肌は透けるように白く、髪はくすんだ銀。長く尖った耳を揺らしながら、うずくまっている少年──妖精族だ。服の裾は土埃に汚れ、手には黒ずんだ包みが抱えられていた。
群衆の中心で、怒りに燃えた運転手の男が叫ぶ。
「見たんだよ! この妖精、わしの荷車から品物を持ち出していた! こいつは泥棒だ!」
少年は何も言わない。ただ、震える指で胸元の小さな袋を押さえた。袋の中から転がり出たのは──真鍮製の小さな印章。
それを見た瞬間、運転手の怒りが更に爆発した。
「その印章がどうかしたか? 何のつもりだ!? だいたい契約なんざ、お前が理解できるわけねえだろ!」
「発語もできないのに、どうやって合意したっていうんだよ」
「妖精の子なんざ、飾りみたいなもんだろ」
次々に浴びせられる言葉は、無知ゆえの残酷さをまとっていた。
フィニアがその言葉を聞いて、一瞬だけ目を尖らせた。その横にいた法条斬は、少し離れた石段の上から光景を眺めていた。左手にはいつもの古びた鞄、右手には林檎入りのパイを持ったまま。
「ふむ……口が利けないからって契約能力が否定されるのか。まったく、“裁判制度なき世界”らしい短絡だな……フィニア、ちょっと任せてくれ」
パイを一口かじってから、斬は誰にともなく言った。
その背後から、低く澄んだ声がかかった。
「……だが、契約の形式が整っていないなら、無効とされても仕方あるまい」
声の主は、背筋を伸ばした女性。赤い瞳と羊のような小さな角、淡いグレーの軍装風ドレス。魔族──ヴェルネ・グラディスである。
斬はパイを咀嚼しながらちらりと見やり、にやりと笑った。
「おや、魔族の特使が人間の市でこんな市民劇を観賞とは。気が利く趣味だな」
「勘違いするな。私はネクタルカ帝領の大使として、貴様の“弁論術”を視察せよとの命を受けてきたにすぎない」
「つまり、俺のファンということだな。いやあ、ありがたい」
「黙れ」
ヴェルネは静かに怒気を込めた一言を返し、視線を騒動へ戻した。
群衆の輪の中、妖精の少年ティオはなおも沈黙していた。斬はその様子を見つめ、軽く唇を鳴らす。
「……あの印章、よく見ておけ。型押しの刻印は古いが、形式は整ってる。恐らく王都の契約局で発行された正式なものだ。廃印の可能性もあるが、それが本物なら話は違う」
ヴェルネが眉をひそめた。
「まさか、“王都契約印”か?」
斬が石段を降りたとき、群衆はすでに“制裁”の空気を醸し出し始めていた。だが、斬は臆さず進む。鞄を開け、書類を取り出すこともなく、ただ一言を放つ。
「この件──法廷で審理する」
一瞬、誰も反応しなかった。次の瞬間、ざわめきが巻き起こる。
「法廷? そんなもん、うちの村にはねえぞ!」
「何を言い出すんだ、あの変な男は!」
「“異邦の弁刃士”だ……聞いたことがある」
混乱の中で、斬はティオの前にしゃがみ込む。少年の手から印章をそっと受け取り、真鍮の表面に刻まれた文字列を読み取った。
目を細め、ぽつりと呟く。
「……王都の型番、だな。しかも──三年前に廃止されたはずの“黒印番号”だ」
ヴェルネが目を見開く。
「三年前……? まさか、これは……」
斬が顔を上げ、晴れた空を見た。
「この村の裁きが、どれだけ大きな渦を呼ぶのか。君たちは、まだ知らないだろうな」
金属の印章が日差しを跳ね返し、沈黙の妖精がその光を見上げていた。
◆◆◆
群衆の中には、依然として「裁くまでもない」といった空気が渦巻いていた。だが、情報が一つ一つ積み上がるたびに、野次馬の顔つきにも次第に陰りが差しはじめていた。
少年は相変わらず黙ったままだ。だが、フィニアが近づいて目線を合わせると、そっと小さな袋を差し出してきた。中には印章と一緒に、細い巻紙のようなものが入っていた。
「これ……見覚えあります。契約下書き用の仮文書。王都の中等級商人が使ってる形式と似てる……」
こよみが紙片を取り出し、風に飛ばされぬよう注意しながら開く。字は滲み、部分的に読めなくなっていたが、そこには確かに、妖精語で「名前=ティオ、報酬=銀貨1枚と食事、宿泊一泊」「作業内容=荷運び」と書かれていた。
「妖精語、しかも古語だな。読めるのは──フィニアかこよみくらいか」
斬が言うと、フィニアは苦笑する。
「こよみさんの解読で問題ありません、少年の名はティオ。そう記されています」
ヴェルネが腕を組んだまま、問いかける。
「だが、それが“合意”を示す証明にはならん。声もなく、文書にも署名がないなら、この少年が本当に了承したとは、どうやって判断する?」
「……意思の有無が問題だと言うのなら、形式ではなく、内容で問うべきです」
フィニアの返答に、ヴェルネがぴくりと眉を動かす。
それに斬が続けた。
「この事件は一見些細に見えて、重大な問いを孕んでいる。“合意”とは何か? “契約能力”はどこで決まる? 声がなければ契約は成立しないのか? 姿が幼ければ、意志は無視されるのか?」
言葉は力を帯び、周囲の空気が変わっていく。
「いいか、これは──法の穴だ」
斬が言った。
「この村には裁判所も六法全書もない。契約は信頼の上に成り立っていた。それは悪いことではない。しかし、今ここに、信頼が崩れた。ならば……制度が必要だ。対立を整理し、矛盾を浮かび上がらせ、判断する手続きが」
ヴェルネは斬を睨みつけた。
「つまり、お前の流儀で裁くというのか。仮設裁判とやらをまた開く気か?」
「その通り」
斬は言った。
「これは、“契約不履行”の裁判だ。被害者はこの少年。争点は、契約が成立していたか。そして、村人たちが彼を不当に詐欺師と断じたことに正当性があるか」
「……バカげてる」
そう呟いたのは、村長だった。渋い顔をし、杖をついた老人が人混みを分けて現れる。
「契約とは、言葉の交わりだ。声なき者に、意志があるとどうやって証明する? 裁判ごっこなど、村を混乱させるだけだ」
斬は歩み寄り、村長と目を合わせた。
「村長。声のない者は、何も望んでいないと断言できますか?」
その問いに、村長は言葉を詰まらせた。
その沈黙を受けて、斬は続ける。
「では、“意志の証明”をする場をつくりましょう。村を混乱させないためにも、むしろ今こそ必要です」
「……ですね」
こよみが頷いた。
斬はさらに応える。
「裁判所をつくる。ここに。仮設でもいい。記録係、証人、第三者の検証。すべて揃える。そして、裁く。契約の有無を。正義の有無を」
その言葉に、誰かが息を呑んだ。
ヴェルネは目を細めていたが、否定はしなかった。
やがて村長が、疲れたように息を吐く。
「……わかった。広場を使え。ただし、これが終わったら村を去ってくれ。それが条件だ」
「交渉成立。では、法の時間を始めよう」
斬は笑みを浮かべ、そう言い切った。
契約を失われた少年の沈黙が、ようやく“法廷”という名の言葉を得る。その始まりの鐘は、まだ鳴っていなかったが、音を待つ空気だけは、確かに広がり始めていた。
◆◆◆
村の中央広場、簡易な帳台の上に立った小柄な少女が、静かに両手を広げた。
フィニア・リーフ。妖精族の記録官。詩を記録とし、言葉を光景として具現化する力を持つ、パルミナの法学生だ。
「──記録魔法、《詩文の回帰》を使用します」
宣言とともに、彼女の手に持った魔導石板が宙に浮かび、銀色の光を描く。詩の言葉が編まれ、空中に一節ずつ綴られていく。風が止まり、広場が静寂に包まれる。
《小さな手が 大きな荷を背に
言葉なき誓いは 重さに変わる
道の脇 影のなか
汗を伝いしその瞳は 何を見ていた──》
言葉に導かれるように、詩が描く光景が浮かび上がった。
それは、あの日の市場だった。
薄曇りの空の下、商人の荷馬車の横で、小さな妖精の少年──ティオが、荷物を一つずつ丁寧に持ち上げて運んでいた。大きな麻袋を、腕いっぱいに抱え、小さな体を前のめりにして歩く姿。誰に強いられたわけでもなく、だが確かに、自らの意思で動いていた。
その様子を再現された光景の中で見ていた村人たちは、次第にどよめきを上げ始める。
「あれ……あのとき、いたぞ俺……あの路地で……」
「ほんとだ、ほら、あの帽子……わしの荷車だ」
ざわめきは波紋のように広がった。
再び空中に映し出される記録の残像。そこには、ティオが荷を背負い、運転手と肩を並べて歩いていく様子もあった。手ぶりで会話をし、渡されたパンを両手で受け取り、ぺこりと頭を下げる──そんな、些細で、しかし確かな“合意”の証し。
「彼が盗んだ、だと? なら、なぜパンを“受け取っている”?」
斬の言葉に、沈黙が落ちた。
「その行動は、報酬の支払いと、対価の受け取りに他ならない。形こそ稚拙だが、れっきとした契約の構造だ」
斬はティオに視線を向けた。
「お前は、仕事をしたのか?」
ティオはこくりと、小さく頷いた。
斬が目を閉じ、言葉を整える。
「記録はある。契約当時の状況再現もなされた。もちろん、この程度の証拠では、正式な裁判では弱いかもしれない。だが、この村において、契約成立の合理性を疑う理由はもはやない」
ヴェルネが腕を組んだまま、静かに言った。
「問題は……印章だな」
「そうだ」
斬も頷く。
「この“契約印”が本物であるならば、それは王都の記録台帳と照合されるはず。つまり、個人の記憶ではなく、制度としての照合が可能になる」
こよみが巻物を手にしながら、呟くように続けた。
「この事件、思ったより……深いかもしれませんね」
斬は応じた。
「小さな争いの奥に、国家の制度が口を開けてる。だからこそ、裁く価値があるんだよ」
裁判の準備は、整いつつあった。だが、真実の全容はまだ影の中にあった。ティオの沈黙は、法という光によって、少しずつ照らされ始めたばかりだ。
◆◆◆
「先輩、この印章……王都財務帳簿と一致するかどうか、確認できます!」
「お。さすが俺の後輩だ。すでに調べる気だったが、先に言われたな」
「ドヤ顔しないでください!」
ヴェルネは二人のやり取りに小さく笑った。だがその表情には微かな緊張が残っている。
「こよみさん、準備は?」
「はい。さっそく記録照合の申請を出します。フィニア、帳簿映写お願い!」
「了解しました。“過去を詠み、記録に映せ”──《映写詩パストリーテ》」
フィニアの詠唱が響き、空中に古文書の頁が再現された。その中に──それは、あった。
「一致……しました」
こよみの声が震える。
「ガ=七百十三号、“廃印”として三年前に削除扱い……でも、それがいま、この村の妖精族の手にあった」
ヴェルネが呟いた。
「じゃあ、王都から“誰か”が流したのか……それとも……」
斬がゆっくりと印章を見つめながら言った。
「どちらにしても、この証拠は保全する。制度のために……な」
ヴェルネは、しばし無言だった。そして、ふっと息を吐き、静かに言った。
「法条斬と言ったな、お前は……本気で、この世界の制度に喧嘩を売る気なのか?」
「制度に喧嘩を売るんじゃない。“制度のために”事実を明らかにする。それが俺の仕事だ」
その瞬間、ヴェルネの目が微かに揺れた。だが、彼女は何も言わず、角の根元を軽く指で押さえただけだった。
「……やはり、あの男と似ている」
誰にも聞こえないほどの小声で彼女は呟いた。
裁判はまだ始まっていない。しかし、ティオという声なき存在を通して、国家の記録と制度の根幹に一石を投じる──記録という剣が、静かに抜かれた瞬間だった。