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1-3 正義の意味

 コルマール村の広場に再び集まった村人たちは、どこか戸惑いの色を浮かべていた。フィニアの記録魔法によって提示された映像──レイが薬草を手にして森を走る姿──は、彼を悪人と断ずるにはあまりに“切実”すぎた。


 しかし、それだけでは不十分だった。


 斬は、魔導石板を軽く指ではじいて言う。

「では、ここでひとつ、論点を整理しましょう。まず第一に、この記録によって、レイ青年が“薬草を盗んだ犯人”であるという証拠は見つかりませんでした。正確には──“誰が盗んだか”の確定には至っていない」


 村人たちがざわめく。


「じゃあ、レイは……犯人じゃないのか?」


「“盗みを働いた”とされる行為そのものが、曖昧だったのです。薬草が誰の所有だったか。掟では『村のものは村のもの』とされている。だが、今回の薬草は“ミルナ老人の畑”から持ち出されたという主張がなされた」


 斬は視線をミルナ老人に向けた。老人は少し目を細める。


「……たしかに、あの晩は畑の薬草が少し荒らされていた。だが、実を言えば──その前日、ワシの孫が“咳が出る”と言うてな。ワシ自身が、近隣の者に少し分けてやるよう言っていたのだ」


「つまり、“盗み”とは限らなかったと?」


 こよみが確認すると、老人は小さく頷いた。


「うむ。今になって思えば、誰かが取りに来たのかもしれん。レイ坊が持っていったとしても……ワシが断ることはなかったじゃろうな。てっきり蔵を荒らしに来た賊かと思うたわい……」


 場の空気が変わった。誰もが“冤罪”という二文字を意識し始めたのが伝わる。


 斬はゆっくりと歩みを進める。


「この事件は、こうです。『薬草を盗んだかどうか』が本質ではない。『盗んだと信じて処罰しようとした構造』──これこそが、法の視点から見るべき問題なのです」


 村長のアロンが深く息を吐いた。


「掟では、“疑わしき者は裁く”。長年そうしてきた。しかし、確かに……このようなすれ違いがあるならば、見直さねばならんのかもしれん」


 斬は言葉を畳んだ。


「“疑い”は処罰の根拠にならない。“証明”が必要だ。そしてそのために“法”という舞台が必要なのです」


 村人の誰かが、ぽつりと呟いた。


「……じゃあ、誰がレイを犯人だと決めつけたんだ?」


 その言葉に、再び空気が張り詰めた。


 斬は最後に言う。


「そこからが、次の審理です──“決めつけた構造”の解明。誰が、なぜ、何を“正義”と信じたか。その行為こそが、次なる焦点だ」


 コルマール村に初めて、“正義”の意味が静かに問い直され始めていた。

 ログという青年が、咎人レイに突き立てようとした斧を、今では膝の上で抱きしめるようにしていた。

 広場の空気は、静けさと戸惑いで満ちていた。斬の言葉によって拵えられた即席の法廷に、村人たちはまだ戸惑いながらも耳を傾けていた。


「つまり、こういうことです」

 斬は、ゆっくりと手を広げた。


「レイが“掟”を破っていた可能性はあります。しかし、彼の行為は『真実を隠すため』ではなく、『別の真実を語るため』だった……フィニア、再投影を」


 フィニアが詠唱する。風に紛れるような詩の響きとともに、再び記録魔法が空中に像を結ぶ。数日前、レイが妹ミリアの親友であるサリア──つまりログの妹と親しげに語らう様子。その目には、優しさと躊躇いに満ちていた。


「レイは、掟に背いたのではなく、サリアさんを気遣った。彼女が病であることを隠して自分の妹のためだと言ったのも、周囲の偏見を恐れたからだ──」


「でも!」

 

 声をあげたのはログだった。憔悴した顔に怒りと後悔の混ざったような複雑な表情を浮かべている。

「なら、なぜ……なぜレイは、俺に何も言わなかったんだ!」


「言えなかったのだと思いますよ」

 斬は、静かに言った。


「サリアさんのことを知るあなたにこそ、隠さねばならなかった。それは、自分があなたを裏切るという罪悪感ゆえに。そして同時に、あなたの信頼を失いたくないという一心で」


 ログの唇が震えた。

「……俺は」


「その“言えなかった行為”と、“傷つけようという意図”は、まったく別物です」

 斬は断言する。


「これこそが、私がこの場に“法”という概念を持ち込む理由です。意図と結果の違いを、感情に流されずに捉える。それが『制度』の役割です」


 村人たちの表情が少しずつ変わっていく。怒りから懐疑へ。懐疑から理解へ。


 こよみが斬の隣で、ふっと目を細めた。

「先輩……ちゃんと伝わってきてます」


 ログが立ち上がった。

 手にしていた斧を、ゆっくりと地面に置く。

「……レイ。お前に、謝らなきゃならねぇ。サリアにやさしくしてくれていたんだな……」

 それが、最初の「赦し」だった。


 裁判とは、白黒をつける道具ではない。

 裁判とは、赦すために存在する制度でもある──その理念が、確かに村人たちの胸に、静かに根づいていく。


 記録魔法の光が消えていく。


 静寂の中、斬はもう一度だけ、短く言った。

「ここに、“正義”の種が播かれた」


 村人たちはざわめいていた。風に煽られるように、広場の空気が揺れた。フィニアの魔法で映し出された光景は、幻想ではなく記録。真実の一端を目撃した者たちは、これまで信じていた掟の絶対性に動揺していた。


「じゃあ、俺たちは間違ってたのか……?」

 そう呟いたのは、初老の男だった。腰に薪束を抱えていた彼の肩が、重さではなく、観念の重圧で沈んでいた。


「掟があったから、村は守られてきたんじゃねぇのか?」


「でも、それでレイは殺されるとこだったんだぞ」

 若者たちの声が割れ、やがて老人たちも口を開いた。


「……掟に従うことが善だと、そう教えられてきた。それが、まさか」


「掟が悪かったんじゃない。掟が“古くなった”んだ」

 そう切り込んだのは、法条斬だった。足元の土を踏みしめるように、ひとつひとつの言葉に力を込めていく。


「時代が変われば、人の在り方も変わる。昔は言葉が通じなかった。だから争いには剣が使われた。だが、今は言葉がある。記録もある。ならば、判断基準も変わってしかるべきだ」


 村人たちは押し黙った。


「掟は“法”になり得る。しかし、それには条件がある」

 斬が指を立てる。ひとつ、ふたつと。


「第一に、全員が内容を知っていること。

 第二に、解釈の余地が少ないこと。

 そして第三に、必要とあらば、見直す柔軟さがあることだ」


 彼の背後で、椎名こよみが小さく頷いていた。いつもなら口を挟む彼女が、この瞬間は黙っていた。村人たちの動揺が深いと知っていたからだ。


「このコルマール村には、まだ“法”がない。あるのは“掟”という名の記憶と、決闘という名の暴力だけだ」

 斬の声が広場を切り裂く。ざわついていた村人たちの視線が、一点に集束していく。


「だが今日、ここで“法”が生まれた」


 フィニアが前に出る。彼女は一言も話さない。ただ、記録魔法の石板をもう一度起動させた。


 再び浮かぶ映像。

 レイが蔵の前で立ち去る瞬間、背後から投げつけられた道具。反射的に避ける姿。そしてその間に、物品が崩れ、ミルナ老人が倒れる──。道具を投げたのは……初老の男だった。

「意図なき行為と、悪意ある行為は区別されるべきだ。これが“法の目”だ」


 初老の男は、茫然とした顔のまま、レイを見て、そして斬を見た。

「……あの子を殺そうとしたのは、わしだったのかもしれん」


 その言葉に、村人たちの空気が変わる。

「赦しとは、過ちを隠すことではない。それを認め、繰り返さぬと誓うことだ」

 斬のその一言に、風が吹いた。


 村長が歩み寄り、レイの前に立つ。老いた膝がゆっくりと折れ、土を鳴らした。

「すまなかった……」


 レイは、戸惑い、そしてそっと顔を伏せた。

「……オレ、わかんねぇ。許されていいのか? でも、……ありがとう」

 村の広場に沈黙が落ちた。


──《記録案件第一号・意図なき行為と言葉の事案、広場裁判として和解》。


 記録魔法の光が収まり、証言と映像の整合性が示された直後だった。


 レイが犯人でないという論理の骨格は、フィニアの魔法によって現実の形を得た。村人たちは、怒りを抑えきれなかったあの瞬間を、いまや他人事のようなまなざしで見つめていた。


 法条斬は、その空気を読み取って、ゆっくりと歩みを進めた。

「……記録を見ただろう。あれが“真実”だ。だが私は、これを“正義”とまでは言わない」


 沈黙。


「正義とは、勝った者が後付けで名乗るものじゃない。逆だ。“正しかった者が勝てる”ようにするのが、制度だ。だからこそ、我々には“法”が要る」


 その声は、かつての弁護士事務所で幾度となく法廷に響かせてきた語調とは違った。静かで、けれど抗いがたい理のように、村人たちの胸に届く。


 ログ──レイを告発した少年は、頭を下げていた。肩を震わせながら、ひと言。


「……ごめん」


斬は頷いた。そして続けた。


「掟に従った結果、過ちが起きた。だからといって、掟そのものが“悪”とは言わない。だが、もし同じことが二度と起きない仕組みがあれば、それは善だ」


こよみがそっと横から口を開く。

「だから先輩は、“法”をこの世界に根付かせたいんです」


「そうだ」


 斬は村長の方へ向き直った。


 最後に一歩だけ進み出て、はっきりと言った。


「声が大きい者が勝つ。それは裁きではなく、暴力だ。だがこれからは、法が声なき者の武器となる」


 静かな喝采が、広場全体を満たしていく。まるで冬の土に、最初の春雨が染みわたっていくように。


──制度の芽吹き。


それは、確かにここから始まろうとしていた。


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