1-2 無法地帯
広場に沈黙が戻った後、最初に声を上げたのは斧の男ログだった。
「なあにが“法”だッ。お前の言葉が掟より重いとでも言うのか!」
叫びには怒気と戸惑いが混ざっていた。村人たちはその声の強さに引き寄せられるように再び頷き始める。
斬は一歩も引かず、その視線を男に投げつけた。
「掟の重みは理解している。だが、“なぜそうなったか”を考えず、ただ形に従うだけでは、秩序ではなく思考停止だ」
村長と思しき白髪の男がゆっくりと前に出てきた。老人特有の威厳があるが、その目には警戒と疲労の色も滲んでいる。
「掟は我らの生き方じゃ。理屈だけで村を守れると思うな、若造よ」
「“理屈だけ”ではない。だが、“理屈のない正義”は、ただの暴力だ」
斬は青年レイの方へ顔を向ける。
「お前の言い分を、聞かせてもらえないか?」
レイは顔を上げ、縛られた腕を震わせながら口を開いた。
「……俺は、本当にやってない。薬草が必要で、妹が熱を出して……でも、鍵なんて触ってないんです。ただ、倉庫の前を通っただけで……」
「誰か、それを見ていた者は?」
レイは唇を噛んで首を横に振った。
「森の方に行ってたから……誰にも見られてないと思う……」
斬は静かに頷いた。
「ならば“決闘”ではなく、“証明”が必要だ」
「証明……? 証人も証拠もねえのに、どうやって証明すんだ!」
斧の男ログが怒鳴ると、村人たちの間に再びざわめきが広がる。
「なにを証拠にする気だ!」
「言葉は煙のように消えるが、記録は残る。人の目と耳は、証明になりうる」
斬は鞄を開け、白紙の紙束を取り出して地面に置いた。
「さあ、ここに証言を記していこう。君たちが“正義”と信じてきたものが、何によって成り立っていたのか──それを、この紙に刻むんだ」
「これじゃあ、埒が明かねえ!」
誰かの叫びに、村人たちのざわめきが再び高まった。口々に不満と疑念が飛び交う中で、斬は両手をゆっくりと掲げる。声を張り上げず、だが一音たりとも聞き逃せぬような静けさをまとって。
「ならば──この場に、“法廷”を設けよう」
瞬間、広場が凍りついたように静まり返った。
「ほ、法……てい?」
少年のような声が、どこかで呟いた。
「話し合いの場だ。暴力や叫びではなく、“理”で争いを裁く場所。ここにいる全員の前で、“何が起きたか”を順に聞き、それを元に判断する。……これが、俺の知る“裁き”だ」
「そんなもんで、犯人が見つかるのかよ!」
ログが噛みつくように言う。
「見つけるのではない。“導く”んだ。嘘をつく者の言葉は、論理の中でほころぶ。事実の上に構築される言葉は、矛盾しない」
斬は鞄から真新しい紙束を取り出し、樽の上に広げる。
「記録しよう。誰が何を語ったか、誰がどこにいたか。耳で聞いたことではなく、紙に残す。……“記録”がある限り、言葉は煙にはならない」
こよみが脇でそっと呟いた。
「先輩の口調、こういう時ほんとに司祭みたいになりますよね……」
「弁護士だ。司祭じゃあない」
「そこツッコむんだ……」
それでも、村人たちの一部は、徐々に斬の提案に耳を傾けていた。
村長が杖を突いて進み出る。
「掟にないことをするのは、不安もある。だが……“納得できぬ処罰”が、次の争いを生むこともあるじゃろうな」
斬は頷いた。
「だからこそ、“納得”を目指す。“恐れ”ではなく、“理解”の上で裁きを行う」
村人たちが互いに目を合わせ、徐々に円を描くように中心へ集まり出した。
斬はそれを見届け、静かに宣言した。
「ここに──この異世界で初めての、“開廷”を始めよう」
◆◆◆
その少女は、まるで風に導かれるように広場の外縁から現れた。
背丈はこよみの肩にも届かない。金糸のような髪が首筋にかかり、淡い深緑の瞳が光を湛えている。人間ではない。それはひと目で分かった。──妖精族。耳が長く、わずかに尖っている。そして何より、言葉では表せない「透明な気配」をまとっていた。
「あなたが“記録”を必要としている、と聞きました」
その声は静かで、けれども明瞭だった。
斬はその少女を見据え、数秒の沈黙ののち、言った。
「君の名は?」
「フィニア・リーフと申します。中立法国パルミナより派遣された記録詩官です」
「詩官?」
「この世界では、“文字”よりも“詩”が真実を長く保ちますから」
村人たちの視線が彼女に集中する。掟しか知らぬこの村で、「記録」を語る者は異端そのものだった。
フィニアは小さく首をかしげた。
「さきほど、この広場でとても悲しい声が聞こえました。私は、それを“詩”として記録しました。よろしければ、お見せしますか?」
「“記録”? 見せるってどういう……」
誰かが戸惑いの声をあげた瞬間、フィニアは手を掲げ、淡く光る石板を呼び出した。
「《魔導石板ノータリス》開示」
石板が宙に浮き、光が広がる。広場の空間に、かつての声と姿が再現された。斬が斧をはじき、レイが助けを求めて叫び、こよみが斬の背に手を伸ばしていたあの瞬間。
──すべてが、そこに映っていた。
村人たちが息を呑む。
「魔法……? いや、違う……これは……!」
「過去が、見える……」
フィニアは言った。
「これは“記録”です。正確な再現ではありませんが、“誰が”“何を”“どこで”話したか、空間に残った“言葉の痕跡”を詩に変えて保っています」
「証言の……映像?」
こよみがぽつりと呟いた。
斬が頷く。
「記録されたものは、記憶より正確だ。だからこそ法において“証拠”と呼ばれる」
フィニアは少しだけ照れくさそうに笑った。
「難しいことは分かりません。でも、誰かが“嘘をついた”とき──空気が泣くんです。その揺れを、私は詩にします」
詩にする。記録にする。証明する。
村長が震える手で帽子を取った。
「掟に……そんな技術は、なかった。だが、これは……」
「掟は、時に“守るため”に使われ、時に“縛るため”に使われる。だが“記録”は、ただそこにある」
斬はそう言って、魔導石板から映し出された映像に指を差した。
「ここに“争点”がある。誰が何をしたか。“掟”ではなく、“行為”を見よう」
フィニアが口元をおさえて笑う。
「……斬先生、でしたっけ……? ちょっと言葉が長いですけど、面白いです」
斬は鼻を鳴らした。
「それは法の習性だ」
映像の中で、レイと呼ばれた青年が薬草を抱え、森の中を駆けていた。
その背中は怯え、けれど必死だった。背後に誰かの気配があったことを示すように、木の影が二重に揺れる。精細な証拠とまでは言えない。けれど、それは確かに“虚言ではない”ことを、誰の目にも訴えていた。
石板がゆっくりと光を収めると、広場には再び静けさが戻った。
その静寂の中心で、フィニアが手を胸に当て、詩を読み上げるように言った。
《空は知っていた。
草は泣いていた。
レイは、妹の命を守りたかった。
ただそれだけだったと──》
村人たちの何人かが、息を詰めて彼女の声を聞いていた。
「詩的な補足ですかね?」
こよみが囁いた。
「だが、機能している。言葉で感情を補う役目として」
斬はそう呟くと、ゆっくりと前に出た。
「コルマール村の皆さん。今、我々は何を見た? “声”ではない。“力”でもない。“映像”という形で、ひとつの真実を記録した」
「でも、あれは魔法だろ? 本当にあのときのことかどうか……」
斧の男──ログが、絞るような声で言う。
「魔法の不確かさは承知している。だが、これには“意図”がない。“記録”はただ存在し、観測される」
斬の声に、村長がゆっくりと口を開いた。
「……掟では、証拠というものがない。正しいかどうかよりも、村を乱さぬことを重んじてきた。だが……それは、“間違いを見過ごす”ことと紙一重じゃな」
「そう。“掟”が“免罪”をつくることもある。だからこそ“記録”と“証拠”が必要だ。誰の声でもない、“出来事”そのものを見つめるために」
レイが、ふらふらと立ち上がった。
「……ありがとう、ございます……」
その声に、村人の一人が顔を伏せ、また一人が帽子を取った。
気づけば、誰も斧を手にしていなかった。
フィニアがぽつりと呟いた。
「“記録”が正義を照らす──それ、いい言葉ですね。詩に使っていいですか?」
「著作権は請求しない」
斬が軽く笑うと、こよみがそっと手をあげる。
「でも、先輩。このあとは? 記録はあっても、誰が裁くんですか?」
斬は一瞬だけ空を仰ぎ──そして、言った。
「今はまだ、“誰か”ではない。“みんな”でいい。“議論”と“納得”を通じて、この村に初めて、“裁き”という概念が根づいた。それで十分だ」
こよみは息を吐いて、笑った。
「先輩、やっぱりカッコつけですね」
「弁護士は、常に見せ場に立つ職業だ」
その場にいた誰もが、今見た光景と、これから始まる何かの芽生えを、心の奥に刻んでいた。