1-1 召喚、秩序なき異世界
空は、どこまでも深く濃い群青に染まり、浮かぶ雲は銀の縁をまとって逆巻いていた。地平線が微かに歪んでいる。空気は澄んでいるのに、どこか磁場のような“圧”が皮膚にまとわりついてくる。
その草原に、一人の男が叩きつけられるように倒れ込んだ。
「……まったく、荒っぽい召喚だ」
法条斬。スーツ姿の青年は、泥のついた鞄を叩き、ネクタイを緩めながら立ち上がった。その直後、すぐ隣に同じくスーツ姿の若い女性が、派手に転がりながら落ちてきた。
「いったっ……え、先輩!? なにここ……っていうか、裁判所の帰りでしたよね!?」
「どうやら、来てしまったらしいな。異世界に」
「はああああ!? 落ち着きすぎじゃないですか!?」
椎名こよみが草まみれになりながら叫ぶのを、斬は淡々と受け流した。
周囲は見渡すかぎりの丘陵地。どこか懐かしいようでいて異質な草の香りが風に乗り、虫の音も、鳥の声も、わずかに違和感がある。草花は見たことのない色合いで、風が通るたびにきらりと魔素の粒が舞う。
「まずは、ここが法のある社会かどうかだな」
「そんな調査から始めるんですか……普通なら“助けを呼ぼう”とか“誰かいないか”とかじゃないですか!?」
「この世界の“誰か”が、“正義”を持っているとは限らない」
「いやそれ、警戒レベルが最初からラスボス級ですよ……もう」
二人は丘の上に立ち、しばし無言で周囲を見渡した。
遠く、小さな集落のようなものが見えた。木造の屋根、煙突、石積みの柵。白い煙が小さくたなびいている。
「あれは……村、ですね。人がいそうです!」
「よし、行こう。“制度の外”から始まる秩序というやつを、見届けてやるさ」
その背中は、どこか獣の檻を覗く学者のように、冷静で静かだった。
丘の中腹を下りながら、こよみは口をとがらせていた。
「なんで、先輩はあんなに落ち着いてるんですか。普通、もう少しパニックになりません?」
「パニックでは秩序を立て直せん。まずは“観察”だ」
「……観察の対象が、“世界そのもの”ってスケールで話す人、現実で初めて会いましたよ……」
半ば呆れながらも、こよみは黙って斬の後をついていく。目の前には、こぢんまりとした村が見えていた。木組みの家々。石積みの壁。煙突から上がる白煙。
見た目はどこか牧歌的だが──
「静かですね。誰も、表に出てない……コルマール村と看板に……読めますね!?」
「気配はある。……“閉じた社会”だな。余所者を嫌うか、恐れているか」
斬はスーツの袖口を整えながら、堂々と村の門へと足を踏み入れた。
すると、門の陰から一人の少年が飛び出してきた。
「お、おい! そこ、勝手に入るな!」
木の槍を構えたその少年は、明らかに斬とこよみの姿に動揺していた。
──スーツ。ネクタイ。革靴。
異世界において、それらはまるで魔法装束のように異質だった。
「我々は旅の者だ。この村に宿を求めてきた。危害を加える意図はない」
斬の口調は落ち着いていたが、その理屈っぽさに少年は眉をひそめた。
「な、なに言ってんだよ……よくわかんねぇけど、掟に従わねぇ奴は、入れねぇって決まってる!」
その瞬間、斬の目が鋭く光った。
「“掟”か。なるほど、ルールは存在する。だが、それを運用する“理”が見えないな」
「な、なんだよそれ……!」
少年が戸惑うなか、奥から数人の村人が現れた。皆が似たような服装で、斬とこよみの姿に露骨な警戒を向けている。
「何者だ、お前たち。こんな格好で……魔術師か? 貴族の使いか?」
「いいえ、日本の……まあ、旅の学者と思っていただければ」
こよみが即座にフォローを入れた。
「この村では、“誰が正しいか”は“誰が叫んだか”で決まるのか?」
斬の問いかけに、村人たちは口ごもった。
「声が大きければ、正しい。……それが、この村の掟だ」
そう言い切った年長者の言葉に、こよみは絶句した。
「……そんなの、裁きでも何でもない。ただの暴力です……」
斬は静かにうなずき、歩を進めた。
「ならば、その秩序の在り方、見届けさせてもらおう」
村の中央にある広場は、すでに人垣に包まれていた。年季の入った木製の柱が立てられ、その前に膝をつかされた若者がひとり。手足は縄で縛られ、背を丸め、必死に何かを訴えていた。
「違う、俺じゃない……! 倉庫の鍵は落ちてただけで、俺は──!」
その声を遮るように、村の長と思しき白髪の男が高らかに叫ぶ。
「掟に従い、罪を問う! 村の鍵を盗み、薬草を勝手に持ち出した罪──決闘により清算せよ!」
その隣に立つ屈強な男。腕には入れ墨のような紋様、背には巨大な斧。明らかに“戦える者”と“戦えぬ者”の不釣り合いな構図だった。
こよみが息を呑んだ。
「……何これ、公開処刑? いや、決闘裁判ってこういう……」
斬は腕を組みながら視線を走らせる。周囲の村人たちの表情は硬い。誰も疑問を抱かないまま、“処罰”の儀式に参加している。
「見ろ、こよみ。“声の大きい者が正しい”という文化が、制度として根づいている」
「じゃあ、彼は……殺されるのを、みんなで見てるだけ……?」
「違う。“納得”してる。これが秩序だと信じているからだ」
その瞬間、広場の空気が一段階沈んだ。
男が斧を肩に担ぎ上げ、一歩ずつ青年に近づく。
「やめろぉおおおおお!! 誰か、誰か、助けてくれぇええ!!」
その叫びが、村中に響き渡った。
斬は、静かに鞄を手に取り、一歩踏み出した。
「こよみ。今から、俺は掟を“止める”」
「止めるって……どうやって!?」
斬は無言で立ち止まると、鞄を大きく振り抜いた。
──ゴンッ!
音と共に、斧が弾かれた。命を刈ろうとした鉄の重みが、革張りの六法全書に打ち落とされた瞬間だった。村人たちがどよめく。
「何だ貴様ァ!」
斬はゆっくりと歩き出し、青年の前に立った。
「名乗ろう。我が名は法条斬。異邦より来たる“法の使い手”だ」
沈黙が、音を呑んだ。
広場の中央、振り下ろされようとしていた斧が、硬質な音を立てて弾かれた。落下点には、ぶ厚い書物の角──斬が構えた六法全書。
重みによって逸れた刃は、青年の肩をかすめ、地面に突き刺さる。土煙が立ち、村人たちが一斉に息を呑んだ。
斬は、ゆっくりと鞄から書物を戻し、言った。
「手を下すな。掟を叫ぶ前に、言葉を尽くせ」
怒鳴ったのは斧の男、ログだ。
「貴様、何様のつもりだッ! 部外者が掟に口を出す気か!」
斬は、一歩前に出て、村の中央に立つ。
「我が名は──法条斬。異邦の弁護士にして、法を斬る者だ」
その声音には、剣よりも鋭い抑揚があった。声を張り上げたわけではない。ただ、響いたのだ言葉の“意味”が。
「“べんごし”……?」
村人たちが互いに顔を見合わせる。
「この世界にはまだない職業だろう。ならば、こう呼んでもいい。“弁刃士”。言葉で争いを断ち切る、刀でなく、理で闘う者だ」
斬は青年──レイの前に立ち、背を向けるようにして護った。
「この男が倉庫の鍵を盗んだというのなら、その証拠を示せ。声ではない。怒号でもない。“行為”を、“事実”で語れ」
「証拠だと……? この村にはそんなもの──!」
「それが“掟”の限界だ」
静かな言葉が、広場に突き刺さった。
「声が大きい者が勝ち、強い者が正しいという時代は、終わらせなければならない。“力”の裁きではなく、“理”の裁きを、ここから始めよう」
どこかから風が吹いた。青年の縄が、こよみによって切られる。
「……“法”って、こんなときに現れるんですね……」
こよみの声が、呆れと尊敬の入り混じった微笑となって風に混じる。
村人たちは沈黙したまま、前に立つ斬の姿を、ただ不思議そうに見つめていた。