村人の朝 〜魔法なし家事という苦行〜
夜明けとともに、村のあちこちから、かすれた咳とため息が漏れ始める。
「……ああ、寒ぃ……火がつかねぇ……!」
村の鍛冶屋の奥さん、マルタは、かまどの前で火打ち石を必死に叩いていた。
パンを焼くための火種が、魔法があった頃は指をひと振りするだけでついたのに。
カチカチ、カチカチ。
火花は散るが、湿った薪に嫌われ、白い煙が鼻を突くだけだ。
「もうっ……朝ごはんが焼けないじゃないか……!
カイルのせいだよ、まったく……!」
そう呟きながら、ふと頭をよぎるのは、リナが持ってきたあの熱々のスープだった。
——あれは、ちょっと羨ましかった。
別の家。
若いお母さんのサーラは、井戸のそばで両手を真っ赤にしていた。
「……ひゃっ……つめたっ……!」
たらいの中で、子どもたちの泥だらけの服を洗う。
魔法洗濯があった頃は、ぽちゃんと放り込めば泡と共に綺麗になったというのに。
今は手の皮が剥け、腰が痛い。
「……もう……これであと五人分……はぁ……」
隣で遊んでいた小さな子が、ころんと転んでまた泥だらけ。
「……ああああああっ!! さっき洗ったばっかりーー!!」
そして、老夫婦の家では。
腰の曲がったおじいさんが、箒を持ってヨタヨタと庭を掃いている。
「魔法箒が恋しいのう……」
昔は床を浮遊しながら勝手に埃を集めてくれた。
今は腰が軋むたびに、魔法時代のありがたさが骨身にしみる。
こうして村の家々では、かつて魔法で一瞬だった日常が、
朝から晩まで汗とため息の連続になっていた。
だからこそ、広場を通るカイルの姿に、
村人たちはつい毒づくのだ。
「……おい、また変なもん作って爆発させるんじゃないだろうな……」
「どうせなら、洗濯機でも発明してくれりゃいいのに……」
だが、誰も知らない。
カイルが次こそは役に立つものを、と夜な夜な紙切れに設計図を描いていることを——。
畑修復の後、少しだけ村人たちと打ち解けたカイル。
だが、村人たちの目にはもう一つの思いが芽生えていた。
その日も、広場のベンチで昼寝を決め込んでいたカイルに、
村のおばちゃんたちがわらわらと集まってくる。
「カイルさ〜ん、ちょっと起きておくれよ!」
「……んぁ? リナ……? あれ……村のおば……マルタさん……」
寝ぼけまなこをこすりながら顔を上げたカイルを、
マルタはにっこり微笑みながら肩をガシッと掴んだ。
「畑も直したんだしさぁ!
次は家の中の困りごとを何とかしてくれないかねぇ?」
「え……いや、俺、今ちょっと研究資材が——」
「カイル! 洗濯を楽にする機械作れ!」
奥の方から、洗濯で手が荒れたサーラが声を張り上げる。
「え、え、洗濯機……?」
「それからさー! うちの火起こし器も頼むわよ!
魔法の火は戻らないんだろ? だったら簡単に火がつくやつ!」
「それに……庭を掃いてくれる箒も……ほしい……」
腰をさすりながら、おじいさんがぽつりと漏らす。
「お、おじいさん……それ、俺が作れるかな……いや、頑張れば……」
気がつけば、村人たちはカイルを囲んでわいのわいの言い始めた。
「うちの子がすぐ泥だらけになるから、自動で服を洗ってくれる服とかどう?」
「薪割りも大変なの! 薪を勝手に割ってくれる斧がいいわ!」
「ついでに魔法の鍋の代わりになる火加減自動鍋も頼む!」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれ!
一人ずつ! 一人ずつだってばー!!」
押し寄せる村人のリクエストの嵐。
カイルは半泣きになりながら、必死に頭の中で設計図を描くが——
(火打ち器、洗濯機、薪割り機……自動箒……!
部品が足りない……知識も……爆発の匂いしかしない……!!)
その時、リナが助け船を出した。
「み、みなさん! カイルはひとりで作れるわけじゃないですから……!
一度に全部は無理ですっ! せめて一個ずつ……!」
「ん〜〜〜、じゃあ……洗濯機から!」
サーラの押しの強さに負け、
結局カイルは洗濯機を作る約束をさせられたのだった——。
数日後の朝、村の外れの納屋。
カイルはボロボロの設計図を片手に、目の下にくまを作っていた。
「……できた……俺の最高傑作……その名も!
《カイル式半自動回転洗濯機・試作一号》!!」
彼の前には、樽に木の羽根車と水車のような装置をくっつけた、
いかにも危なっかしい物体が鎮座している。
そばで見ていたリナは、すでに眉間に深いシワを寄せていた。
「……カイル、これはどう見ても……大丈夫じゃないわよね……?」
「心配するなリナ!
火を使わない! 水車の原理を応用!
中の羽根車が洗濯物をぐるぐる回すんだ!
手洗いよりも断然楽だろ!? 天才だろ!?」
「……でも、なんで足踏み式の空気圧縮タンクがついてるの……?」
「高速回転のためさ!!」
嫌な予感しかしない。
だが、すでに村の奥様方は、試運転を一目見ようと集まっていた。
「カイルさーん! うちの泥だらけの服、入れていいかい?」
「……はいはい、どんどんどうぞ!
今日は見せてやりますよ……人類の進歩を!!」
村人の声援(という名の好奇心と疑念)を背に、
カイルは意気揚々とレバーを握った。
「いざ、回転開始!!」
足踏みペダルを踏むと、タンクの中で空気が圧縮され、
羽根車がゆっくりと……いや、どんどん加速していく。
ゴウン……ゴウン……ゴウンゴウンゴウン!!
「おお! 回ってる! めちゃくちゃ回ってる!!」
「カイル、ちょっと速すぎない!?」
「回転こそ正義だ!!」
その時。
ガコンッ!
内部の羽根車が樽の壁を突き破り、洗濯物と泡が空高く吹き飛んだ。
ドッパァァァァン!!
泡だらけの泥水と一緒に、村人の顔面に洗濯物が直撃。
納屋の屋根にはシャツとズボンが引っかかり、
樽は泡を吐きながら横転していった。
「……」
「……」
「……カイルの……バカーーー!!!」
リナの絶叫が、村中にこだました。
泡だらけの納屋の前で、カイルはしゃがみ込んでいた。
樽の残骸、泥水にまみれた服、泡の海。
「……おれの……おれの洗濯機が……」
肩を落とすカイルの隣で、リナが無言で箒を動かしている。
頬にはまだ乾ききらない涙の跡。
「……はぁ。もう、カイル……何度目よ……」
「……すまん……」
そのときだった。
「ほらカイル! ボサッとしてないで手伝いな!」
振り向けば、鍛冶屋のマルタが腕まくりしてバケツを持って立っていた。
「マルタさん……?」
「こんだけ泡まみれにされたら、片付けないと明日の洗濯物が干せないんだから!
ほら、みんなー! 桶と雑巾持っておいでー!」
呼ばれて集まった村の奥様方、子どもたち。
みんな泡だらけの洗濯物を拾い集めたり、ホースで泡を流したり。
「カイルの失敗の後始末は村の恒例行事だからなぁ!」
「でも、前よりはマシだったよな?」
「あれだけ回ったら泥は完全に落ちてたかもね〜!」
子どもたちは泡を丸めて投げ合い、
サーラは腰に手を当てて笑っている。
カイルは目を丸くして、そしてぽつりと呟いた。
「……ありがとう……ごめんな……」
すると、マルタがカイルの背中をドンと叩いた。
「次こそちゃんと動くの作んな! そしたら今度はお茶くらい出すからさ!」
「……へへ……頑張ります……」
リナはそんなカイルを横目に、ほっとしたように微笑んだ。
——少しずつ。
魔法のなくなったこの村で。
失った便利さを、笑いと人の手で取り戻していく。
小さな泡の嵐の中で、カイルの小さな挑戦は続いていくのだった。
後片付けがひと段落した夕暮れ。
村人たちも帰り、納屋の中にはカイルとリナだけが残っていた。
泡にまみれた設計図を拾い上げ、カイルは小さくため息をつく。
「……結局、また失敗だったな……」
ぽつりと漏らす声は、どこか寂しそうだった。
それを見たリナは、両手に持っていた雑巾を置いて、
そっとカイルの前にしゃがんだ。
「カイル。」
「ん……?」
リナは真剣な目で、じっとカイルを見つめる。
「約束して。次からは……絶対に爆発しない発明を作って。」
「……!」
「怪我するのはカイルだけじゃないの。
今日だって、村の子どもたちやおばちゃんたちが巻き込まれたら……」
リナの声が少し震えている。
それを見て、カイルは小さく苦笑した。
「……リナは優しいな。」
「……優しいんじゃないの。……心配なの。」
リナは唇をきゅっと結んで、言葉を続けた。
「私は……カイルが怪我したり、みんなを危ない目に遭わせたりするの……もうイヤ。」
カイルはしばらく黙っていたが、
やがて、壊れかけの設計図をくしゃくしゃと丸めた。
「……わかった。もう爆発はしない。……しないように頑張る。
安全第一の発明家になってみせる。」
その言葉を聞いたリナは、ぱっと笑顔を取り戻すと、
まるで子どもをなだめるようにカイルの頭をぽんぽんと撫でた。
「……ほんとに、お願いだからね。」
「……はいはい。」
——夕暮れの納屋に、二人だけの小さな約束がそっと灯った。
数日後の昼下がり。
村は畑仕事で忙しい時間帯。
そんな中、カイルは納屋の奥で新しい発明の設計に没頭していた。
「……火も使わず、空気圧も使わず……回転は……手動か……」
手にはボロボロのノートと鉛筆。
何度も書いては消し、消しては書いて……眉間には深いシワ。
そんなカイルの背中を、納屋の戸の隙間からそっと覗き込む影が一つ。
「……カイル……がんばってる……」
リナだ。
手には、小さな包み。
中身は昨晩こっそり作ったお手製のクッキーだった。
(……あんなに怒ったし、心配もしたけど……
やっぱり、がんばってるカイルは放っておけない……)
リナはそっと納屋に入ると、背中を向けたままのカイルに近づく。
「カイル。」
「……ん? リナ? どうした?」
振り向いたカイルの顔は、鉛筆の粉で真っ黒だった。
「……ふふ。顔、すごいことになってる。」
「え、マジで!?」
思わず焦るカイルを無視して、リナは包みを差し出した。
「はい、これ。」
「……なに?」
「クッキー。夜に作ったの。
頭ばっかり使ってたらお腹空くでしょ? ……甘いもの食べたら、ちょっとはいいアイデア浮かぶかも。」
カイルはきょとんとした顔をして、包みを受け取った。
そして、じわじわと頬を緩ませる。
「……リナ、ありがとう……。」
「べ、別に……これでまた爆発させたら、怒るけどね!」
ぷいっと顔をそむけたリナの耳は、ほんのり赤い。
カイルはクッキーをひとつ頬張り、
ぼそっと呟いた。
「……よし、もう一回設計しなおすか……安全で、爆発しなくて……でも便利なやつ……」
そんなカイルを見つめながら、
リナは小さく微笑んだ。
——がんばれ、わたしの発明家。
そう、胸の中でだけそっと呟いて。