第1話 リナ=アーディス、薪を割る
朝、鳥のさえずりが聞こえるより先に、リナ=アーディスの腕は痛みを訴えた。
「いたた……また昨日の薪割りのせいだ……」
薄暗い部屋で小さく呟きながら、干し草の寝床から起き上がる。
昔なら、部屋を暖める魔法が朝まで働いていて、布団はふわふわ、足元も冷たくなかった。
今は違う。窓の隙間風が肌に刺さり、吐く息が白い。
「まずは……火を……火を……」
昨日の残りの薪をかき集め、かじかんだ指で火打石を構える。
カン、カン、と金属が擦れる音が小さく響く。
なかなか火花が散らない。指がまた切れた。
涙が滲んだが、泣いても火はつかない。
「くうぅ……っ、せめて魔法が……っ!」
火打石を握りしめて泣きそうな顔をしているところに、家の外から小さな声がした。
「リナさーん! まだー?」
隣の家の少年、ペルだ。
村の子供たちは、リナのことをまだ『勇者さまの妹』と呼ぶ子と、『面倒見のいいお姉ちゃん』と呼ぶ子に分かれている。
最近は後者が増えてきたのが、せめてもの救いだった。
「いま行くよー!」
火打石を放り出し、凍える台所を後回しにして外に飛び出す。
外気の冷たさが頬を叩き、息が白く舞う。
家の裏には昨日割りきれなかった太い丸太が山積みだ。
「……よし、やるしかない!」
小柄な体には重すぎる斧を肩に担ぎ、リナは小さく深呼吸した。
昔は薪なんて必要なかった。家の暖炉も、鍋も、全部魔法の炎が用意してくれたのだ。
だけど、今は違う。誰かがやらなければ寒さに負けてしまう。
村の大人たちは、リナに冷たい視線を送る。
それでも、子供たちの笑顔のためなら、彼女は斧を振り上げるのだ。
「えいっ! ……えいっ……あっ……ああーっ! 斧が……刺さっただけ……!」
まっすぐ割るはずの丸太に、斧が斜めにめり込み、抜けなくなった。
ペルは腹を抱えて笑っている。
村の犬まで吠えている。
リナは顔を真っ赤にして叫んだ。
「笑うなーーー!!!」
そんな、不便で、ちょっぴり泣きたくなる朝の始まり。
これが、魔法を失った村の、いつもの風景だ。
丸太に刺さった斧をどうにか引き抜いた頃、リナの耳に否応なく飛び込んでくるのは、村の広場に集まる大人たちの声だった。
「まったく……また火がつかなくて鍋を焦がしちまったよ。」
「俺なんか皿を洗うのに半日かかった。手がふやけて切れちまった。」
「どうして勇者さまは、あんなことをしたんだろうな……」
広場の中央には、家々から集められた薪や水桶が積まれている。
それを囲んだ村人たちは、背を丸めて寒空の下でため息ばかりついている。
「前は魔法の炎で、鍋に火をつけるだけで煮炊きも簡単だったのになあ……」
「そうだそうだ。勇者さまは、あの大魔王を倒してくれたんだろう? それはありがたいさ。だけど、魔法まで封印するなんて……」
「俺たちには何の相談もなしだ。結局、貧乏くじを引いたのは村人だってのに……」
ボソボソと、でも確実にリナの耳に届く声。
誰もが勇者を直接罵らない。だけど、代わりにその妹である自分にだけ、無言の視線を向ける。
「……おはようございます。」
リナが小さく会釈すると、誰もが目を逸らした。
そして、また小さな声で話し始める。
「……勇者の妹だろ。」
「……あの子は悪くないんだがな……」
「……でも不便だよなぁ……」
責めていないと言いながら、心のどこかで誰かを責めずにいられない大人たち。
リナはわかっている。
誰も悪くない。でも、みんな辛いのだ。
そして、その吐き出し口に一番近いのが自分なのだと。
「……よし。……今日はパンを焼こう。」
薪を担いで、少しだけ泣きそうな顔を、無理やり笑顔に変える。
——せめて、誰かの腹だけでも満たしてやりたい。
それが今の自分にできる、唯一の償いだから。
村人たちの愚痴を背中に背負ったまま、リナが薪を小屋に運び終えた頃だった。
どこからか聞き覚えのある、やけに元気な声が飛んできた。
「おおおおお! リナ! 見てろよ! 今日こそ完璧だ!」
リナが振り返ると、泥だらけのマントをひるがえし、村のはずれから煙を上げて駆けてくる青年がいた。
金髪に煤をこびりつけ、両手には見たこともない金属の筒を抱えている。
「カイル……また何を……」
村一番の変わり者。
かつては魔法学を専攻していたが、魔法が消えてからは『発明』という名の失敗作を日夜作り続けている自称・天才。
それがカイルだった。
「聞け、リナ! これはな、火打石なんぞ必要なし! 薪を一瞬で燃やす、夢の新兵器だ! 名付けて——」
カイルは金属の筒を高々と掲げ、どこか得意げに言い放った。
「——《火炎放射式瞬間暖房管・試作三号》!!」
「名前、長っ! ていうかまた火炎放射!?」
リナのツッコミを無視して、カイルは薪の山に筒の先を向ける。
筒の中でカチカチと音が鳴り、リナは嫌な予感が全身を駆け巡った。
「カイル、ちょっと待って! 距離! 近すぎ——」
「いくぞおおおおおお!!」
——ボンッ!!
轟音とともに、カイルの筒から火が噴き出した。
勢いあまって薪の山どころか、後ろの物置まで炎に包まれる。
「きゃあああああああああ!?!?」
「わあああああああ!?!?」
リナとカイルは慌てて水桶を抱えて右往左往。
薪は燃え、物置の屋根は焦げ、煙が村中に立ちこめる。
遠巻きに見ていた村人たちは、またもため息をついた。
「またカイルか……」
「これだから発明家気取りは……」
「リナちゃんも苦労するねぇ……」
リナは必死に水をかけながら、心の底から思った。
——これだから魔法のほうが、百倍マシだったってば!!
物置がほとんど炭になりかけた頃、どうにか火は消し止められた。
煙が立ちこめる中、煤だらけのリナとカイルが村の路地裏で向かい合っていた。
「カイルっ……!! 何回目!? 何回目なの!? 物置を火事にするの、これで!!」
「し、仕方ないだろ! 改良中なんだ! 魔法が使えなくなったんだから、発明するしかないじゃないか!」
「だからって、毎回毎回、火事を起こしてどうするのよおおおおお!!」
リナは地面に落ちていた残りの薪でカイルの頭を小突いた。
カイルは「痛い痛い」と言いながら、どこか誇らしげに胸を張る。
「でもな、リナ! 今日のは前のより確実に進歩してたんだぞ! 火が前より遠くまで飛んだだろ!?」
「進歩の方向が間違ってるのよおおおおおおおっ!!」
再びゴンッと薪がカイルの頭を叩いた。
村の犬が遠くで吠え、通りかかったおばあちゃんが「またやってるよ」と呟く。
カイルは頭を押さえながら、目をきらきらさせて続けた。
「でもな! 俺は諦めない! 火を起こすだけじゃない! いつか『自動お皿洗い機』とか、『空飛ぶ荷物運び箱』とか……魔法に負けない便利道具を作ってやるんだ!」
「その前に物置を残しなさいっ! あと私の心臓もっ!」
「心臓は鍛えとけ!」
「ふざけるなあああああ!!」
再びゴンッ。
カイルは後頭部を押さえながら、ふっと真顔に戻った。
リナも思わず口をつぐむ。
「……なあ、リナ。俺たちが何もしなかったら、このまま村はずっと不便なままだ。
勇者様のしたことは……間違ってない。でも、みんなの暮らしは確かに壊れた。
だから俺は諦めない。魔法が戻らないなら、俺が新しい“魔法”を作る。」
リナは煤まみれのカイルの顔を見て、思わず笑ってしまった。
笑いながら、涙が少しにじんだ。
「……うん。わかった。
でも……お願いだから、次こそ火事はなしでお願いね……」
「任せろ! 次は爆発系だから火は使わない!」
「いやもっと最悪じゃない!? 爆発ってなに!? カイルのばかーーー!!」
路地裏に、煙と怒声と、ほんの少しの笑い声が響いた。