プロローグ
かつて、この世界に不便という言葉はなかった。
火をつけるのも魔法。
掃除をするのも魔法。
遠くの街までひとっ飛びの馬車も魔法。
魔法があれば、夜は暖かく、皿は光るほどに磨かれ、道は平らで雨の日も濡れずに済んだ。
子どもも老人も、魔法を唱えるだけで快適な暮らしが約束されていた。
しかし——全ては終わった。
突如現れた大魔王。
人々の命を奪い、街を呑み込む闇の化身を討つために、勇者は決断したのだ。
この世界の魔法を、すべて封印すると。
魔法の源を奪えば、大魔王もまた存在できないと——。
そうして大魔王は倒れ、世界は救われた。
勇者とその仲間は人々を絶望から救った真の英雄となる……はずだった。
だが。
人々が失ったのは、魔王よりも大切な、何よりも身近な『魔法のある暮らし』だった。
火をつけるのに薪を割り、火打石で指を切り、皿を洗えば手が荒れ、重い荷物を担いで泥だらけの道を歩く。
面倒で、時間がかかって、汗と涙と小さな怪我が絶えない。
便利だったあの頃を思い出すたび、誰もが口にする。
——勇者が、すべてを奪った、と。
世界は平和を取り戻したが、人々の心は荒んだ。
賞賛されるはずの勇者は姿を隠し、その妹である少女は、今も村の隅で小さく背を丸めている。
それでも、生きていくしかない。
魔法のない明日を、生き抜いていくしかないのだ。
これは、魔法を失った世界を生きる人々の、不便で、愛おしくて、少しだけ滑稽な物語。
——勇者さま、不便にしてくれてありがとう。