『名もなき誇り』
『名もなき誇り』
「テレビ消せ」
夕食の支度をしている妻の背中に向かって、佐伯正一は低くつぶやいた。六十八歳の彼の言葉は、いつも命令のような口調だった。それは、かつて大手電器メーカーの工場長を務めていた名残りだと、家族は黙って受け入れていた。
「どうしたの?」
妻の幸子は、手を止めることなく尋ねた。
「また例の奴が出てる。見るに堪えん」
正一が指さす先のテレビ画面には、派手な金髪の若者がにやにやと笑いながら、インタビューに答えていた。「炎上系クリエイター」として名を馳せた二十代半ばの男性だった。
「ああ、この子ね。先週、女優さんの会見に乱入して大騒ぎになった人でしょ?」
「そうだ。わざと問題を起こして話題になるクズだ。それをメディアが取り上げる。おかしな世の中になったもんだ」
正一は薄くなった白髪を無意識に掻きながら、溜息をついた。テレビでは男性がこう語っていた。
「炎上したおかげでフォロワーが一気に30万人増えました。ビジネス的には大成功ですね」
そして気色悪いほど白い歯を見せて笑う。
「消せ」
今度は声を荒げた。幸子はリモコンを手に取り、慌ててチャンネルを変えた。
「ほんと、今の若い人たちはすごいわね。なんだか私たちの時代には考えられなかったわ」
「すごくもなんともない。あんなのが持て囃される世の中がおかしいんだよ」
「でも、確かに一晩で有名になって、収入も得られるんだから…」
「名誉より金か?悪名でも名が売れりゃいいと?その考え方が間違ってる」
幸子は黙って味噌汁をかき混ぜた。夫と議論しても無駄だと、結婚四十年の経験が教えていた。
「晩御飯、もうすぐできるわ」
正一は無言で頷き、食卓に座った。テレビからは、別のワイドショーが流れていた。そこでもまた、何かの炎上騒動についてコメンテーターたちが熱く語り合っていた。
「世も末だ」
静かに呟いた正一の声は、誰にも届かなかった。
翌朝、正一は習慣通り六時に起床し、近所の公園へ散歩に出かけた。ラジオ体操をした後、いつもの木製ベンチに腰掛ける。朝日がちょうど気持ちよく感じられる季節だった。
「おはようございます、佐伯さん」
隣のベンチから声がかかる。七十代前半の森下という男性だった。定年後に始めた朝の散歩で知り合い、時々世間話をする仲だった。
「よう、森下さん。今朝も良い天気だな」
「ええ、最高ですよ。ところでご存知ですか?ここの公園、来月から改修工事が始まるそうですよ」
「そうなのか。聞いてなかった」
「町内の回覧板に書いてありましたよ。でも工事の発注先がまた問題になってるみたいで…」
森下は顔を近づけ、声を落として続けた。
「区長の親戚の会社だという噂があるんです。随分と高額な予算がついてるらしくて」
正一は眉をひそめた。
「そんな不正があるなら、誰か告発すればいいだろう」
「難しいですよ。証拠がないし…それに、今はSNSで騒いだほうが早いかもしれません。炎上させれば即効性がありますからね」
「なんだって?」
正一は思わず声を上げた。
「いや、今の時代はそうじゃないですか。匿名で内部告発すれば、あっという間に拡散して。マスコミも飛びついてくる。結果的に是正されるなら、手段はどうあれ…」
「冗談じゃない」
正一は静かに、しかし力強く言った。
「正しい手順を踏まず、人の名誉を傷つけることが許されるのか?単なる噂や憶測で人を陥れていいのか?それが罷り通れば、社会の秩序が保てなくなる」
正一は一呼吸置いてから、さらに続けた。
「森下さん、『葉隠』という書をご存知ですか?」
「ええ、佐賀藩の武士、山本常朝の言行録ですね。『武士道とは死ぬことと見つけたり』の…」
「そうです。しかし葉隠の真髄はもっと深いんです。表に出ず、名を求めず、ただ誠実に務めを果たすこと。それが本来の日本人の美意識なんですよ」
正一は穏やかな表情で言った。
「葉隠れ精神とは、自分の功績を表に出さず、陰で黙々と真摯に努力することの美しさを説いています。匿名で騒ぎ立てるなど、その対極にあるものです」
森下は少し気まずそうに笑った。
「まあ、佐伯さんらしいご意見ですね。私も本当はそう思いますよ。でも時代が…」
「時代のせいにするな」
正一は立ち上がり、ポケットから折りたたんであった新聞を取り出した。
「私は今日も新聞の投書欄に目を通す。そこには匿名ではなく、実名で意見を述べる人々の言葉がある。炎上も何もない、責任ある発言だ。これこそが『名を惜しむ』日本人の誇りというものだ」
森下は苦笑いを浮かべながら、正一の昭和的な潔癖さに敬意を示すように軽く頭を下げた。
帰宅すると、孫の優太が珍しく訪ねてきていた。大学一年生になったばかりの孫と話すのは、正一の数少ない楽しみだった。
「おじいちゃん、おかえり」
「おう、優太か。珍しいな。大学はどうだ?」
「うん、まあまあかな」
優太は祖父に似て背が高く、端正な顔立ちをしている。しかし、その表情には晴れない影があった。
「どうした?何か悩みでもあるのか?」
リビングに座り、幸子が入れてくれたお茶を前に、正一は孫の様子を伺った。
「実は…YouTuberになろうと思ってるんだ」
「ユーチューバー?あの、動画を撮る仕事か?」
「うん。今、友達と計画してて。過激なことをして視聴者を増やそうと思ってるんだ」
「過激なこと?」
「うん、例えば有名人の家に突撃してみたり、危険なチャレンジをしたり…」
正一の表情が曇った。
「それは、迷惑行為じゃないのか?」
「でも、今はそういうのが当たり前なんだよ。炎上しても、結局は知名度が上がるから。『悪名は無名に勝る』っていうでしょ?」
正一は孫の言葉に、体の奥から怒りが込み上げてくるのを感じた。しかし、孫を前に声を荒げることはしたくなかった。
「優太、その諺は本来、日本の価値観ではないんだよ」
「え?」
「西洋の個人主義から来た考え方だ。日本人は昔から『名を惜しむ』という美徳を持っていた。名誉を大切にし、恥を知る。それが誇りだった」
正一は茶碗を静かに置き、真剣な表情で孫を見つめた。
「私たち日本人には『葉隠れ精神』というものがある。知っているか?」
優太は首を横に振った。
「江戸時代、武士の心得を記した『葉隠』という書物があってな。その中に『武士道とは死ぬことと見つけたり』という有名な言葉がある」
「死ぬこと?なんか怖いな…」
「違う、違う。これは自分の名誉や利益よりも大切なものに命を捧げる覚悟のことだ。自己顕示ではなく、目立たないところで黙々と務めを果たすことこそが美しいという考え方だ」
正一は少し考えてから、言葉を選んで続けた。
「葉隠れの『葉隠れ』とは、木の葉に隠れるという意味だ。つまり、自分の功績を誇示せず、陰で支える。それが本来の日本人の美意識なんだよ」
優太は少し困惑した表情で祖父を見た。
「でも、今の時代は違うよ。知名度がすべてじゃない?どうやって目立つかが大事で…」
「本当にそうか?」
正一は静かに問いかけた。
「お前が過激な行為で注目を集めても、それは一瞬の風のようなものだ。そして残るのは、『あの迷惑な若者』という悪評だけだぞ」
「でも、フォロワーが増えれば収入も得られるし…」
「短絡的だな。長い人生を考えろ。私は四十年以上、同じ会社で働いた。華々しい名声は得られなかったが、誰かに迷惑をかけず、誠実に生きてきた。それが私の誇りだ」
正一は少し間を置いて、穏やかな口調で続けた。
「優太、覚えておくといい。葉隠れ精神というのは、表からは見えない献身や誠実さを美しいと感じる心だ。これは古くから日本人が持っていた独特の美意識なんだよ。西洋のように個人が輝くことを良しとするのではなく、全体の調和の中で自分の役割を黙々と果たすことを尊ぶ。それが本当の『名を成す』道だ」
優太は黙って俯いた。祖父の言葉に反論する気持ちと、どこか納得してしまう気持ちの間で揺れていた。
「考えておくよ…」
優太は小さな声でそう答えた。正一は満足げに頷き、話題を変えた。
「大学の勉強は大変か?」
孫との会話は、いつものように学校生活の話へと移っていった。しかし正一の胸の内には、現代社会に対する違和感が一層強まっていた。
週末、正一は珍しく娘夫婦の家へ招かれた。娘の美香は三十八歳で、中学校の国語教師をしている。婿の健太は同じく教師で、二人の間には優太と、中学生の娘・菜々子がいた。
「お父さん、最近元気?」
美香は父親にビールを注ぎながら尋ねた。
「ああ、相変わらずだ」
「おじいちゃんは先日、僕に説教したんだよ」
優太が茶化すように言った。
「何かしたの?」
美香が心配そうに尋ねる。
「いや、YouTuberになりたいって言ったら…」
「説教なんかしてないだろう」
正一は言い訳がましく言った。
「ただ、自分の考えを話しただけだ」
「お父さんの考えは昭和すぎるのよ」
美香は苦笑しながら言った。
「今の子どもたちはSNSで育ってるから、価値観が全然違うの。私も教師として日々驚かされてるわ」
「例えば?」
「例えば…」
美香は少し考えてから続けた。
「先日、あるクラスの女子生徒がSNSで自分の制服姿を投稿して、『いいね』を集めてたの。学校としては禁止してるんだけど、彼女にとっては『承認欲求』を満たすために必要なことらしくて」
「承認欲求?」
「他者から認められたいという欲求よ。今の子はそれが強いの。フォロワー数やいいねの数が自分の価値を決めると思ってる子も多いわ」
正一は唖然とした表情で言った。
「それこそ日本人の伝統的な美意識と真逆だな。葉隠れの精神では、表彰されることを恥じ、功績を黙っていることこそが美しいとされていた。『功名は死後に遂げよ』と言われていたものだ」
美香は父親の言葉に、少し驚いたように見えた。
「お父さん、最近葉隠れに詳しくなったのね」
「老いて益々学ぶだよ」正一は少し照れくさそうに言った。「日本のアイデンティティを見つめ直す時期なのかもしれん」
「ただの数字じゃないか。それより品行や実績で評価されるべきだろう」
「理想はそうよね。でも現実は…」
美香が言いかけたとき、中学生の孫娘・菜々子が割り込んできた。
「おじいちゃん、私のTikTok見てみる?結構フォロワー多いんだよ」
「ティックトック?」
「短い動画を投稿するSNSよ、お父さん」
美香が補足した。菜々子はスマホを操作し、自分のアカウントを見せた。そこには菜々子が友達と踊る動画がいくつも投稿されていた。
「これ、三万回も再生されてるんだよ!すごいでしょ?」
正一は孫娘のはしゃぐ姿を微笑ましく見つつも、複雑な気持ちを抱いた。自分の知らない世界で、孫たちは育っている。その世界の価値観は、自分の生きてきた時代とあまりにもかけ離れていた。
「すごいな」
無理に笑顔を作りながら、正一はそう答えるしかなかった。
翌朝、正一は再び公園へ散歩に出かけた。しかし今日は、いつもと違う光景が広がっていた。
公園の中央に人だかりができていた。スマホを掲げる若者たちが集まり、誰かを取り囲んでいる。正一は何事かと近づいてみた。
中心にいたのは、テレビで見た「炎上系クリエイター」と名乗る男だった。カメラを構えたスタッフと共に、何かの撮影をしているようだった。
「今回は、公園のベンチを勝手に持ち帰って、お年寄りがどう反応するか実験してみます!」
男はカメラに向かって大声で宣言した。そして実際に公園のベンチを二人の助手が持ち上げ、移動させ始めた。周りの若者たちから歓声が上がる。
「おい!何をしている!」
正一は思わず声を上げていた。男は嬉しそうにカメラを向け、マイクを正一に突きつけた。
「おじいさん、このベンチがなくなったらどう思います?怒ってます?」
「当然だ!公共物を勝手に動かすな。これは立派な器物損壊だぞ」
「いや、撮影が終わったら戻しますよ。ちょっとしたドッキリですから」
男は面白がるように言った。周囲の若者たちもスマホで撮影しながら笑っている。
「ドッキリだと?こんな迷惑行為を面白がるな!」
正一の怒りは頂点に達していた。男は逆にその反応を喜んでいるようだった。
「めっちゃリアクション良いじゃないですか!これは間違いなく伸びる動画になりますよ」
「伸びるだと?」
「再生回数が増えるってことですよ、おじいさん。このままだと100万回は行きそう」
男はにやりと笑った。
「俺、炎上案件で月に数百万円稼いでるんですよ。悪名は無名に勝るってやつです」
その言葉が、正一の理性の糸を切った。
「悪名は無名に勝る…か」
静かに呟いた正一は、一歩前に出た。
「若い者、お前に教えてやろう。日本には『恥を知れ』という言葉がある。自分の行いに責任を持ち、誇りを持って生きる。それが人間としての基本だ」
男は馬鹿にしたように笑った。
「おじいさん、それ昭和の価値観ですよ。今は令和ですよ」
「時代が変わっても、人としての道は変わらん!」
正一は怒りに震える声で言った。そして、スタッフが持ったベンチに手をかけた。
「若いの、日本人の心を忘れたか?」
正一の声には深い悲しみが滲んでいた。
「もともと私たち日本人は、葉隠れの精神を持っていた。見え透いた自己顕示ではなく、静かに務めを果たすことを美しいと感じる心だ。迷惑を顧みず、ただ目立ちたいという欲望だけで行動する。それが日本人の美意識か?」
男は少し戸惑ったような表情を見せた。周囲も静かになっていた。
「功績は黙してても、必ず誰かが認める。それが本当の評価というものだ。『自ら栄を求めて得る栄は、栄にあらず』―徳川家康の言葉だ」
「このベンチを元に戻せ。さもなければ警察を呼ぶぞ」
男はカメラを向けたまま、面白がって言った。
「おじいさん、警察呼んでください!それ撮影したいです!もっと炎上しそう!」
正一はポケットから携帯電話を取り出し、本当に110番を押した。男は驚いたような、でも嬉しそうな表情を浮かべた。
「マジで警察呼んだ!このリアクション最高!絶対バズる!」
通報を終えた正一は、毅然とした態度で男を見つめた。
「お前の名前と所属を名乗れ」
「え?」
「匿名で悪さをする気か?それとも堂々と名乗る勇気はあるのか?」
男は少し戸惑った様子を見せた。
「俺の名前はSNSで見ればわかるし…」
「ここで名乗れ。責任ある行動というものを教えてやる」
正一の威厳のある声に、周囲が静まり返った。男は少し緊張した様子で答えた。
「佐々木…佐々木勇太です」
「佐々木勇太、覚えておく。お前のやっていることは、単なる迷惑行為だ。これが『炎上』で金になるのなら、この国の価値観は完全に狂っている」
警察が到着するまでの間、正一は毅然とした態度を崩さなかった。警察官が事情を聴き、撮影クルーに注意し、ベンチは元の位置に戻された。炎上系クリエイターの男は、思ったような面白映像が撮れなかったことに不満げな表情を浮かべながら、公園を後にした。
その夜、正一は夕食後、一人で縁側に座っていた。公園での出来事が頭から離れなかった。
「お茶いれたわよ」
幸子が茶碗を持ってきた。
「ありがとう」
「今日は大変だったそうね」
幸子は夫の横に座った。
「噂になってるわよ。あなたのこと、町内の人が皆話してる」
「そうか」
「YouTuberとトラブルになって警察沙汰になったって…でも、あなたは正しいことをしたのよ」
正一は妻の言葉に少し驚いて顔を上げた。
「幸子」
「何?」
「私は時代遅れなのか?」
珍しく弱気な問いかけに、幸子は優しく微笑んだ。
「あなたは昭和の人よ。でもね、人としての誇りや筋を通すことは、どんな時代でも大切なことだと思うわ」
「そうか…」
「葉隠れには『武士道とは、死ぬ事と見付けたり』という有名な言葉がある。これは死を恐れずという意味ではない」
正一はお茶を一口飲み、遠くを見つめながら続けた。
「いつでも命を捧げる覚悟で主君に仕えよ、という意味だ。現代風に言えば、自分の利益や名誉よりも大切なものに全身全霊を捧げる生き方だろう」
「素敵な考え方ね」
「葉隠れの面白いところは、功を立てても、それを表に出さないことを美徳としている点だ。黙ってやる。世間から認められようとは思わない。存在が隠れていても、魂の花は確かに咲いている―それが『葉隠れ』の心なんだ」
幸子は静かに夫の言葉に耳を傾けた。
その時、玄関のチャイムが鳴った。幸子が出ると、孫の優太が立っていた。
「おじいちゃんに会いに来たんだ」
優太はリビングに入ってくると、珍しく正座をして祖父の前に座った。
「聞いたよ、今日のこと」
「ああ…」
「俺、考えたんだ。おじいちゃんの言ってたこと」
優太は真剣な表情で言った。
「『悪名は無名に勝る』っていう考え方、確かに今の世の中では主流かもしれない。でも、それって本当に正しいのかなって」
正一は黙って孫の言葉に耳を傾けた。
「YouTuberになりたいっていう気持ちはまだあるんだ。でも、人に迷惑をかけたり、炎上させたりするようなやり方はやめようと思う。そうじゃなくても、価値のある内容を発信することはできるはずだから」
優太の言葉に、正一は思わず目を細めた。
「そうか…そう思ってくれたか」
「おじいちゃんが教えてくれた『葉隠れ精神』のこと、調べてみたんだ」
優太は少し興奮した様子で言った。
「現代的に解釈すると、自分の功績を誇示するのではなく、静かに社会に貢献することの美しさを説いているよね。それって、SNSの『いいね』を集めることとは真逆だけど、なんだか心に響いたんだ」
正一は孫の言葉に、静かな感動を覚えた。
「本来の日本人の美意識って、派手さではなく、控えめで奥ゆかしいものだったんだね。もちろん現代は違う価値観もあるけど、根本的な部分では、やっぱりそういう心を持ち続けたいって思ったんだ」
「おじいちゃんみたいに、誰にも恥じない生き方をしたいんだ。だから…」
優太は少し照れくさそうに続けた。
「大学で勉強してることを活かして、プログラミングの解説とか、初心者にもわかりやすい動画を作ろうと思ってるんだ」
正一は孫の肩に手を置いた。
「それなら応援するぞ」
「ありがとう、おじいちゃん」
その夜、正一は久しぶりに穏やかな気持ちで眠りについた。時代は変わり、価値観も変わる。しかし、人としての誇りや名誉を重んじる心は、どんな時代でも大切にされるべきものだと、改めて感じていた。
一週間後、正一が朝の散歩から帰ると、幸子が慌てた様子で迎えた。
「大変よ、正一さん!テレビに出てるわよ!」
「何だって?」
リビングに入ると、ワイドショーが流れていた。そこには公園でのトラブルの様子が映し出されていた。炎上系クリエイターの男が撮影した映像だった。
「先週、公園でのドッキリ企画中に、熱血おじいさんが激怒!警察沙汰に発展した一部始終をご覧ください」
アナウンサーの声とともに、正一が怒る姿が放送された。しかし、編集されており、あたかも正一が理由なく怒り出したかのような映像になっていた。
「こんなくだらない番組」
正一は不快感を露わにした。しかしその時、番組は続いていた。
「ところが、この動画に対してSNSでは『おじいさんが正しい』『迷惑行為をするYouTuberが問題』という声が続出。むしろ炎上系クリエイターを批判する声が多数を占めています」
画面には、SNSの投稿が次々と映し出された。
「公共物を勝手に動かす行為は犯罪です」
「昭和のおじいさんに論破されるユーチューバー、恥を知れ」
「おじいさん、正義の味方!」
「こういう迷惑系は取り締まるべき」
「『葉隠れ精神』を現代に伝えるおじいさん、素晴らしい」
次々と表示される投稿に、正一は驚いた。
「今、炎上系クリエイターに対する批判が高まっています。この『正義のおじいさん』の姿が多くの人の共感を呼んだようです」
番組は、炎上系クリエイターの男に対するインタビューを放送した。彼は珍しく神妙な表情をしていた。
「反省しています。あの日のドッキリは行き過ぎでした。おじいさんの言われた『葉隠れ精神』について調べてみて、自分の行動を振り返りました。視聴者を増やすためなら何をしてもいいという考え方は間違っていました」
正一は呆気に取られた。
「まさか…」
電話が鳴り、出てみると孫の優太だった。
「おじいちゃん!ネットで有名人になってるよ!」
「何だって?」
「『昭和の正義おじいさん』『葉隠れの心を持つおじいさん』ってハッシュタグがトレンド入りしてる!みんなおじいちゃんを応援してるんだ!」
優太の興奮した声に、正一は戸惑いを隠せなかった。
「そんな…私は単に正しいと思ったことをしただけだ」
「それがすごいんだよ。今の時代、正面から意見を言う人が少ないから。おじいちゃんみたいに筋を通す人が評価されてるんだ」
電話を切った後も、テレビからは正一に関する話題が続いていた。炎上系クリエイターへの批判と、「昭和の正義おじいさん」への支持が広がっているという。
「まったく、物事の順序が逆だな」
正一は苦笑した。
「どういうこと?」
幸子が尋ねた。
「私は目立つために行動したわけじゃない。正しいと思ったことをしただけだ。それなのに結果として注目を集める。『悪名は無名に勝る』ではなく、『正名は悪名に勝る』というべきだな」
幸子は夫の言葉に微笑んだ。
「時代は変わっても、本当に大切なものは変わらないのかもしれないわね」
翌日、正一が公園に行くと、普段より多くの人が集まっていた。彼を見つけた地元のお年寄りたちが、敬意を込めて頭を下げる。
「佐伯さん、あなたのおかげで公園が静かに戻りました」
森下が嬉しそうに声をかけた。
「いやいや、大げさな」
正一は照れくさそうに首を振った。
「でも本当ですよ。あなたの言っていた葉隠れ精神というものが、若い人たちの間でも話題になっているそうです。『控えめに生きることの美しさ』と。これも何かの縁でしょうね」
森下の言葉に、正一は複雑な思いを抱いた。本来、葉隠れの精神とは、功を立てても表に出さないことを美しいとする心だった。それなのに皮肉にも、自分が注目を集める結果になっていた。
週末、正一は久しぶりに神社を訪れた。静かに手を合わせ、心を落ち着かせる。
参道を下りていると、境内の一角でカメラを構える若者たちがいた。最初は警戒したが、よく見ると孫の優太と友人たちだった。
「おじいちゃん!」
優太が駆け寄ってきた。
「ここで何をしているんだ?」
「動画を撮ってるんだ。『日本の伝統文化を若者に伝える』っていうシリーズの第一回。葉隠れ精神について解説する動画なんだ」
優太は誇らしげに説明した。
「みんな、おじいちゃんのことをきっかけに、日本の伝統的な価値観に興味を持ったみたいで。でも派手な演出はなしで、内容で勝負しようって決めたんだ」
正一は感慨深く孫を見つめた。
「そうか…それはいいことだな」
「よかったら、おじいちゃんも少しだけ出演してくれない?『葉隠れ精神と現代社会』について、おじいちゃんの考えを話してほしいんだ」
正一は一瞬迷ったが、若い世代に何かを伝えられるなら、と頷いた。
カメラの前に立った正一は、最初は緊張したが、自分の言葉で静かに語り始めた。
「葉隠れの精神とは、功を誇らず、静かに務めを果たす心だ。見返りを求めず、己の誇りを持って生きること。これは時代が変わっても、大切にすべき日本人の心だと思う」
正一の朴訥とした言葉は、カメラを通して多くの若者に届くことになった。
それから一ヶ月後、優太が再び祖父母の家を訪れた。
「おじいちゃん、見てよ!」
優太はスマホを見せた。そこには彼らが作った動画の再生回数が表示されていた。
「100万回再生!すごいでしょ?」
「まあ、すごいわね!」
幸子が驚いた声を上げた。正一も心底驚いていた。
「これだけ多くの人が、葉隠れの精神に興味を持ってくれたのか…」
「うん!コメント欄にも『初めて日本の伝統的な価値観を知った』『SNSの時代だからこそ、葉隠れの精神が必要なのかも』って声がたくさん寄せられてるんだ」
優太は嬉しそうに続けた。
「それで、次のシリーズも決まったんだ。『現代に生きる日本の心』って題材で、いろんな伝統的価値観を紹介していくの」
「そうか…それは素晴らしいことだな」
正一は心からそう思った。自分のささやかな抵抗が、思いがけず多くの人の心に届いたことに、深い感慨を覚えた。
「でも、おじいちゃん」
優太は少し照れくさそうに言った。
「確かに動画は人気になったけど、僕たちは『葉隠れ精神に反している』よね?自分たちの功績を表に出してるわけだから…」
正一は愛情を込めて孫の肩に手を置いた。
「いや、違う。葉隠れ精神を伝えることこそが、お前たちの使命だ。それは自分の栄達のためではなく、大切なものを守り伝えようとする心だ。それこそが本当の『名を成す』ということだよ」
優太は安心したように笑った。
「ありがとう、おじいちゃん」
その夜、正一は縁側に座り、満月を眺めていた。
「葉隠れというのは、葉が枝を隠し、枝が幹を隠し、幹が根を隠す…」
正一は小さく呟いた。
「表に現れない根があってこそ、美しい花が咲く。これからの世代も、そんな日本人の美しい心を持ち続けてほしい」
静かな夜空に、正一の思いは広がっていった。名声を求めず、ただ自分の信じる道を黙々と歩む。そんな名もなき誇りこそが、どんな時代でも変わらぬ人間の尊厳なのだと。
正一は自分が果たした役割に満足していた。彼は目立つことを望まなかったが、彼の行動は若い世代に日本の伝統的価値観を思い出させる触媒となった。これこそが真の葉隠れ精神—表に見えなくとも、確かな影響を与える心の在り方だった。
「名もなき誇りを持って生きる。それこそが本当の『名を成す』ということかもしれんな」
正一のつぶやきは、春の風に乗って、未来へと運ばれていった。