6.紫苑の昇華・超音波の手
できることなら、#%は______。
「ウル……?その子かい?」
夜行は驚愕の色を隠しきれず、突如として現れた人外に僅かな警戒の色を見せる。彼は少し離れているが、危害を加えるには十分な距離だろう。
当の本人ウルは相変わらずの微笑を浮かべており、当たり前のようにそこにいた。闇の中に浮かぶ瞳、灰色の髪、端正な顔立ち。凛としているように見え、どこか不安定な佇まい。
___コレが、人狼。
子供のような顔からはとても納得できなかったが、彼の纏う異様な雰囲気が有無を言わせない純然を語っている。
「そうだよ、僕はウルって呼ばれている」
落ち着きのある声でそう言い一歩こちらへ踏み出した。彼らは無意識に一歩退き、それを見たウルはピタリと歩みを止める。その代わり静かに口を開いて笑った。
「悪魔達はもう、知っているんでしょう?僕のことも、世界のことも」
「それは……そうだけど」
うっかり答えてしまったクオンに、鬼達は強張った視線を悪魔に向けた。一体何の話か、とその目が言っている。
「そして、鬼達も知っていることがある。そうだね、例えば___」
今度は悪魔が鬼達へ目線を投げた。彼らは大きく目を見開いて絶句している。互いに愕然とした眼差しを向け合い、何も言えずに黙っていた。そんな駆け引きの沈黙を人狼は無情に引き裂く。
「__暗示、とか」
「何故それをっ……!?」
冷や汗を滲ませる楽刻の反応にウルは笑みを深め、その表情に背筋に冷たいものが走るようだった。その異常な小さく優しい笑顔を、決して短くはない一生で見たことはあっただろうか。この類は危険な香りがする。未知という名の誘惑が。
そして、劇毒の花が目の前に咲き誇る。
「僕は人狼だ。世界を越え、その代償は自由。崩壊を免れ操り、トライアングルの原理を覆す審判の狼。世界の、蓋世」
___……世界の蓋世、お前たちの要望を兼ねる救済。
それは彼のことを指していたのか?
「僕は人狼ウル、この世界を改編する為に動く。そこにあるのは審判でも崩壊でもなく、蓋世のみ。裏切り、偽り、在り方を変え、信念を捻じ曲げ、フィルムの混濁を飲み込んだ上で……」
あの夜と同じように月が彼の背後に差し掛かる。その表情が捉えようもなくなった時、自分達は否と断言できるだろうか。長くはない沈黙、涼しい風に押されたように月が狼に逆光を造りだす。両目が浮かび上がり、目だけが彼らを真っ直ぐに感じていた。
「__この世界を、救うかい」
△▼ △▼ △▼ △▼ △▼
「つまり……俺らは何も知らねぇの。調査を始めたのだってごくごく最近の話なわけで」
あの後、結局直ぐに頷くことはできなかった。ウルの提案でまずは互いに情報を交換した方がいいのではないか、とのことで本部から離れて壱鬼の屋敷に来ていた。理解が追いついていない頭では未だに疑心暗鬼なのだ。手を取れたとしても嬉しい結果には遠のくばかりだろう。
無論悪魔達にできたのは単純な状況説明だけで、他に言うことと言えば大穴と不気味な情報屋の事くらいだった。しかし、鬼達も広く浅く知っているようなものらしく、どの道緊張が解けただけマシな現状だ。
「単刀直入に言うと、先ほどウルが言った『暗示』と言うのもよくわかっていないんだ。僕が使役を遣おうとした時、ふと……妙な、違和感というか嫌悪感とでも言うのかな。この三人にそんなもの感じるはずもなかったから、何回か能力の使用時と視界を切り替えている内暗示の輪郭がはっきりした。それを視認するだけでもかなり苦労したもので、解き終わるころには気絶してしまってね」
「にわかには信じがたいからって俺で実験してみたらぶっ倒れて。俺も何が何だか、今までと感覚が随分と違ってさ……。混乱してるところに変な手紙が届いたんだよ」
そう言って懐から褪せた青の封筒を取り出した。紺の封蝋まであり、どうみても国内かつ人の手ではない。
「僕が君達一級との結託を承認したのもこの手紙による。協会の紋章は青い花、『ニゲラ』だろう?」
「あぁ……せやな。それが手紙に?」
「ある意味では」
甘音から手紙の中身を受け取り、夜行はそのまま読み上げる。
「『彼岸の鍵を困惑の花へ。解錠した牢の向こう、治癒の音の手を取る』」
「困惑はニゲラの花言葉です。それと、この青い手紙から貴方達一級ではと見当を付けました」
「それ以外は一切不明やね。解錠ってところからお前らが必須なんちゃうかなぁ思ってたんやけど」
つまり、それ以外は読み解けていないということだ。確かにこれだけの条件が揃えば一級に思える。夜行はライベリーに手紙を渡した。
「その筆跡、見覚えはあるかな?」
「……いや、ないっすね。お前らはどうよ」
しばらく文字を睨むも潔く諦め、悩ましい顔で三人に見せる。
「ないね」
「僕もなーい」
なら、と思ったその時、ノイズが震えた声で言った。
「ライベリー……それ見せてくれんか」
焦っていたと言えば、そうだろう。この時まで思い出さないようにしていた感覚が三人に、あの日から戻ってきて語り掛けるのだから。
ノイズは青い手紙に目を通し、やがて妙に冷静な顔を上げた。
「クロヴン、ライベリー。ほんまにこれ見覚えないか?」
ないものはない。一体何を、と眉をひそめたのはライベリーとクオンだった。
「嘘やろ……この字、ジョーカーの」
「アニキの!?」
「それは本当かい」
驚愕の眼差しを向ける二人に、ノイズは動揺を抑えきれず少しづつ綻びを見せる。
「そんなん言われても、この字……この字、アイツのや」
「……ノイズ?」
クオンの小さな声は二人の声にかき消される。言われてノイズが手紙をもう一度渡し、同じように唖然とした鬼達に話しかけた。
「マジだ、ジョーカーだ、アニキの字だよ!お前らも知ってるだろ!」
「ジョーカーって……フェイリカか?なんで離反した奴が手紙送って来るんだ……!?」
できれば忘れていたかったかもしれない。
離反悪魔ジョーカー・フェイリカ元一級、協会の最重要指名手配犯、第一級離反悪魔。平和なイメージはノイズの幼馴染、ということくらいだろうか。
協会が最も危険視しており、問答無用の死刑対象が第一級離反悪魔。拘束が最優先される者を最重要指名手配犯、この二つのレッテルを貼られた元協会トップ2が彼だ。もし本部が襲われれば一瞬で壊滅状態に陥る。クロヴンがいなければ、ノイズ達がいようと確実に全滅する。それが彼だ。
元より彼が離反する動機なんて今でも全く心当たりがない。ノイズと似た仮面の下は見えなかったが、少なくとも彼らに敵意はなかった。
悪魔の特徴の一つに、『直感』がある。外れることのないその勘がジョーカーは特に、いや異様に鋭かった。もしや、彼ならば___。
「先に気づいていたのか!協会が最重要指名手配犯としたのも、暗示やウルの言ったことも関係しているんじゃ?」
「ありうる。アイツ、ほんま何っも言わんと……!!」
大方裏で暗躍し反旗を翻す舞台を整えていたのだろう。何故そんな遠回りをしているのかは不明だが。
「トライアングルも馬鹿じゃねぇ、暗示やら意味の分からねぇ規則に身動きの取れない円卓状態。ジェンガみたいな積み上げ方はしてない」
「隙のなさが売りです。ならばこちらも力づくではとても適わないでしょう」
「情報戦だ。いちはやく情報を得た方に勝機があがる」
人外の世界はトライアングルがルールだ。人外対象警察サンテイザはトライアングルの犬とよく言われるが、だとすれば狂犬以外の何でもない。この瞬間から、彼等には二大勢力の牙が向けられるようになったらしい。
まずは相手の城を崩しこちらで積み上げる必要がありそうだ。
「ほんなら、腹を割ってお話といきましょか?俺らは一か月前から暗示も解けとる。調査した結果、『先代の世界』、この異常事態かつ世界の危機が『二度目』ってことが分かったわ」
「二度目?」
「それで言うと、トライアングルは組織として最大の歴史を誇る。今のこの世界の歴史が積み上がる前から存在しているのさ。信じがたいのは僕らにもよくわかるが、信用できる情報筋を最大限駆使した結果がこれだ」
「無論トライアングルに接点のない情報網です。知る人ぞ知る、と言えばいいでしょうか」
「少しでも怪しい素振りを見せた奴は全員消したから安心せぇ。その過程で極限まで絞り込んどるからねぇ」
「二度目はそのまま、歴史が繰り返してるってこった。勿論人ビトは変わってるしどこまでなぞってるかわからない。が、今みたいに一級と壱鬼先代が世界の核に忍び寄る危険を察知し、全てと引き換えにこの世界そのものを救った。そして、それ自体があらゆる歴史から完全に消去されている。恐ろしいもんだぜ、ここからわかるのはトライアングルのしぶとさ、人狼が世界のなら”この世界”の蓋世だ」
「事の詳細は一切不明。これが僕ら壱鬼の限界でした。質問はありますか」
愕然と鬼達を凝視するしかなかった。話を聞いている内疑うことすら馬鹿らしくなってきて、まるで知らない場所に放り込まれた子供のようである。こういう展開は映画や小説で何度も見たことがあるというのに、本当にそのシナリオ通りだ。目を見張り不審がる人間とは経験が違うにも関わらず、していることは全く同じである。平和ボケし過ぎただろうか。かと言って慎重さを見失えば元も子もないが。
「話ちょっと違うけど、ジョーカー・フェイリカって……」
クオンのもっともな質問に楽刻以外は今更気付く。この最年少二人は百年前、トライアングルに所属していない。
「ノイズの幼馴染で元協会トップ2。クロヴンとか夜行サンははともかく、ここにいる全員が束になっても敵わねぇな。悪魔の直感が異様に鋭くて、あとノイズと似た仮面。関西弁で気性も穏やかだったけど……。朗らかに過激なとこはあった」
「柔和な笑顔でグロイ事平気で言いよる。怖いで、敵に回したら。地味にサイコパスやからな」
「そ、そうなんだ……壱鬼方は何か?」
「さぁ?あんま関わりないからな。しいて言えば策士で有名だな、コッチじゃ」
「それは耳にしたことが。協会へ助っ人に行った仁鬼達のいい土産話です」
彼なら十分ありうる話だ。力があるだけでなく勘が鋭く聡明、サイコパス染みていつつ性格もいい。そんなジョーカーの思考回路は毎度想像の斜め上をかっ飛んでいくのだ。ただ完璧な策略家、抜け目のない悪魔だった。
甘音が緑茶を注ぎ、良い香りと共にゆらゆらと白い湯気が立ち上るのを眺める。やけに慣れた手つきだ。唯一の違和感はしれっと中華服であるということくらいだろうか。その奥にはウルがそろそろ日も当たりそうな縁側に座っていた。まるで眠っているかのようにじっとして、仄暗い明け方の空を眺めている。
ふとしたようにライベリーは話を元に戻した。
「……全てと引き換えってマジの?」
「お~、まじまじ。空っぽの世界に何の価値があるんかは俺にゃわからんねぇ」
「その中でトライアングルは組織を維持しています。弱体化はしたであろう、しかし今までに崩れていません」
「どうやって残ったの?全部ってことはリセットじゃん、初期設定とか世界単位で組み込まれたものしか残らないと思うけど……」
「この世界自体にトライアングルが必要……ということかい。とすれば、過去の状態は引き継がれないはずだよ」
「冗談じゃないわ。それで言ったら、トライアングルこの世界の歴史を再構成してるんやろ……!?そんなんありえんて……」
「とうとう神様も退職かな?いずれにしろ、このままだと確実に歴史を繰り返すことになる。僕らに生贄は似合わないよ」
「神様はいるよ」
静かに呟かれた言葉に、彼らは無意識に振り返った。夜がうっすらと消えかかっている空はうすら寒く、吹き抜ける風が獣の吐息のように生温い。ウルはこちらに振り向きもせずただ独り言を零すように言う。
「カミサマはいるよ。世界にひとつ、修復者として世界における神の区域に存在している。世界に綻びが出る度に繕い、その身が狂うまで躰にツギハギを纏い続けるんだ。効率的とは言えないけれどこれが典型的な神の在り方」
「修復者……。それが何で今はないのかな?」
夜行の問いにウルはこちらを見た。その右目は相変わらず色がなく、左右で別人のようだ。
やはり、とライベリーは眉をひそめる。そのシルシは真正だった。
「僕だけの有限があるんだよ。人狼の力はこの世界でも一定のラインまでしか使えないし、神域への路がそれを遥かに上回っている。修復者は恐らく、世界を繕えない状態にあるんだよ。僕らの邪魔になるようなことなんて絶対しないから」
「何かが背後に?世界を制限……干渉できるチーターはアンタら人狼くらいじゃねぇの」
「そうでもないよ。世界を渡ることのできるヒトなんて腐るほどいる。この世界が珍しいくらいかな」
目が反応しない。これも真実だ。彼ら自身も不思議だった。何故こんな戯言を真に受けて淡々と話しているのだろうか、と。
「そもそも……僕がここに来たのもそこに関係しているんだ」
「神域に入れんことか?」
「そう。僕は少し前からこの世界を調査し始めた。動機はあの大穴だよ」
アビス、盲目の入り口だ。思い出すだけでも鳥肌が立つような、嫌悪感と言うより違和感への拒絶だった。
「トライアングルによるとマガには魂が存在しない。けど、世界の至る所にある大穴には正真正銘のマガの魂が大量に溜まっていた。そこから調査し始めて修復者の妨害に気づき……五百年前の大厄災を調べたんだ。結果、トゥルーの脳内は意識が混濁していて誰かに操られているような状態にあることもわかった。あの大穴の光は何かのカラクリみたいなものらしい。ただ奇妙なのは、彼は自分の意志で動いているんだよ。彼じゃない気配も意思もあったけど、純粋な彼の意思もあった……。それから紫暮のこと。彼には魂がない」
「死んでいるのかい?ならあれは一体誰だと……!」
「紫暮だよ。『形骸化した魂の巣窟』、マリオネット。魂がない状態で動くモノの事をそう呼んでいる」
淡々と述べられた事実に彼らは絶句する。魂は原動力、そして記憶と意識の融合した命そのものだ。それなくして生命活動を続けることは天地がひっくり返ってもあり得ない。
彼は元特鬼だ。魂つまり命がないということは、半永久的な活動状態が約束される。彼を殺すことが叶うかどうか、だとしても特鬼の座に座っていた男なのだ。
「マリオネットは他にもいるの?そんな話ぶりだったけど」
「いるよ。そのほとんどはマネキンみたいに静止しているし明確な意思もない。立つ死人だね」
「そのマリオネットは一体どうして生まれたんだ?誰かの発明か」
「恐らく。いずれにしろ、君達には強大な敵が多すぎる。君達がこの世界を救うつもりなら僕は全面的に協力するし、必ず守るよ。けどさっき僕が言ったことも考えて欲しいね」
無表情のままそう告げる。落ち着いた声だった。
『裏切り、偽り、在り方を変え、信念を捻じ曲げ、フィルムの混濁を飲み込んだ上で……この世界を、救うかい』
そうまでして救いたいの、という最終勧告にも思えた。少なくとも彼らにはそこにウルの意思を感じることができない。そもそも人狼と言う存在に不慣れな八人が彼の思考を読み取ることなど到底不可能なのだ。
しかし、もしその言葉が『最終勧告』であったのなら、今の発言は一体何というのだろうか。引き返す道を示唆しているような態度に微かな疑問を感じる。ウルは、本当は彼らに動いて欲しくは無いのではないか?
悩ましいこの問題に人知れず眉間にしわを寄せる。自分の目が反応するのは姿形と発言だけだ。思考回路に踏み入ることはできないので、誰かがウルに質問をしてくれなければ見逃してしまう可能性がある。
「……もしその全てに飲み込まれてしまった場合、僕達は世界を救えますか」
単刀直入な楽刻の問いにウルは微笑む。大袈裟なまである、わざとらしい笑顔だった。
「救えるよ。その後生き続けられる保証はないけどね」
「そうですか。それは人狼である貴方の力があっても不可能と言いますか」
遠慮のない言葉にしかし、彼らは何も言えなかった。世界を盾に問い詰めるこの卑怯な真似を好都合と捉えている。しかし、ウルはそれを気にもせず答えを述べた。
「不可能だね。世界の中における人狼の力は限られている」
「それでは先程の言葉と矛盾していますが」
再び静かな沈黙が降りる。この人狼を信じていないという確かな宣言だった。
信じろという方が無理がある。こんな手の込んだ戯言はともかく、いくら人外と言えど彼は非現実的な対象だ。それが次々と常識を引っくり返し、煩わしいながらに唯一の居場所であるトライアングルを批判する。
確かな証拠の元、そして鬼に至っては彼の言う前から動き始めていた。これだけなら言うことなどとても無いが、こちらには世界の崩壊という重荷がある。
やがてウルはそっと目を閉じ、独り言のように言った。
「僕の守ると君達の守るには相違がある。根本的に守る保証はするよ、けど表面的に守れるとは断言しない。ただ、望むなら君達を殺すことも忌避しない。望まない限りはしないけどね」
楽刻の目の奥にはまだ冷たい炎が燃えていたが、それ以上は何を言っても無駄と踏んで頷いて大人しく引き下がった。
少しも経たないうちに、キセル片手の夢ツが口を開く。
「難しい問題やねぇ、核が狙われとんのならそれだけで今こんなんなってるんやろ?」
「ちょっと違うかも。核の周囲をアビスを通じてマガの魂に囲われているから、その影響だね」
先ほど世界中にあると突然言っていたが、どうやらそれが網目状に複雑につながり核を包囲しているらしい。
「魂自体を消滅するのは?」
「できない。これも有限の範疇だし、それだけの力が敵にはあるということになるよ」
「じゃお前、手紙の『治癒の音の手』ってわかるか?心当たりとかある?」
甘音の台詞にウルは目を細める。笑っているようにも見えるが、穏やかな顔だ。
「多分、バグのことだね。バグ・プライザー、裏社会の最高医だ。オリアビは『超音波』、コレが音だね。最も高い技術を持っていて心身どちらも対応可能、ただ対価は気分次第になる」
「気分?」
随分と曖昧な表現にライベリーと甘音が眉をひそめる。理由はともあれ、金銭には敏感な2人だ。そんな気配を察したのかウルは苦笑いする。
「金じゃないよ、その時持っている何かを要求されるから。時には命もありうるけど、僕の友人でもあるからソレはないし」
「友達なんだ。医者なんでしょ?治した後に命要求するってなんか矛盾してない?」
「さぁ……ただ根はいいヒトだから、余計なことしない限り面倒見てくれるよ」
そう言うと、ウルはどこからともなくスマホを取り出して言った。
「バグの連絡先送ったから、あとで確認しておいて!件の話はもう伝えてあるし、信用できるかは君達で判断したらいいよ」
さっきとは打って変わって、可愛らしくにっこりと笑う。まるで1輪の小さな花が咲いているようだ。
「送ったって……お前な、連絡先交換しとらんやろ」
呆れ顔でスマホを取りだしたノイズに彼らも釣られて笑みを零す。全くもって、人狼とは計り知れないものだ。そうして漂い始めた緩い雰囲気に、彼は更に加担する。
「基本返事は無いけど、送ったら大抵見てると思うよ。会話以外で返事来た時は相当な事が起こってるから、念の為に直接訪ねた方がいいね」
「そうなの?ウル結構前から友達なんだ」
随分と詳しいウルにクオンは素直に呟く。そんな2人の会話を聞きながら、各々スマホを確認した。
確かに、知らないヒトが連絡先に追加され更に連絡先が送られている。インターネットの海を支配できる能力である。
「炭酸水?ネット上の名前かい?」
「わかりやすいでしょう?好きだからね、炭酸水」
「それもそうだね。珍しいね、炭酸飲料でもなく」
随分と物好きだ。長寿の間でも炭酸水好きはあまり聞かない。
「あぁ、それと夜の1時から3時までは彼を訪ねたらだめだよ。ちょっと特殊な仕事があるから」
「はーいよ。詮索せん方がええかな?」
「う~ん……あるヒトは丸1年蜘蛛の姿で過ごしたね」
その台詞に、彼らは笑い声をあげる。
「そりゃあ最高医だな。医療部が喉から手が出るほど欲しがる人材だぜ」
「その医者に、これから暗示の解除薬投与してもらいに行くよ。免疫もつくから、鬼達もね」
「えぇなにそれ、めっちゃ凄ない~?」
暗示と言えど、今まで散々担がれたトライアングルお手製のものである。それを最高と言っても一介の医者が解けてもいいのだろうか。
「解除って言っても完全じゃないんだけどね。薄れていたり、何らかの理由で未完成じゃないと解けないよ」
「僕らは解けるのかい?暗示については触れたことがないが」
クロヴンの問いに、立ち上がったウルは軽く頷いて言った。
「解けるよ。君はあまりの長寿で風化してるし、ライベリーはそもそもかかってなくて認識してるだけだね。クオンは教育課程を遂げてないから未完成、ノイズは解けている。ジョーカーが離反した時、解いてくれたんだろうね」
「え、俺かかってねぇの?」
衝撃的な真実を告げられ正直に驚く。話を聞く限り学生の頃に徐々に染められるようだが、確かにライベリーは幼少の頃の記憶がない。
ノイズと言えば色んな意味で追い打ちをかけられたようなものだ。割と深刻そうな顔で黙っているが、単純にジョーカーに苛立っただけだろう。
「ウルさん、今更ながら暗示の内容は何なんですか」
「君達のよく聞くワードだよ、『協会は、防衛本部は絶対である』。聴き馴染みあるでしょう?」
日常的に聞いてきた言葉だ。彼は彼らの知る”いつも通り”の声でそう言ったが、あれが暗示なんて誰も思うはずがない。
自分の中で信用していたものが一気に、確実に腐って崩れてゆく。ぼろぼろと涙のような感覚が蔓延る胸の奥に残ったのは、今ここにいる『仲間』だけだった。
△▼ △▼ △▼ △▼ △▼
ウルに連れられ、八人の人外が明け方のカンタベリーの街を歩いていた。人が少ないとはいえ鬼達は角を消し、悪魔も目を人間のものに変えている。両者とも人間の私服状態だ。
「やっぱ鬼も着物じゃないんだね」
「アレ、毎日は現代人に優しくない。こっちの方が楽だから……」
「着付け動画とかあるしね、でもめっちゃオシャレじゃん!」
「そう……?」
いつの間にか仲良くなった最年少二人を眺めつつ、大人達もそれぞれ交流を深めていた。後ろ暗いことなく純粋に接点を持てる二人が羨ましいものだ。
「へぇー、意図せず似たもんだな」
「だよな?人外集合するとアホと飼い主に分かれるもんだ」
「形骸化した、と言うのが腑に落ちるね。魂のないもぬけの殻、がらんどう……」
「紫暮は記憶も意思も保持していたようだけど、何か未知の物質を原動力としているのかな?」
「仮面も関西弁もタバコも被っとるん奇跡に近くない?最早ぼやく気もせんて」
「世界ってのも狭いわなぁ、俺らはアルターエゴかっての。あっはは~!」
「おいお前ら、兄バカを忘れんな」
「あと二刀流な」
そんな八人の様子を聞きながら、ウルは先頭を歩いている。会話を耳にしつつ陽の当たる大通りから狭い裏路地へと進んでいった。
一軒家と一軒家の間、ひび割れたアスファルトや石畳の混在した道。足場は悪く、足を運ぶたびに砂利を踏む音がした。見上げた空は狭く余計に薄暗さが増していく気がする。
黒ずんだ壁、時々鼻を掠めるタバコの臭い、早朝の割にぬくい、もわっとした空気。
「あっつ……」
「キンッキンに冷えたお茶でも作ってきたらよかったな」
空気の通りが悪いせいか、大通りとは比にならないほど湿気た風が彼らの頬を撫でて過ぎて行く。冬になれば、きっと凍えるような寒さになるのだろう。
「わー!わぁああ~……」
突如頭上から響いた底抜けに明るい声に、彼らは反射的に顔を上げる。
何もいない。黒い電線が空に走っているだけだ。
「……?ウル、この声は何だい?」
「今は気にしないでいいよ。もう少し響くけど」
しばらくその感嘆か驚愕の声は続いた。物珍しそうな、そう、子供が新しい玩具を見つけたような。
風が徐々に冷えてきた。石畳が消え、砂埃が酷いアスファルトの道が続く。その向こうは暗闇で、まるで町全体が廃墟のように見えた。ざらざらとした壁は次第に狭まり、しかも薄ら寒いような気がし肌をさする。さっきまでの熱風は何処へいったのか。
ガタン、と上の階のガラス戸が音を立てて開いた。当たり前のように真っ暗で、誰もいない。何かがこちらをじっとうかがっているような気配もするが、そのまま無視して進んだ。
不意に背後から砂袋を叩きつけるような音がした。それは次第に大きくなり、速度を増していく。まるでこちらを追っているように。
しかしウルはそれにも反応しなかった。仕方なく彼らも彼に従い、それがどんな結果を招くかわからずに歩き続ける。
その音は中途半端な位置で止まった。
がたっ がたっ 後ろの窓が開く。振り返りはしない。
ドンッ! バンッバンバン ドンッ
すぐ横の壁が、通り過ぎる度に打撃音と振動を繰り返した。殴るような音だ。それは数歩遅れてやってくる。
ガチャッと陶器が割れる音も混ざり、それはいきなり止んだ。
執拗に彼らを脅かす異変に警戒しつつも、下がっていく気温で鳥肌が立った。風の音と、追いかけてくる窓と壁の殴る音に耐え忍ぶ。
「……寒いね」
「せやな。大丈夫か?二人とも冷えとらん?」
真冬とまではいかずともこの風では、体が小さい二人は冷えやすい。ウルは角を曲がりもせずただ真っ直ぐ進む。
「確かに……寒いよなぁ、何かおんの?」
「いるとしても上じゃないかい?さっきからずっと声がするじゃないか」
夜行は目を光らせ空を見上げるが、特に異変は見つからなかったようで肩を竦めた。
声が響く。頭上で木霊し、そこから降って来る。
___……ふふっ。
その囁きを合図にウルは歩みを止める。つられて彼らも立ち止まり、いつの間にか空が黒く染まっていることに気づいた。夜でもなく、墨のような色だ。
「お久しぶりね、ウル。ご機嫌いかが?」
可愛らしい少女の声がこの空間では不気味なものだった。それが含み笑いと重なって聞こえてくるのだから、なおさらだ。
「こんにちは、イヴ」
べちゃ
湿った音が響く。頭上から、生温い空気が浴びせられた。
視界の端にピンクが見える。スーパーで販売されている、牛ステーキ用の肉みたいな色。
「今日はお友達がたくさんいるのね。何処へ行くの?」
話すたびに、腐臭が鼻を貫く。嫌な臭いだ。頭上からガスのように降りる腐った空気。
死臭。
「バグのところだよ。例の薬を投与する」
またべちゃ、とすぐ左から音がした。触れられるほど近くに、甘音の肩に生暖かい空気が伝わる。甘酸っぱい腐臭が濃くなり目や鼻を刺激した。
ゆっくり強張った視線を左に向ける。
肉があった。
大きな手だ。テレビのモニターほどある。蜘蛛の糸のような細い肉が絡まっていて、固形物のはずなのにどろどろして気持ちが悪い。これが腐臭の原因で、”イヴ”の正体らしい。
「あらそうなの。思ったより早いわね」
「そうかい?君はどうしたの、イヴ」
「大人数の気配がしたから、気になって見に来たの。まさかアナタ達だったなんて!素敵ね、いい巡り合わせだわ!」
べちゃべちゃと音が降りてくる。手を壁につく音だとしたら、一体どのような容姿なのか。蜘蛛のような人型の肉塊を想像しゾッとする。じっと突き刺すような視線を感じた。
「……ウル、このヒト達はココじゃお喋りできないの?」
「残念ながらね。死屍領じゃ喉が詰まるのが普通だよ、無理もない」
「そうなの?……いいな、お友達いっぱい。羨ましいな……」
話せない。さっきの言葉で初めて気づいた。
喉が詰まるが、呼吸はできた。腐臭が濃すぎてままならないが、興味本位で上を見上げる気にならない。
何故なら、ウルも決して”イヴ”の方を見ようとしないからだ。
暗い。夜でもなく、巨大な肉塊の影が覆い被さる。
「……いいわ、今回も案内してあげるね。でも、その代わりに……お友達、ひとり頂戴?」
べちゃっと耳元でした音に心臓が震えた。生暖かい温度、獣の吐息がすぐ頭上から降る。
そもそも、友達と言うものをやるやらない云々言っている時点で彼女はこちら側のモノでない。案内ということは、ここはウルが言った『死屍領』という空間あるいは領域らしい。
異様なまでに静まり返った裏路地は、今は風の音と甘い腐臭、生暖かい空気に支配されていた。全身の産毛が逆立つほど気持ちの悪い気配。すぐそこに”イヴ”がいた。
声が出ない。手で喉を抑えてみても、掠れた空気が漏れるだけだった。
「だめだよ。またお人形を買ってくるから」
「……」
”イヴ”は黙っている。
「……外の写真撮ってきてもいいよ」
「……」
”イヴ”は黙っている。
「……お花買ってきてもいいよ」
「……」
”イヴ”は黙っている。
「……画材買ってきてもいいよ」
べちゃ、と音が更に近づいた。
「……いいよ。お友達は諦める。目を閉じて」
真上で声がした。絶え間なくべちゃべちゃべちゃと音が響き、腐臭と共に幾つも重なって急降下してくる。
ウルを見る。彼はこちらを振り返りもせず、
粘ついた大きな両手に引き上げられ、消えた。
「……!?!?」
臭いが濃くなる。甘酸っぱい、腐敗した死体特有の臭い。
「目を閉じて。じゃないと案内できないの」
ウルは?
躰さえも、今は動かなかった。金縛りにあったように強張っている。閉じていいのかもしれない。でも、彼女のさっきの発言からとても信用はできなかった。
湿った音はまだ続いていたが、直ぐ近くの音は止まる。その代わりに、黒いガソリンのような液体が足元に落ちた。
『目を閉じてってば。閉じて。閉じて。閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じて閉じろおお”お”お”ぉ”ぉ”お”お”オ”オッオォぉぉおぉお”あ”あ”あ”ア”あ”あ亜ア嗚呼”ぁ”ぁ”ぁァ!!!!』
喉が潰れたような大絶叫に思わず瞼を閉じる。耳をつんざく叫び声は止み、胴体を冷たく弾力のあるモノに強く掴まれた。何か反応を起こす前には足が地面から離れ、無重力状態に陥る。臓物がフッと浮き、続いて冷たい風が強く当たった。
手が離れたと思えば、ぬくい夏風が香る。
目の前には、明け方の空を背景に廃ビルが建っていた。
△▼ △▼ △▼ △▼ △▼
「なッ……い、今の何なん?肉塊みたいな」
「喋れる……ウル、死屍領って何だい?」
衝撃が大きすぎたためか肩で息をする彼らにウルは苦笑した。
「イヴは管理人だよ。死屍領っていうのは生死の狭間にある空間で、存在するモノのほとんどが腐敗している。イヴは元は11歳の少女だったんだけど、事故で昏睡状態に陥って何故か体の腐敗が進行した。意識だけがあそこに残されたイヴは独りぼっちになって、あの状態に進化を遂げたわけだよ。だから友達が欲しいんだね、きっと」
「進化……?人の仔があんな状態になるものか?」
「子供だからだよ。純粋すぎて、あらゆる手段を拒まない」
そういう彼の表情は優しく、とてもじゃないがさっきの台詞とマッチしない。そんなウルに呆れつつ、そして何故そんなことを知っているのか聞く気も起らず眼前のビルに目をやった。
縦に細長い五階建てのビルで、左右には明かりがついていたり花が生けられていたりと、まだ人の住んでいる様子が見受けられた。ウルが入っていったビルは煤けており、どうやら今は無人の廃墟と化しているらしい。
黒ずんだ廃ビルに踏み入る。僅かな白い陽光が差し込むも、頼りないどころか余計に心細く思えてきた。
入ってすぐにエレベーターがあり、しかしそこにウルはいなかった。中を見渡すと左奥に階段があり、そこから硬い靴音が反響して聞こえる。エレベーターは故障しているようなのでその足音を追うことにした。長いこと放置されていたのか、歩くたびにざりざりと音がした。砂や埃が溜まっているらしい。本当にこんなところで医者をしているのかと思うと不安要素が増えるばかりだった。
「広いね、がらんどうで」
「……廃墟は苦手」
きゅっと胸の前で袖を握りしめる楽刻の横にクオンはぴったりついて歩いていた。階段は狭く、二列でぞろぞろと登ってゆく。
二階に着いたところですりガラスの扉を見つけたのでノブを回してみたが、暗い廊下の奥にウルはいなかった。
「いないね。三階かな?」
「うわっ蜘蛛の巣あるやんけぇ……」
「夢ツ重いしがみつくな。女子か?」
「初めて夢ツサンに共感できたわ俺」
階段を上る。踊り場には煤や蜘蛛の巣がこびり付いた窓があり、そこから微かに光が漏れていた。舞う埃が雪のように煌めき、帰宅後洗濯機の使用に頭を悩ませる光景が容易に想像できる。
「もう朝か、えらい早いな」
「空間の時間と心理的な時間には差が生じる。死屍領に行ったとき時計も狂ったみたいだ」
言われて見てみれば、腕時計の秒針がぐるんぐるん回転している。これは買い替え必須かもしれない。
続いて三階にも扉があったのでドアノブを引いてみる。
「……あれ、開かないな」
夜行が何度も捻って引っ張るも、扉は頑として動かない。ココじゃないのかも、と引き換えしたところでガタンッと重い音がする。
「……開いちゃったわ。ウルいなかったけどな」
「ライベリー……これどうするの?管理人いたら怒られるよ。不法侵入と器物損害で」
「逆によく現代の建付け突破しましたね?どういう筋力してるんですか」
苦笑いするライベリーに最年少は眉をひそめる。彼は力業で扉を穴に当てはめ、そのまま証拠隠滅を遂行してしまった。
また階段を上る。
今度こそと扉を開き、しかしウルはいなかった。
「五階?ここまできたら最上階ありえんな」
扉を閉めながら呟くノイズに一行は深く共感して頷く。ドアノブまでもが見事に煤けており、やはりここで火事があったようだ。火元はこの階らしい。
また階段を上る。踊り場の窓ガラスには大きな蜘蛛の巣が張っていて、そこに大きな青い蝶が絡まっていた。すっかり死骸となってしまっているが、家主もいない。なんだかその蝶の羽がとても綺麗に見え、クオンはそっと手を伸ばし蝶を巣から外してやった。
「アオスジアゲハ……」
楽刻は横に突っ立って、窓枠に置かれた蝶を眺める。日に透けたその羽の模様がまた美しかった。
「大丈夫かい、二人とも」
こちらに気づいたクロヴンが階段の上から呼びかける。二人は彼らを追いかけて階段を上った。
扉を開く。やはり、ウルはいない。
「やっぱり最上階かな?行こ、楽刻」
「うん」
立ち止まった次は先に先にと進む二人にを微笑ましく眺め、残った大人達はゆっくりと階段を上がってゆく。
そういえば、二人は立場もあって同年代の友達もいなかった。彼らからすれば、多少どころかもっとはしゃげという気持ちである。
「子供って元気……俺もう階段嫌いなりそ~やもん~」
「腹減ったな、今何時?」
「五時だね。そういえば、君達鬼は食事がいるんだったね」
悪魔よりかは物理的な種族である鬼は、人間と同じで睡眠も食事も毎日必要だ。勿論栄養バランスやらも絡んでくる。
と思えば、上から二人が駆け足で戻ってきた。
「お、どうだった少年」
「いなかった。もしかしたら、廊下のもっと奥にあったのかもしれないけど」
「そう思って見てきましたが。下の階かもしれません」
そう言うなり、二人は彼らを横切って階段を下っていった。珍しいこともあるようで、本当に子供のような楽しそうな顔で階下へと進んでいく。
「……全部見回りしてくれそうだね。僕らはゆっくりついて行こうか」
「賛成するよ、空腹にこの労働はきついかな……」
「ご老人やん?」
言いつつも全く急ぐ様子がない。しばらくそうして雑談をしながら最年少達の報告を待っていると、やがて階下から急ぐ足音が聞こえてきた。
「んぇ、見っけた?早くない?」
「あった!見つけた!」
「三階にありました。白い看板に『Dr.B』と」
カンカンと靴音を響かせて、わざわざ二人は目の前まで上って来る。こう思うと、二人は二人ながらに彼らに懐いていたのかもしれない。何処か子犬を想像させるその姿に、顔が勝手に微笑む。
「はいはい、じゃ行きますか……」
「調査ご苦労さん~、飴ちゃんあげるわ~」
「さっき自販機でジュース買ったから一緒に飲み」
二人は喜色満面で夢ツとノイズに駆け寄り、報酬を貰っていた。
「あっれ、三階って俺がぶっ壊したとこか。最年少こえぇ~……」
あのまま力づくで直したのを、二人は破壊して奥を見てきたらしい。
「よくやるねぇ、元気でいいわ」
「最年少が僕より大人びていたからね!クオン君とは是非、これから先も仲良くしてもらいたいものだよ」
流石のナルシストもクオンに完敗を認め、熱くなったのかカーディガンの袖をまくる。確かに、階を降りるにつれて気温が上がっていく気もした。今は九月後半で涼しさが顔を見せるもすぐ引っ込んでしまう時期だ。
「あの調子なら大丈夫だと思うよ。ほらご覧、関西組が天に召されている」
ひとまず二人の兄バカを放置し階段を下りていく。三階には、確かに扉が……なかった。
「え?あれ、扉何処だ?」
付近を見回すが、壁と言う運命共同体から二回引き剥がされた哀れな扉は見当たらない。別にこだわりがあるわけでもないので、そのまま廊下を進んでいった。意外なことに床は割と綺麗で、壁もさっぱり拭かれていた。こんなところに住んでいる割にまともな衛生観念はあるらしい。そりゃ医者だしな、と勝手に納得して突き当りを曲がろうと思った。
「おや。これ、扉じゃないのかな……?」
「まさかここまで吹っ飛ばしたのか?ライベリーじゃあるまいし、どうして」
「あ?お前らか。さっきのガキ共の保護者は」
不意に聞き覚えのない声が背後からし、驚いて振り返る。そこには、白衣を纏ったツギハギだらけの白髪の男が立っていた。
「ウルが連れてきたのお前らだろ。さっさと入れ、注射器手首貫通させるぞ」
有無を言わさぬ妙な迫力に気圧され、フランケンシュタインであろう彼に部屋に通される。中を見渡すと、部屋奥のデスクの椅子に少年が座っていた。
「あ、ウルじゃないか!やっぱ先に着いてたんだね」
声をかけると、ウルはこちらに振り向いてにっこり笑った。
「お疲れ様。ごめんね、ちょっと用があったから」
「ええよ~、逆にここまで辿り着くまでにおもろいことあったからねぇ」
いつの間にか追いついてきた関西組も揃い、部屋の奥に消えた医者を待つことにした。
室内は廃ビルに位置しているとは思えないほど清潔で、床には埃一つなかった。壁にはカレンダーや時計、化学式や謎の数式が記された紙がかけられている。
ウルの座っているデスクには大量のファイルと薬品の瓶が並んでおり、明るい照明に照らされてぬらりと光っていた。
ウルは何やら忙しなくキーボードを叩いており、勝手に使用しているところ古い間柄らしい。
「……よし、じゃあバグが入って行った部屋行くよ。八人もいたら調合大変だから」
「わざわざ人数分作ってくれるの?」
椅子から立ち上がるウルにクオンが尋ねる。確かに手間のかかるやり方だ。
「そうそう、特殊な薬だから。そのヒトの暗示のかかり具合で変わるものもあるんだって」
「へぇ、凄いな。俺だったら発狂するわ、やってらんねぇ~っつって」
そんなことを言って笑いながら、部屋の奥に入っていく。すると、机に向かって何かを書いているバグを見つけた。何か紙に書き留めては試験管に青い粉末を注いでいく。
「バグ、粉足りそう?」
「お~……う。3、いや4か。よし、あと一つ……」
ほとんど上の空で返事をするが、ウルはそっかと大きなソファに八人を促した。
「……それで?あのクソガキからの手紙だろ、何か聞きたいことあったら言えよ」
「ガキって。まぁ若いんかな、アイツ……で元気?」
「元気元気、超迷惑。安静を知らねぇ脳筋だぞ、どうなってんだ」
呆れ顔でそう言われ苦笑を漏らす。策略家が脳筋だなんて、聞いたことがないが彼ならありうる。
「そりゃよかったわ。そういやアニキ、何か言ってなかったか?俺ら宛に」
「おう、言ってたぞ。『死にたくないなら同盟を避けろ』、『連絡が取りたいのなら青いポストを探せ』だってさ」
「青いポスト?何かなそれは」
「知らん。自分で探せ、俺は医者だ」
ごもっともである。
「……薬って、その青い粉末が主成分ですか?見てもいい?」
興味津々な様子のクオンに目をやり、肩を竦める。
「いいよ、別に怒らねぇから勝手に見とけ」
案外すんなり受け入れたバグに、ウルの言う通り根はいいヒトだったらしいと少し驚く。楽刻もクオンについていき、二人で作業の様子を眺めていた。
「……見てて楽しいのか?」
「楽しいよ」
「楽しいです」
そう答えた二人にバグは苦笑いした。何が何だかよくわからない、しかも単調な作業だ。見どころなんてない。
「暇ってわけでもなさげだしなぁ。保護者共が一体どうなってんのか」
割と的確に心をえぐっていくが、裏で何やってるかわからない兄バカと比べたらマシだ。そう、たまに仕事を手伝ってもらうくらい。
ただ、理系頭脳の二人によくわからない科学の光景はいい刺激になるらしい。
「……バグさん、サングラスはなんでかけてるの?」
「視力ないんだよ。眼鏡似合わないって言われたから、改造した結果だな」
「左利きなんですね。書きにくくないですか」
「いや?慣れたもんだぜ、割と」
「その青い粉末は何で作られてるの?」
「お、それも後で教える必要があったんだ。思い出した、お前らしっかりしてんな」
「この計算式は何ですか」
「ん?あー……。暗示の度合いと粉末の割合と比例式って言えばわかるか?」
「わかります」
「うん」
「そうか。頭いいな、将来有望なもんだ。理系ならいつでも教えてやるよ」
「本当に?やった、ありがとう!」
「ありがとうございます」
……本当にいいヒトらしい。
しばらくその問答を眺めつつ大人は大人でウルと会話をしていた。
「なぁさっきの”イヴ”やけどな?あれお前おらんと、もしかしてお友達コースなる~?」
「いや、もう交渉が成立したから大丈夫だよ。ほら、怪物化してもイヴはもと人間だったわけで、聞き分けのいい子だから他人のに手は出さない」
確かに、彼女は交換条件かつ許可を求めた。いい子ではあるのかもしれない。
「何らかの理由で僕がいなくても、これからはちゃんと案内してくれるよ。可愛いお洋服とか好きだったから、姿を見られると捻り潰されるからそれだけは気を付けてね」
「あ、了解。なんか怖いから見んとこ絶対に」
「クロヴンとかも捻りつぶされんのか?ちょっと気になるんだけど」
「多分……頑丈なお人形の方が好きだから、寧ろ気に入られるんじゃないかな?テディベアの絵とか描いてあげたら許してくれるし」
「めっちゃ少女。俺イヴ誤解してたわ、趣味いいな」
「いい子だよ、あの子。バグの近くに棲んでるのも、定期的に相手してあげる代わりに野垂れ死にそうなヒトを運んでくれたりするからだしね」
あの腐臭でショック死しそうな繊細な人外もいるのだが、それはまた別だろう。あの時目を閉じて本当に良かったと心の底から安堵する。
しばらく経ち、バグが机から顔を上げた。
「はいできた。とりあえずそこのでかい悪魔、頑丈そうなお前から。袖をまくれ、手首出せ」
言われた通りにすると、手首に青い半透明の液体を注射した。特に何もない。
「はい終わり。どっか痛いとか言持ち悪いとかないか?異常は?」
「……ないね。大丈夫だよ」
「じゃ成功。次、そこの狐」
「んぇ。俺?」
「最年長だろ、大人しく実験台になれ」
「えーよえーよ、面白そうやん~?」
「何だお前、変なヤツだな」
「え」
そんな調子で途中甘音が嫌そうな顔をしたが、特に厄介事は起こらず無事に注射を終えた。
一方で八人連続注射を打ったバグは結構疲れたらしく、デスクチェアに背中を預けて深く溜息を吐く。
「あ~……疲れた、鬼血管細すぎだろ舐めてんのか。狂気の沙汰だぞ全く、あと……ウル、黒い棚の三段目から青いバラの袋取ってくれ」
「うん」
上から三段目の棚に手をかけるも、指しか届かない。背伸びしても届かないので、遂に浮遊した。
「すご。便利やない?それ」
ノイズの正直な感嘆の声にウルはにっこり笑った。そのまま地面に降り立つと、バラのマークの袋をバグに渡した。
「ありがとさん。お前ら、コレしばらく持っとけ。体調悪くなったら水と飲めよ、お茶ダメ」
そう言うと、青いラムネサイズの錠剤を三つずつ切り取って彼らに渡した。
「強力な代わりに脆い。あんま衝撃入れるなよ」
すると、クオンと楽刻が首を傾げて言った。
「これ、さっきの粉末と同じ色じゃない?」
「本当だ……」
その言葉に、バグは感心したように深く頷いた。
「そうそう。同じ成分が入ってるんだよ。人外の類の青いバラ、茎が赤いヤツ」
「そんなものがあるのかい?面白いね、生けたらまた違う趣がありそうだ」
夜行の言葉に花瓶に生けた茎の赤い青バラを想像してみる。趣も何もなく、ただかなり毒々しい。
「それは断るが、ソレは暗示に対してリセット効果を持つんだよ。ただ何にでも有効ってわけじゃなく、そこは研究中だな。なぁウル、赤はリセットだもんな」
「そうだね、オシャレだね」
「普通緑なんだけどなぁ?和むんだけどな」
「そうだね、でもそれじゃ治せないから仕方ない!頑張って!」
「っはは!まぁいいよ、とりあえずお前ら明日も来いよ。念のためだ」
機嫌の良さげな顔で彼らにそう言うも、甘音は僅かに眉をひそめる。
「そんなにするもんか?注射って……」
「あのなぁ……医者の言うことくらい信用しろって。相手はかの有名なトライアングルだぞ、油断大敵って言うだろ」
それもそうだ。これだけ用心深い医者が味方にいるならかなり心強いというものだ。黒い皮手袋をはめなおすグラサン装着の医者を見やる。黒のハイネックに清潔な白衣、ハーフアップの髪に光のない灰がかった黒い瞳。
怪しさと信頼できそうな部分が混在しているが、記憶が更に畳み掛けてくる。
「……で、対価って?」
その顔に疑いが滲み出ていたらしく、バグは苦笑いした。
「だからなんで俺はそんな信用がないんだよ」
そのグラサンのせいではないだろうか。
「今回は大したもんじゃない。初回は統一してんだ、ちゃんと俺の言うことを聞け。明日来い、錠剤割るな、水と飲め。あと体調悪くなったら必ず俺に相談すること。わかったか」
「了解……なんかすんません」
さっきの子供組への対応を見ていても思ったが、バグと言うこの医者は完全な常識人だ。ライベリーと甘音が求める救いの手である。
「あ、そうだお前ら初回か。一回その薬今飲め、副作用やばいの出ないか診るから。ちょっと待ってろ」
そう言うなりなんなり、バグは部屋から出て行ってしまった。すっかり取り残された八人は暇を持て余し、雑談を始める。
「……そういえば、クロヴンって塩酸好きだよね?もう薬云々なさげじゃない?」
「え?塩酸て飲料だっけか?」
「違いますよ甘音さん」
「え、鬼だったら誰飲めそうよ」
「圧倒的夢ツだね」
「無理やて、俺を何やぁ思てるん……?頑張っても10%よ?」
「まず飲めること自体どうなんですか」
「まぁそうだよな、毒物だからな?」
「流石の僕も遠慮するかな……」
「ええッ、そんな目で見んとって?マジで一体なんやと思っとるんよっ!?」
「「マッドサイエンティスト」」
「なんやねん!!!!」
「部屋に嫌にリアルな骸骨ありますし」
「花とか飾ってるくせに、目玉入ってる瓶並んでるし」
「爽やかな印象を全力ではねのけてるからね、生生しいものが」
「いやそれはっ……え?なんで知っとるん!?!?」
「マジ?そんなのあるの、こえぇ」
「リアルって……本物なん?」
「ノイズと似たようなものでしょ」
「おれはんな趣味あらへん」
「よしこっちこいノイズ、関西組の絆見せたれ!」
「でもなんか印象と違うなぁ、怖いな……」
「なんで!?ちゃうねんて、話を」
「慌ててるとき夢ツさんはよく口を滑らせますから。脅迫ネタが脅迫ネタ収集に使えるんです」
「へぇ、そうなの?」
「え、ちょっと変なのに目覚めんとってな?そこのお二人さん?」
「目覚めているのは君じゃないかい、夢ツ?」
「とんだ誤解ですわっ……!!」
その後水を持ってきたバグにやかましいと叱られ、薬を無事飲み終わり今までの詳細をひたすら語った。
ちなみに、その間にウルはイヴへのプレゼントを買いに行った。
『本来は、僕らは○○○○はいけなかったんだ。存在は免れても、軌跡は残ってしまうから』
死ぬまで息をする。死んでも徘徊する、迷い子の案内。
次回、土曜の22時です