31.駄弁る単眼
「メリュジーヌ、ボクの可愛い友人__おいで」
足音一つなく姿を表したのは、紛うことなきあの不気味な情報屋だった。湿気ったこの下水路でさえも妙に輝いて見えるその長髪は、さきほど去った天使を印象に残させる。彼らへの疑義は尽きることなく、未だ脳内のキャパの一部を占有していた。突然の再会にも関わらず再び物思いに埋没しかけると、あの声が思考の鬱屈を晴らす。
「やぁ、やぁ……元気にしていたかい?仔羊君」
彼の口元はにやりと裂け、目が合った気がする。突然の指名に一瞬言葉が詰まるが、何か言う前に肩にツギハギだらけの手が置かれた。
「お〜さっきも思ったけど相変わらず減らず口がご創建なようで。心配せんでも鉄壁の守り敷いとるから安心せぇや」
「おやァ?私を呼んだのは君達の方だろう、そんな邪険にしなくてもいいじゃあないか……ヒヒッ」
「んっはは、パーソナルスペース広くてなぁ。ついうっかり思わずナイフ出んだけええやん」
「ほう、獅子の子落としというわけだ。ヒヒヒッ!ついうっかり、思わず弟と親しむその子を……」
「おもろいこと言うやん。クオンはええねん、仰る通り”弟”やか__」
「はい、終わり終わり。クオンが困ってるよノイズ。宴も、そうやって年甲斐なく意地悪しないの」
幼児を仲裁する保護者のような目で二人の饒舌な皮肉を遮り、仕掛けた宴を軽く諌める。彼は何処吹く風といった様子で、というより壁際の錆びた柵に腰掛けると、彼自身の髪が風花のように動きに煽られた。
「まぁまぁ、健気な若い子が頑張っているのだからねェ。私も重い腰を上げて息抜きくらいさせてあげないと」
「クロヴンにもダメージ入るよ、宴」
「お前おると肩に力入んねん」
事実、彼が霧のようにふらふら近くにいると落ち着かない。可愛い可愛いクオンがいることもあって、警戒心が唸りを上げているのだ。クオンやライベリーはこの第三次産業商人に興味津々のようだが、ノイズの勘は何処ぞのカボチャの一件で裏付けられている気もする。
「……ねぇノイズ、僕は呼んだ覚えないよこのヒト。止むを得ずって聞けたら凄く嬉しいんだけど」
随分と低い位置にある頭が振り向き、にっこりと笑う。冷たい汗が額に滲んだ。
まあ予想はついていたが、これは……かなりご立腹のようだ。言い方を間違えると腹に一発食らわせられる。普段ならただ可愛いだけなのだが、肋骨を狙われると普通に折れるので少々不味い。流石のノイズも骨は鍛えられない。慎重に言葉を選びつつ、脳内で極力当たり障りのない台詞を構成する。
「えー……クロヴンに情報面で助力仰いだら、なんかデカい箱届いて、”アレ”が三角座りしてた……」
無理だ。情報屋の侵入経路は絶対問われる。案の定、クオンは妙に冷徹な表情に早変わりしウルも止めてくれなかった。
「不審者騒ぎにならなければいいと思ってる?これが浮謎さんじゃなかったら破談になるよ。トライアングルの権威濫用したら駄目じゃん、またクロさんに怒られるとヘイトに迷惑かかるんだから」
「アイツは大丈夫や、優秀な補佐官やから」
「しばらく有給取るらしいよ」
「……」
規則やモラルに対しクオンが真面目一辺倒なのもあるが、ノイズは協会を大いに困らせている問題児の一人。これでまだまともなのだから、ヘイトも大変である。
ちなみに任務課問題児の筆頭はヘイト本人だ。
くだらない話で少々息抜きを終えると、不意に空気が静まる。水滴が淀んだ水を穿つ音が幾重にも響き、ややあってウルが言った。
「ノイズ、宴を連れてここまで来たのはどうして?」
「__調査時間が惜しい。現地調査に付き合ってもらった方がアレも有効利用できるし、本人もお望みのようや。それと、神獣サマの居住エリアはやっぱこの地下水路やと。ただ……」
彼は一瞬言葉を引っ込めるが、小さく溜息を吐くと苦虫を噛み潰したような顔で続けた。
「空間がズレとる。今おる”此処”がまさにそうなんやけど、二重に誤差があんねんな……」
「二重?空間のズレって……まさか」
ノイズの台詞にクオンも勘付いたらしく、眉間に皺を刻む。
空間のズレとはすなわち、世界の重複。世界という存在は消して一個体の性質を伴わず、前々に述べたレイヤーとは別の概念の”層”がある。浅く区分すると、異形の世界や裏世界といった”世界に内在する独立した空間”(内在世界)、半無限に重なった俗に言う”パラレルワールド”(世界線)、その他微々たる”空間”(雑多世界)の三つがあるのだ。ちなみに人外達がアイテムボックスの感覚で使用している”空間”は三つ目にあたる。
今回の場合は一つ目の”異形の世界”といずれかが重複しているらしい。世界が切り替わった契機は、あの噴水と考えてまず間違いないだろう。
(ウルは……気を遣ってくれたのか)
クオンよりも、クオンのことを理解している。
「さっきも地上覗いたからわかるけど、一つ目は異形の世界やな。ホーソーン達はライベリーが回収してくれとるようやったし無視してきた。で、重複しとるのが恐らく雑多類」
「あぁ、そういえば此処だけ異形がいない……世界差で侵入できない?いやでも、異形は普通に通常世界に這入るし……」
「ふむ、まぁ君の言う通り”来れない”のだろうねェ。彼ら異形は怨念の塊だ__未練に執着するから、生存本能の代替品くらいある」
「此処を避けとるってことか?神獣の被支配域にゃ立ち入れんというか、忌避しとるんか」
「……神獣は地下水路から出ないのかな。にしては、噂の広まり方が異常だと言える。神獣が存在していることで、”世界”に影響を与えてるのかもね」
「それだとまんまマガの霧みたいじゃん。やっぱり、魔廻物の変異種とか……?そんなの前代未聞だけど」
神獣が普段此処にいると仮定するのなら、この説が有力だ。存在自体が何らかの絶対的な効果を空間に及ぼし、それを支配域と考えると……異形は排除される?
それに、アリスから齎された”蛇の形”という視覚的特徴は、噂には無いものだった。少なからず、彼の者は”通常の世界”には訪れないらしい。
__ならあの双子とはどうして邂逅したのだ?天使の御業か。
そんな疑問は一旦保留にし、己より遥かに賢明な大人達の話を静観する。
「情報屋、何か知らん?マガは目の無い無生物やが、それを管理云々している存在がそうとも限らんやろ」
「勿論。しかし、私は対価に見合う分しか提供できないよ……ヒヒッ、今回ばかりは少ぉし大目に見てあげるけどねェ」
訝しげな視線を意にも介さず、彼は小首を傾げて笑う。
「そうだねェ、君達の考察通り……神獣とか言う”アレ”は魔廻物で違わない。わからないかい?あの小煩い天使共が後生大事に抱えている、言語を操るだけの知能を有する存在!ヒヒッ、異形は確かに神獣を忌避するがねェ。”何故学園なんぞに集中しているか”、思い当たる節はないのかな?」
「__”被捕食者”か。異形も未だアイツに怯えてる……食事と住居、双子幽霊の仕掛けに…」
「一翼が二人いた。逃しちゃったけど」
「となると、成育目的?マガは無生物やろ。成長もクソもあらへんと思うけど」
……それが、ただの成育でなければ?
背中が薄ら寒くなる。緩みかけた緊張の糸が張り詰め、一つ目の言葉を待った。
「__無生物から、生命への昇華だ。神獣はその為に守られている。俗に言うマガは幼体、そして成体である神獣になると、存在自体の格が上がる。それも桁違いにねェ……夥しい瘴気を撒き散らし、半永久的にその場をある種の支配下に置くのさ」
頭を殴られたかのような衝撃に、ザァッと音を立てて血の気が引くのを感じる。存在しない心臓の鼓動から流れる血液は最早、酷く冷たかった。
「生命へ?ありえん、マガが意思……冗談キツいな」
状況の悪化ばかりが白日の元に曝され、悪魔は静かに絶句した。
マガの瘴気は森羅万象を空疎たらしめる、世界に非常に有効な劇毒。トライアングルの武器、研究課が尽くしに尽くしてきたあらゆる対抗措置、耐性のある成体人外の身を持ってしても数多の死者が出る大災厄だ。基礎的実力がある一級壱鬼一翼ともなれば大した敵ではないが、万一深手を負えば死は蓋然的。
死灰復燃の勢いを誇る人外の再生能力さえ牽制する瘴気、万物を形骸化させるそれに明確な対抗措置はない。
それを無条件に振り撒くマガと言えど、”意思を持たず生命の灯に引き寄せられるだけの雑魚”は雑魚に過ぎない。
人外であれば、誰もが一度は案じる虚妄の恐怖が今、戦慄となって悪転する。
「……神獣の討伐も、今の段階では不可能に近い。この際明確にしておくけれど、”先代”と君達には天地の差があるよ。彼らでさえ苦戦したという記録が__ノマドにはある。君達は死ぬ、確実に」
気遣うようなウルの優しい声が無情にも告げる事実。首筋に悪寒が走るが、既に感情に構ってやる暇はなかった。彼らができるのは頷くことだけ。
「せやろな……それも根本的な実力だけの話やないやろ。それこそ、瘴気無効化くらいのスキルは必須ちゃうん」
「その通り。僕が働きかけても微々たるもので、とてもね……それも随分前からバグが研究してる。既に試作品の臨床実験くらいなら可能じゃないかな」
「ならこの件は持ち帰るか。それで、神獣の正体がマガの成体__何か正式名称ある?」
「知られている名は”形骸者”。マガの瘴気の特徴から取ったものらしいねェ」
「けーがいしゃ?あぁ、形骸……その名に足る力があるってことか」
形骸すなわち、外見上だけで中身や実質の伴わないもの。
転じて、この世界では物理的な虚無を指す。
「何らかの形で瘴気が強まっているんだろうね。ただ、此処に__あくまで件のベクトルで__空虚は感じられない。幼体ではただ溢れるばかりの黒霧を、今では制御できるのかもしれない」
「この場で蔓延らないのは、天使も侵されるからじゃない?側仕えがいないと形骸者も動きづらいだろうし」
「その線が濃いかな……」
”神獣”の輪郭が随分明確になってきたところで、ふとノイズが呟いた。
「__そういや、オトマーって知っとる?」
「えぇ?知ってるけど、何で今」
思わぬ名を尋ねられ、嫌な予感に背後に振り向く。彼は明後日の方向を凝視し、険しい面持ちをしていた。
「ホーソーンがライベリーに生存者、というか迷子訊かれたときにな。アイツの叔母が問題児寮主任や、なんや監視でもつけとんのか思ったんやけど」
「そういえば、クオンとロンドのフィルムを切り抜いたときに……」
オトマーが許可証を分捕った記憶。マリンと同じ方法で、合法的についていくなどという旨だ。それを彼らに伝えると、想像通り悪魔は眉をひそめた。ひっそり口角を上げるにとどめたが、ウルの後ろで髪を弄っている宴は小さく笑いを漏らす。
(……似てる)
「確かに監視目的もありうる……ノイズに聞くまで叔母の情報もなかったし、巧妙に動いてるな。多分独断じゃない」
「前に爬虫類ってか蜥蜴忍ばせとる生徒おった言うたやろ?アレと話しとる様子もよう見たわ。バッジ赤やったで」
「クリムゾン寮のことなら、ルークに聞けるかな?あの人、伝手にするにはなんだかリスクが高いというか……怪しいってミーニングは伴わないんだけど」
「ん〜、おれも喋ったことはあるけど確かにお勧めはできんかな。まぁそっちはおれもまた調べとくから、心配せんとき。でウル、オトマーには?」
「見てるな〜、とはね。本筋とは大分ズレてそうだったから無視したけど、見ておこうか」
「いや……そこらはライべりーとクロヴンに任せるわ。情報屋的にはなんかある?」
「あることにはあるが、少々対価と釣り合わないねェ。ヒヒッ、追加料金ならツケでも構わないよ?」
「宴……」
ウルの呆れたような声音に、彼はまた笑い出す。きっと碌でも無いことを考えていたのだろう。
しかし、今日は言葉の端々に幽かな棘が感じられる。口調は変わらないが、表情が浮かない。それでも敢えて口を閉ざしたのは、彼の持つ独特な雰囲気に気圧されたからだ。
この男とは、表面上の付き合いで済ませた方がいい__悪魔の直感が囁く。
「ヒヒヒッ!まぁ、未来投資ってコトなら教えてあげても良い。そうだねェ、刺客にお気をつけ__反社会性パーソナリティ障害を患っている少年、ただの人間だ」
△▼ △▼ △▼ △▼ △▼
「いやぁ、参った参った__んふふ、間抜けな子は可愛らしい」
噴水の絡繰り?
それならどうして、ドロシーは起動する前に出てきたのか。
何故、眼前の噴水は赤黒い血に塗れていないのだろうか。
おかしくなって喉が疼く。静寂に逆らって、こみあげる笑いを天に放った。
「あっはははははは!!!!あーーー!!!ッははぁ、んー!馬鹿だ!……さて」
驚くほど澄んだ頭が、彼の笑顔を助長する。
おいで、とその手に小さな蜥蜴を這わせた。彼女は可愛らしく首を傾げ、友の言葉を促す。その黒が混じった深緑の頭を指の腹で撫でてやれば、漆黒の舌が伸びた。
「いい子、お前はいつも賢くて気高いねぇ__行け」
瞳孔が細められる。
彼女は身を翻して、指から地面へ垂直に身を放つ。
小さな体躯が落下するとともに、黒蛇へと変化した。
繊細な体表が銀に輝く鱗に成る度、肉が灼ける音と黒い煙が生じる。
彼女は徐に頭を擡げ、滑らかな動きで冷えた床を滑る。艶やかなその胴はヴィクターの腕程もあった。
液体のない枯れた噴水に入り、絢爛で優美な彫刻に絡みつく。この仕掛けを動かすのは一体何度目だろうか。
そのとき響いた音色に、彼女の友は恍惚とした笑みを浮かべた。戻って下ろされた腕に抱き着くように絡みつき、小さな蜥蜴へと還る。彼の熱を帯びた眼差しが、褒めてくれているのだと教えてくれた。
「ほら、綺麗な音じゃないかメリィ。ボク達を歓迎しているのさ」
月に照らされた二人は、やがて噴水から噴き出した血飛沫に隠される。
彼女は、彼と共に獰猛に口角を吊り上げた。
「この噴水は、神獣様の棲み処へ続く花道……異形の世界へ成り果てるのは、家主がそれを許したから!あのクレイジーでキュートな元人間達は、朽ちたときから彼の奴隷だ。なぁメリィ、ボクらは違う。だろ?」
自由に動こう。この世界など、全て気が狂ってるのだから。
ちなみに、原本にメリィちゃんはいませんでした。ヴィクターの肌も茶褐色でなく色白で、名はレイケルでしたねぇ……




