18裏話.帰り血
蝶殺しの少年
ふっと視界が途切れる。
目の前が真っ暗になり、そのまま半ば前のめりになってようやく脚を踏み出した。
先程までの、壁一面にこびり付いた赤錆はどこにも見当たらない。それどころか光や色と見られるもの全てが失せている。
まさかあの”黒い霧”が何かしたのか?あの形態がまざまざと蘇り、自分の置かれた空間の異様さと重なる。
弾かれるように手元の冷たさに気付いた。
いつの間に懐中電灯が切れていたのか、未だ執拗にフラッシュバックする記憶を振り切るように、手探りでスイッチを確かめる。
パチン、と音が響いた。
青白い月光が射す。
磨かれた銀鼠色の廊下が奥まで伸びている。
焼け爛れた肌みたいな彫刻が施された壁。
仄暗いが、あの陰湿な空気は綺麗に拭われていた。
オトマーはしばらく口を半開きで立ち竦み、確かめるようにドアに触れた。
冷えた指先をやんわりと押し返す、固い木の感触。
「……ロンド」
__置いて来てしまった。
もう一度、あの悍ましい世界へ行けるだろうか。
今更のように吹き出た嫌な汗が全身を覆い、思考の外側で本能の拒絶を感じる。
抗う術もない自分が唯一できるのは、あの噴水を起動すること。しかしそれで彼らが生還できるか定かではない。
合理的に考えるなら、オトマーはあの地獄に戻らない方がいいのだ。だが弱腰な選択に、納得できない自分もいる。
「……クソッ」
醜悪な超常と合間見えた記憶を処理しきれず、悶々とした脳の苛立ちを毒にして吐く。
疑問だらけだ。
あの黒い霧は何だ?
あの世界は何だ?
あの噴水は何だ?
悪夢だと願うなら、この手にある懐中電灯の存在理由は何処にあるのだ。
徐々に交錯する謎と記憶が混濁し、翳りのある瞳を下ろす。白い電灯に照らされた空間に、粉雪が舞っていた。
最早、自分がどちら側なのかわからない。
廊下に踏み出す。不気味なほど鎮まった胸の内には、まだ不満を訴えていた。腹の虫が這いずり回った跡が疼いて仕方が無い。
角を曲がり、渡り廊下を抜け、あの広間へ戻ってきた。
静かで音ひとつない。美しい月の下に曝された噴水の、ざらついた表面が裏返った世界を象徴していた。
やはり誰も、醜い異形すらもいない。
そんなことはわかりきっている。焦燥とも苛立ちともつかぬ波に襲われ、突かれるように足を動かす。
血膿のように深い赤のカーペットが敷かれた、北館の渡り廊下を通る。
頬を撫でる隙間風が冷えて心地良い。
呼吸が早くなる。鼓動が内側から身体を乱暴に殴り、掴んだドアノブが凍るような冷たさだった。
闇があった。
扉を大きく開き、その月から逃れた一点を照らし出そうと電灯を向けた。
「……ヴィクター、頼みがある」
路地端で座り込む酔っ払いのように、埃だらけの壁に背中を預ける白髪の少年。眠っていたという風でもなく、眼前には深緑の宝石のような蜥蜴を手に遊ばせていた。
此方の存在を知らせるように光を揺らせば、彼はくすんだ紫の眼をどろりとオトマーにやる。
茶褐色の肌が、黒に近い赤と斑になっていた。
無表情なら涼しい美丈夫に見えるだろうに、上目遣いとも睨めつけとも言えぬ表情で、彼はニタリと爬虫類のような笑みを貼り付ける。
酷く似合わない奇妙さに、反射的に眉を顰めた。
「なーに。珍しいなぁ、アンタがボクんとこ来るなんてさ。夢かな」
「……噴水の絡繰、知ってるか」
「うん知ってる……で?行きたいの、連れて行こうか」
「いや。もういい、それと逆だ。連れて帰って欲しい」
びくりと彼の頭が少し跳ねる。気が狂ったように大きく暗い目を見開き、三日月形に口角を上げた。
それが此方を見る。
「いいよ。誰が行った?」
「……ロンド、エリス、マリンの3人と。他は必要ない。いないと判断したら、別に構わず帰って来ていい」
口から滑り落ちる言葉は、自分の発するものとも思えない。
「あっは、お前ホントにあの子らと仲良いね。可哀想、全部虚構なのに……本人にその気が無くとも」
「……そうだな」
小さな溜息とともに、
「じゃとっとと向かってくれるか」
と零す。彼は熱に侵されたような暗澹な笑顔で笑う。口だけが心底嬉しそうに笑う。唯一可愛がっている蜥蜴を愛おしそうに肩に乗せると、怪我をした子馬のようにぎこちなく立ち上がった。
酷く爽やかな声で、ヴィクターはこう言った。
「あ、あー……危ない、目眩がする。んふふ、ずっと座ってたんだ。今日」
赤錆が付着したその姿は、夜にしか見せない顔だった。その手には既に輝きを失ったメスがある。
「安心していいからね。ボクが引き摺り戻してあげるよー……おやすみ、オトマー」
通りすがりに酷く強く肩を掴まれ、小さく呻く。くい込んだ爪が肩に悲鳴を上げさせた。
彼の目は蜷局を巻いているように見えた。漆黒の怨念が深くどろどろと疼いている。綺麗な瞳が、淀み切っていた。
顔を歪めて力ずくで振り払い、逃げるようにして立ち去る。
だから、アイツは嫌いなんだ……。
触れられた部分に染み付いた真っ赤な跡が、まるで返り血のように見えた。
ヴィクターさん、好きな食べ物は?
「ガムかな〜、味無くなってもずっと残るし」




