25.赤い噴水
『今思えば、この時からだったのか』
__今日は、誰か来るの。
そうだね、と目の前の白い少年が言う。夜の闇に萎んで掻き消えてしまいそうなほど白く、まるで炎のようだった。
私は噴水の縁に腰かけて二人の話に耳を澄ます。しかしそれもぼんやりとしてきて、いつの間にか月の光は届かなくなっていた。
__大丈夫、ちゃんと契約した。忘れてないよね。
その声が自分宛てと気づくまで数秒かかり、ややあって小さく頷く。その行動に私は安堵した。
まだ、時間はあるのだと__……。
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夜の廊下。グラスナビィ寮から大広間に繋がる暗い道のりは長く、ただでさえ陰鬱なゴシック建築に息が詰まる思いだった。その一方で、シックな彫刻には目を見張るものがある。
消灯時間をとっくに過ぎた0時という時間の境界線。ドロシーの出現時刻だ。
「……くらーいですね……」
不安定な足取りのエリスがそう呟くと、さっきから落ち着かないように彼女を横目で見ているシャイルが応える。
「時間も時間だし、構造が構造だからなぁ……一応ガキどもの命預かってるわけだから、ある程度の耐震性を考慮した結果がこの校舎なんだとよ」
「へぇ……定期的に検査が来てるのって、老朽化の補修なのかしら」
「おう。この学校も大先輩っつーわけね、訪問介護が必要なんだ」
「耐震あります?本当に?」
半ば呆れた様子のロンドは、片手にランタンを揺らしながら溜息を吐く。闇に景色が霞んで、角度の問題で月の光もない。ランタンの灯りだけを頼りに足を運んでいるのだが、鉄製のそれは結構重く肩が疲れてきた。ドロシーに会えるまで、もしくは月が顔を出すまでの辛抱だと冷たい持ち手を片手に渡す。
「……おい」
真横から突然声がかかり、今まで壁だと思っていた黒い視界から角ばった手が差し出された。驚いて一歩後退り、その後にルークだと察する。廊下はそれほど暗かった。
「……寄越せ」
「えっ、あぁ、はい。すみません」
そういえばこの人、前もクオンからランタンを預かっていたような気がする。結局その後には渡したのだが、もしかしてその時を考えて体力を残しておかせようと?
だとしたら次は自分が……。
そこまで考えて眉をひそめる。ロンドは彼らと同じ扱いは受けていない。あくまでただの生徒だ。そして、それにくるまって安心しているのも自分自身だから、決して不満はない。
通りすがりに窓の外を見やる。空は顔色悪く曇っていた。
手すり越しに階下を見やると、だだっ広い大広間の中央にクリーム色の肌が剝き出しになった噴水が見えた。水の流れていないそれが、今はただのオブジェのように見える。高い天井から吊り下げられているガラスのシャンデリアも、今は明かりがなく冷たい印象を与えた。
彼らはしばらく下の様子を眺めながら、吹き抜け回廊を進んでいった。
その目が探しているのは言うまでもなくドロシーであるはずなのだが、アリスは下を見ようとはしなかった。探しているようなそぶりもなく、ただ心此処にあらずといった様子で壁や向こう側の回廊を観察している。その目は美術館で絵画を鑑賞しているかのように静かで、まるで彼らが見えていないようだった。
__変わっているのだろうか。
彼女は遠い昔の思い出を、この”今”である場所と重ね合わせることができたのだろうか。かつての記憶はまだ、鮮烈に残っているのだろうか。百年前の温度はまだ、その胸に燻っているだろうか。
クオンは彼女からそっと目を逸らす。
わかっている。まるでそれが正解だというように、アリスは一瞬立ち止まりかけ、崩れる様に歩き始める。
どれだけ慣れ親しんだ場所でも記憶は脆く、変化という小さなヒビがそれを崩してしまうこと。平坦な日常に芽生えた異常が珍しく、目を向ける場所を誤ってしまうこと。二度と戻らないかつての街並みもまた、脳裏から掠れてしまって瞼を閉じようと見えやしない。
寂寥に吹くからっ風は妙に秋の香がした。その匂いだけは忘れられない。更新される古い記憶が綯い交ぜられて、郷愁だけが何度も蘇るのだ。
わかっている。喪うとは戻らないという意味だと。
そんなつまらないことに共感しても伝わらない、意味がない、彼女は人間で本物の経過を知らない。
そう割り切って、階段を降りていく。
氷河の如く青い瞳は、クオンの視界の外で自らを呑み込む天井を映していた。
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「アリス」
そんな声が聞こえた。
「はい、なんですかマリンさん?」
名前を他人の口から聞けるのがただ嬉しくて、振り返って笑う。しかし彼女はご機嫌という風ではなかった。アリスは内心首を傾げてどうかしましたかと尋ねた。
「あなた、寒くないの?見てるコッチが肌寒いわよ、半袖なんて……」
そういう彼女は真っ白なニットに身を包み、いつものローブは置いてきているようだった。確かに足も動かしづらいだろうし、横のエリスも今は赤いベストを着こんでいる。
一方自分は夏用の制服だ。
「寒くはありませんよ。幽霊の体って存外便利なんですね!」
今思えば利便性の高いこの体。死んでしまったのはしょうがないし、今は幽霊としての生き方を思う存分楽しんでいた。昼間に生徒の喧騒を期待して壁を抜けたのが図書館だったり、間違えて裏庭に辿り着いたりして大人しく廊下を歩いていたのだが、全く寂しくない。学園とはそうあるべくして成り立つのだから。
そう伝えると、彼女は興味深そうにそうなの、と呟いて終わった。だから「今はどのくらい寒いのですか」と訊いてみると、マリンは一瞬呆然と目を瞬く。そして悩むように明後日の方向を見やり、ぎこちなく答えてくれた。
「多分、あなたが生きてた頃より暖かいわ。地球温暖化とか近年騒がしいし、それに……いやまぁ、十分寒いんだけど。とりあえず肌寒いは通り越してるわ」
「そうなのですか、ではまた明日ココアでも飲みましょ!ココアに含まれるカカオポリフェノールは、血管を拡張して血流を良くするんです。体の末端まで血が流れやすくなりますし、すぐ温まりますわ!」
「へぇ……なら__」
そう言いながら最後の一段を降りた時、珍しくエリスに服を強く引っ張られる。怪訝に思って振り向けば、口元に人差し指を当てて言外に黙らせた。
「………」
「……………」
遠い方からする幽かな声を気にしながら、クオンは後ろを振り返り、彼らの位置を把握する。途端ランタンの灯りは消え、どうやらルークが布をかけたらしい。彼の背中を軽く押して促せば、察したように階段裏まで他の人間を催促してくれる。先ほどからウルに飴玉を供給されて黙りこくっていたジャラも、流石に今はガキ臭い空気を纏っていなかった。
調査だ。
やっとこの時が来たかと大きく息を吸い込み、長く細く吐き出す。噴水を横目に人間を追い、存外狭い階段裏に身をひそめた。少しだけ顔を覗かせれば、噴水の端辺りは見ることができそうだ。
一切の変化を見逃すまいと息を殺し、少し待っていれば、やがて頭上から固いブーツの音が響き渡る。それと同時に抑揚のない声が降って来た。
「__……出てきて」
唐突なその言葉に、在りもしない心臓が凍り付く。顔を引っ込めてウルを見ると、予想だにしていない台詞だったようで彼も少しだけ目を見開いたが、直ぐに柔らかい雰囲気を取り戻した。
クオンは本当に姿を現した方がいいのだろうか、と逡巡する。もし本当に気づかれていたのなら、今更隠れることに何の意味があるというのだろうか。
しかし、そんな緊張は全くの杞憂だったと数秒経って知る。
「ドロシー、起きてってばぁ。出てきて」
先程とは違う、おどけた声。それなのに冷たさは何倍も上だった。毅然ではなく、まるで人形が感情を偽ったみたいな声音だ。姿は見えないが、恐らく同学年の生徒だろう。いや、後者は幾つか上かもしれない。
突如、彼らの言葉に呼応するように、噴水の方から石同士がぶつかりあうような重い音がする。反射的に振り返って慎重に顔を覗かせれば、二段構造になっている噴水がメリーゴーランドのように回転しているのが見えた。二段目の装飾の鳥がまるで飛翔しているかのように向こうからこちらへ、こちらから向こうへ回る。その下では鯨がゆっくりと泳いでいた。アンティーク彫刻だからか、実際に動き始めると繊細さも相まってまるで生きているように見えるものだ。しかし、変化はそこだけに留まらなかった。
いつもは清らかに輝く透明な水が噴水を満たしていたが、今は__真っ赤な液体がしぶきをあげている。どす黒く、それでいて鮮やかな赤色をしている。血生臭い匂いが鼻を掠め、クオンは眉をひそめた。
__これは”幽霊”の一部か、それとも犠牲の体現なのか。
まるで決して愉快ではない舞台でも観賞しているような思いで、その状況を理解しようと頭を働かせる。しかし、その緊張で不格好な思考回路を薙ぎ払うかのようにそれは姿を現した。
ぬらりとした液体の中から、溺れる人間を逆再生したみたいに手が伸びる。一つ違うのが、空を掴むように這い出てきたソレが真っ赤に濡れそぼっていたことだ。妙に生々しく重さを感じる。血塗れたヒト型は本当に先ほどまで水に浸かっていたみたいに、噴水の縁に膝を突いて息を吸おうとした。というのも、実際には酷く咳き込んでしまったから。
ぺちゃ、と手をつく音が肉体を思わせる。血腥いものは見慣れたはずだったが、とてもいい気分ではなかった。なら、後ろの人間達はどんな気持ちで何を思うだろう。まだ幼さが残る少年少女、恐怖で幽霊になるなどと誤断してしまった女、そして……あとはわからない。
咳が止むと、そのヒト型は不安定な様子で立ち上がる。そのまま観察を続けていると、ふと横から掠れた声がした。
「……ドロ、シー」
乾いた言葉。やはりそうかと内心舌打ちし、面倒事ばかり予想通りなものだとうんざりした思いで目を細める。
「……ドロシー、今日は要らない。耳を塞いでて、それだけでいい」
「……」
クオンには、そのヒト型が口を動かしたのだとわかった。いくら注意深く耳を澄ませても何も聞こえず、今になってようやく姿が見えた少年二人は彼女の動きが止まるまで何も言わない。これは会話なのか?だとしても、成り立っているのか。そんな疑問を胸に抱きながら考えることだけは手放さないつもりだったが、二度目の徒労に尽きる。
「……キミさぁ、いい加減にしてくれない?俺たちだって忙しいの、第一__」
「いい。やめて」
「でもバアル……」
彼は渋々黙り、次は”バアル”と呼ばれた白髪の少年がドロシーに向き直る。そのとき、かろうじて先ほど不平を言った少年の不満げな横顔が見えた。その目は楽刻とは違った白い光を帯びている。その目に、クオンはゾッとするような寒気を感じた。
一級悪魔である自分が、戦慄を覚えるほど。
__……あれは。
「ドロシー、道を開いて。戻ってくるまで静かに……いい」
「…………」
それは半ば命令のような響きを伴う。長い沈黙の後、少女は小さく頷く。また赤い水に半身を浸かり、何をするのかと目を凝らしていると、噴水に触れた跡が赤黒く垂れていた。
それはオルゴールの音だった。小さな音で、静寂の張りつめた空間を躍るようなささやかなこの音色は知っている。確か、ドビュッシー”月の光”。できればこんな鉄臭い時に聴きたくない曲だった。悪魔でも理解できるほど、ある種の”美しい”曲だから。
しかしまるで、天使が血に染まったベールを纏っているかのようなちぐはぐさが、眼前の異様さを引き立ててしまう。
噴水は今もなお赤い水を流しながら、中央からケーキの如くぱっくりと裂けた。それは徐々に開かれ、優しい曲調に合わせて酷く陰鬱で鉄臭い道を作る。断面には真っ赤な液体のカーテンが展開され、地下へと続く血濡れた階段が覗いた。
その直後、激臭と言えるほどの猛烈な血の鉄臭さと生温い空気が顔に浴びせられる。急な刺激に鼻がツンとしたが、後ろの子供のように気分が悪くならないだけまだいい。
噴水の動きが止まると同時に、不気味なほど足並みをそろえて音楽も止まる。機械的な音なのに響き方が鉄琴のようなそれは、耳に静かな振動を残していった。
(人外の類?この血の臭い、普通の絡繰りじゃ隠せないし……呪紋の一種なのか?)
そんなことを頭の片隅で考えていると、背が高い方が打って変わって愉快そうに言う。
「さぁて、蛇ちゃんに報告するかぁ。ガキ臭いのが混じってる」
「……報告しよう、アリスがいない」
彼らは驚異的な量の血のこびり付いた階下へ消えていく。すると噴水は開かれた時よりも素早く入り口を閉めて、すっかりただの__赤いモノを除けば__噴水になった。ドロシーはややあって噴水の縁に腰かけ、ようやくはっきりと顔が見えるようになった。
「っ……」
背後から掠れた、風のような悲鳴がする。それはアリスの嘆きのようだった。
ドロシーの目はくりぬかれていた。虚ろな真っ黒の空洞から赤い液体が垂れて、それは不思議と涙に見えない。錯覚を阻止するほどの違和感がそこにあった。
クオンは彼女から目を逸らし、気が乗らないもののウルに尋ねた。勿論口には出さず。
途端、吹き抜け廊下の向かい側からカツン、と足音が響く。ロンドは大袈裟なほどに肩を震わせていたが、恐らく今のショッキングな光景のせいで疲弊しているのだろう。マリンやエリス、シャイルは後ろ側にいたので何も見えてはいなかったが、嗅覚には意味を成さない。しかし、その顔にはもううんざりだという色が滲んでいた。
「……気づいてない。ドロシーは耳が聞こえてないんだよ、さっき”耳を塞いで”って言われたから」
「え……そうですの?じゃあ、わたしどうすれば」
「君なら」
焦燥を露わにクオンの袖を掴み損ねたアリスを遮って、クオンはその目を捉える。大丈夫、と言うように優しく笑う。
「……姿を見せても、無意味じゃないと思う」
違う?と訊いてみればアリスは悲痛な顔で言葉を詰まらせる。彼女は幽霊。教師の権威が及ぶ範囲ではない事なんて、クオンにはわかり切っていた。それでも喰いついてくるなんて思っても見なかったが。
「よせ、いくらアリスと言え片割れがあの状況だぞ。クオンお前……危機感がないのかあるのかハッキリしろよ」
「先生、どうします?」
クオンが口を開く前に、ウルの一言でシャイルは固まった。愕然として目を見開き、しかしそれも一瞬に過ぎない。
「……わからん。が、お前らみたいな乳臭ぇ餓鬼どもが揃ったところで何ができるってんだ。私と無駄に動けるこの引きこもりなら、まず追いつかれることはないから__」
「無理です。彼女を視界の枠に捉え続けない限り確実に捕まる。何故なら、彼女も幽霊だから」
壁に潜られてしまえば不用意に動けないし、だとしても一瞬で捕らえられる。それは明白だった。「それしかねぇだろ」と半ば苛立ちを見せ始めたシャイルに、今まで黙っていたジャック・オ・ランタンが告げる。
「先生、クオンはエクソシストだよ。公認の」
「……え?」
何を言っているのだ。このランタンは度々饒舌かつ危うい虚言を撒き散らしクオンをとんでもない者に仕立てるが、流石に今回ばっかりは無理に決まっている。妙に呪いごとに執心しているシャイルとて現実は見える女だろう。それに勘のいいロンドや疑り深いマリン、機敏なルーク。他はいいカモなのだが。
しかも、エクソシストになるには様々な条件だってある。信仰心の厚いカトリック教徒かつ神父であること、エクソシストとしての経験を積み正式に任命されること、聖水・十字架・礼服を所持すること、他にもあるはずなのだが。
宗教に関係ないとは言え、仮にも悪魔であるクオンに何をさせようと言うのか。
しかし、時間帯や先ほどの衝撃や血の臭いで、頭は上手く働いていないらしい。クオンが漏らした小さな疑問の声も相乗効果となり、妙に信憑性のある話が即興で成立されてしまった。
「そうなのか?どうりで馬鹿みたいに聡いなと思ったら……確かに十字架も持ってるし」
そういえばそんな物もあった。重厚感があるのがまた憎たらしい。
「じゃあ任せるわ。専門家なら年齢は関係ねぇだろ、ちゃんとした資格あるんだろ?」
無い。
「……気をつけろ」
変に乗り気なルークがそう言うと、ロンド達も縋るような眼差しで見てくる。
__あぁ、そうだ。あのとき捜査官なんかじゃなくて、エクソシストって言ったら手間も省けたんだ。
後の祭りかと今更吐いた溜息が肯定と見受けられたようで、結局クオンはアリスを連れてドロシーを誘うことになった。
「__……ヒヒッ」




