24.死後を辿る
「黒い霧のようでした」
半透明の幽霊から告げられた言葉。クオンは何かとてつもなく嫌な予感がして、咄嗟にウルの方を見やった。彼はいつも通り笑っていた。否定の意がなかった。
__黒い、霧?
同盟が繋がっているモノは一体、何だというのか。同盟は一体、何を画策しているというのか。
宿敵であるはずのマガを、トライアングルの一柱が排出していたなんてあっていいはずがない。もしトライアングルが何らかの理由で解体したとして、その事実が明るみに出ていようものなら元トライアングル職員はどうなる?
皮肉にも、クオンは先刻のロンドと同じ状況に置かれていることに気づく。天使はどうだっていい。せめて、協会と防衛本部だけは一切の無関係を証明しなければならない。
その焦燥が現に、一刻一刻と近づいている。
動揺を隠そうと紅茶を口に運ぶも、苦みだけが舌に広がる。鼓動の度に機関が引き千切られるようだった。視線は無意識にカップの中に落ちる。茶葉で真っ黒く濁った水溜りに、自分の顔が映っていた。
「黒い霧……?蛇に見えたのは輪郭が見えたりしたの?」
「輪郭と言えばそうですが、時々白い部分が見えたんです。ちょうど鏡が光を反射するみたいに、一瞬白い鱗が見えて……あと、舌が二つに割れていたり、曖昧ながら東部の形状や胴体、前牙も蛇の特徴に当てはまります」
「へぇ……それは怖いね」
苦笑いで頷くウルに、アリスは目を曇らせた。”それ”が彼女の命を奪ったのだ、無理もない。ただその恐怖のお陰で詳細な形状を知ることができたのだから、アリスの感受性の豊かさには感謝するばかりである。
マリンはクオンよりずっと顔色を悪くしている。爬虫類が苦手なのかもしれないが、そこは我慢してもらおう。
その一方で、シャイルがふと呟く。
「地下水路に蛇か……普通の生物だったら現実的じゃねえな、環境が悪すぎる」
「あ、そういえば先生、生物学担当でしたね。環境ってなんですか?」
エリスは桃色の瞳をぱちぱちと瞬かせて言う。その手には、赤い紅茶が揺れるカップがあった。
「まぁ色々あるけど、最大の理由としては体温が維持できないってこと。蛇は変温動物だから、外界の温度によって体温が変化するんだよ。太陽とか地面の熱を吸収してんだけど、地下水路じゃそれがないから寒すぎて死んじまう。他にも餌がなかったり、空気の循環が悪くて酸欠もあり得る。一時的な滞在ならともかく永住は無理だな。不衛生、寒い、湿ってる、クセェ息苦しい。寧ろ苦情来るわ」
「あぁ。なるほど……ドブネズミとかはいそうだけど、他にも要因はあるんだ」
ロンドが興味深そうに頷いている横で、マリンの無感情な目は完全にサラダの真ん中に落ちていた。新品同様の紺のローブはこの時期にはまだ暑そうだったが、そんな素振りはなかった。
「じゃー生物の可能性はないってこと?神獣にも不相応だけどなぁ、そんな物件」
「ね。アリス、何か他に覚えてることは……あぁ、嫌だったら別に__」
「__いえ、いいんです!そんな……怖気づいてる場合じゃありませんし、だからできるだけ思い出しますわ」
咄嗟にクオンが気づくも、それすら遮って彼女は断言した。百年の時を超えて彼女の精神力も鍛えられたらしい。頼りなさもすっかり消えて、ロンドも少しは見習えばいいのにとクオンはポットを傾ける。
「わかった、なら……蛇の生物的じゃない特徴とかあった?スピリチュアルな感じの」
マガかどうか、それがクオンの気を逸らせる。先ほど焦るなと何度も言い聞かせたばかりなのに、こう矢継ぎ早に奇天烈なことが起こってしまえば誰だって焦る。
割と大雑把な質問を投げてしまったが、彼女は眉をひそめつつもぎこちなく答えた。
「あっ。ありました、そういえば……その蛇が近付いた……近づいた途端、動けなくなったような……。恐怖とかではなく、あぁ、勿論足が竦んではいましたが。金縛りみたいに動けなくなったんです。空気が重くて、まるで時間が止まったみたいな……そう!そうです、その蛇喋っていたんですわ!」
「喋ったぁ?蛇が!」
今度こそ堪え切れなかったらしく、マリンはわざとらしい疑いの声を漏らす。彼女の言動を考慮すれば致し方ないが、幽霊が眼前で饒舌に語っている時点でその考えは捨てて欲しかったものだ。
「しゃ、喋りましたわ!決して幻聴なんかじゃありません、だって本当に怖くて、だからこそ五感を総動員していましたもの!あの時の空気の、無音の音まで覚えてますわ!」
アリスの台詞にクオンは適当に頷いた。そうか、極度の恐怖に陥ると人は敏感になるのか。
ふと気づく。
「__無音の音?地下水路反響するでしょ、どれだけ静かでも結構響くと思うんだけど……」
何度かそこそこ深い洞窟に入ったことがあるのだが、布ずれの音でさえ微かに響く。洞窟という筒状のせいか反響だってするし、それは尾を引くようにしぶとく木霊すのだ。
そう告げても、彼女はただ首を横に振るばかりで「蛇の這いずり音はありませんでしたし、隠れていた時ではないでしょうか?」と言った。それならあり得ると大人しくさがるが、余計マガの確証が高まるばかりだ。アレの形状は全く霧そのものなので、這いずり音はしないが……白い鱗というのが分からない。
マガではないのか?どちらだ。
__しかし。
マガは自我を持たない。喋るはずこそなけれ、一定の場所にとどまることも決して無い。
そこでウルが話を切り替える。
「とりあえず、ドロシーに会わない限り何も始まらなさそうだね。アリス、呼びかけること自体はできたんでしょう?もしかしたら、接近できれば多少なりとも”繋がる”かもしれないよ」
「繋がる……?距離の問題ですか?」
「そう。ジャラのお父様に聞いたんだけれど、幽霊っていうのは未練の塊なんだって。だからこそ想いが強くて、それを扱う術にも長けている。アリスは今も前もドロシーを視覚に捉えてなかったからイメージがつきにくいんじゃないのかな?」
「見えさえすればするっと届くかもっつーことか!確かに電波とかも壁が障害になるときもあるしな」
ウルの都合がいい作り話はともかく、その内容は確かだ。意思の力が強力な幽霊は独自のコミュニケーション能力さえも有する。勿論人外種はそれぞれ固有の意思疎通があるのだが、幽霊のようにテレパシー的な方法を使えるモノはそう多くない。
「……危険だろう」
低い声で呟いたフードの下は見えなかった。前髪くらい分けるか切ればいいのに、おかげで片目の鮮烈な赤色しか見えないのだが、今はそれすらわからない。
「既に……死人も、いる。幽霊……その意味を…考えろ」
「意味?」
訝し気なジャラの声。彼からすれば幽霊はただの食糧であり、決して犠牲者とは思わないのだろう。今更ながらバイオレット寮という免罪符に感謝しつつ、まるで叱られた小さな子供みたいなアリスを見やった。
今更ながら、彼女は死人だ。
本来ならもう話すことも、その声を聞くことも、姿を見ることもなかったはずの存在。百年前の彼女はそのまま誤った形でこの世界に残ってしまっただけの残留物に過ぎない。死んだのでなく殺されたこと、酸鼻の極みである過去を背負ったまま悲しみと綯交ぜにしてしまったこと、その二つの要因が主に彼女の”幽霊”としての輪郭を形作っている。
「……僕聖職者の子供だから、ある程度なら魔除けできるよ!」
「はっ?」
思わずそう声を漏らす。無茶にもほどがある。幽霊、神獣と来たからと言って、いくらなんでも調子に乗り過ぎじゃないだろうか。
「お、マジで?私御札とか好きなんだけどさぁ、西洋の厄除けも興味あんだよな!」
……釣れてしまった。




