19.自戒のアリス
今週は懺悔の2話更新予定でございます。どうぞお楽しみください!
その声は、暗がりのある一点から聞こえてきた。ただの泣き声というにはあまりにも悲痛だった。まるでで疲れ果てたとでもいうように静かなもので、声は発するというより、やむなく零れてしまっているようにも思えるほどだ。
黙りこくっている人間達を盗み見る。シャイルの証言も含め、やはり声だけなら人間も認識できるのだろう。つまり、アリスは百年以上もの長い間死に永らえ、人外に部類される幽霊として”新しい生”を受けた。
「……人外か」
「みたいだね。先生、どうしますか?」
ウルはクオンの念押しに頷いた後、表情一つ変えないで傍らにいたシャイルに指示を仰ぐ。光がほとんどないせいか彼女の顔色も心なしか悪い。
「あ、あぁ……あ?お前ら何平然としてんだ?」
訝し気な彼女の横で、マリンまでもが小刻みに頷く。その手はエリスの腕をしっかり掴んでいた。
「そうよ、だって幽霊よ?何してくるか分からないじゃない……!!あれだって、もしかしたら罠かもっ」
「……それはない」
ルークは彼女たちの背後の、廊下奥を見据える。マリンとシャイルがまさかと勢いよく振り返ったが、そこには誰もいない。涼し気な木の葉の擦れる音が聞こえただけだった。
「先生、なんでそんなことが分かるんですか?過去に実際……行方不明者も出たんでしょう?」
意外にも冷静だったロンドが訊くと、彼は生徒達に目線を降ろした。僅かに目を細め、その視線には微かな呆れを感じる。ややあって真っ黒なマスクの下から声が響いた。
「……消えたのは…肝試しに、行ったヤツだけ……ココに…その噂は、無い……」
「……確かに」
彼の言い分に納得したらしく、マリンはまたゆっくりと背後に振り返る。廊下はしんと静まり返っていて、小さく咳をしても大きく反響した。
__反響、した。
「泣き声……小さくない……?」
強張った視線を声のする方へ向ける。先ほどまで眠気が取れていなかったエリスも、今や腕を掴むマリンの手に自分の手を重ねていた。目を凝らすシャイルに再度声をかけ、ウルは静かな目をほんのり緑色に染めた。
「この間も私襲われなかったし……ルークの言う通りなら、少なくともアリスは無害じゃねぇか。なぁ?」
「……知らん……見えるか?」
シャイルが尋ねるも、あからさまに嫌そうな顔をして肩を竦められる。ランタンでクオン達を照らすと、そのままクオンの手元に押し付けた。
「…………」
「……わかりました、見に行きます」
教師としての態度には深く考えないことにし、素直にランタンを受け取る。別に夜目が効く人外に灯りなど必要ないが、確かに視界はより明瞭になる。不満を溜息で流して背後を見やると、ノマド二人と目が合った。人間に監視をつける理由もない。
「本当に行くわけ?先生も、生徒の安全とか__」
「大丈夫だよ、アイツが言うんなら何かしら根拠はあるって」
「シャイル先生まで……」
責めるような声も気にせず、ルークは廊下の奥を静かに凝視する。
「もう行くよ」
「うん!」
声をかけると、ジャラは頷いてウルの手を握った。そしてクオンの手に戻った煌々と照るランタンを無表情で一瞥し、彼の手も握る。
その途端、背後から蚊の鳴くような、あっと驚きと否定が混じった声がした。目だけ後ろに向ければ、軽薄な表情をしているロンドがついてきている。きっと無感情を演じるに慣れていないのだろう。その頬には冷や汗が伝っており、どうやら何か企んでいるらしい。
「ロンドも行くの?」
「……あぁ、僕だって見てないからね」
「へぇ……」
ジャラは好奇心を孕んだ目で彼を見つめるが、少し首を傾げると二人の手を放してロンドの手を握った。恐らく、調査序盤で死体を出さないように気を遣っているのだろう。
クオンとしては人間が介入してくるのは好ましくない。だが今は早急にアリスの件を解決したいのでジャラに任せることにした。何かあっても、彼ならうまく気を逸らしてくれるだろう。
学園は何処かの城かと錯覚するほど広く、たかが図書館と繋がる廊下一つにおいても先は見えなかった。実際には見えているが、暗さからしてロンドにはわからないだろう。
にしても、とクオンは空いている手で何気なく髪を耳に掛けなおした。まるで向日葵のように鮮やかな黄色の髪は、この暗がりではくすんだ色に見える。
(認識の差は考えてなかった……そうか、人間は娯楽として見ているんだっけか)
人外の身としてはイマイチ理解できない。何しろ、大半が同じ人外であるその存在自体を娯楽として見ようとは、寧ろその発想すらなかった。だからこそ思慮に欠けていたと言えるのかもしれない。此処の始末が終われば、少し人間について……いや、せっかくの機会だ。今のうちに人間を観察しておこう。
__ひっ……うぅ…うぁぁ……
無遠慮に心をかき乱されるような不快感。人外である幽霊特有の声音が少しづつ近づいている。そのか細い声は何処か冷えていて、空気を寒冷で切り裂くような、そして胸の奥の意固地になっている暗闇に土足で立ち入られるような、異様な嫌悪感を感じた。
クオンは幽霊を見たことが数えるほどしかない。一度、クロヴンの友人である葬儀屋の女性と出会ったが、蝙蝠貴婦人という不名誉な異名も頷けるヒトだった。真っ赤な髪と甘ったるい香水の匂い、真っ黒な礼服。
そして、肋骨が衣服を突き破って宝飾品のように施されていたのをまだ覚えている。
『あらぁ、貴方があの有名なクオン・アズリー?最年少とは耳にしたけれど、思ったより子供ね……』
第一声が失礼にもほどがある。あの貴婦人のおかげで、幽霊には決して友好的なイメージを持ち合わせていない。
(アリスの死因って捕食か……?内臓なんかまろびでてたらロンド、失神するよね?)
蝙蝠貴婦人のような事態になっていないことを頭の隅で祈る。そうしてゆっくりと歩いていると、彼らがかなり後方からにじり寄って来る気配を感じた。怖いなら大人しく引っ込んでいればいいものを、しかし調査に来ているのも事実なので黙っていることにする。
「……あ」
ふと零れ落ちたジャラの声に、三人は足を固める。その理由がランタンというお墨付きだったことは勿論だった。
背後から痛いほどの視線を感じた。今この場の主導権を握っているのは、ランタンの暖色の灯りにほんのり照らされているクオンだ。
小さな緊張感を鳩尾に抱えながら変わらない歩調で壁に向かう。固いローファーの音が響き、やがて淡い蛍のような光が見えた。
壁際で座り込み、膝を抱えて泣いている少女。その髪は濃厚な金髪で、空気に綺麗な黄金色を滲ませていた。12歳くらいだろうか。華奢で白い腕は細く、弱々しくも固く手首を押さえている。真紅のスカートは見たところ上質な品だったが、背中は壁にほとんど預けていて、やはり疲れているのだろう。泣き続けることに。
きっと泣き止もうと思えばできるはずなのに、どうして未だに涙を溢すのだろう。それが妙に引っかかったままクオンは静かに足を踏み出した。その瞳は冷たく、石を踏みしめる靴の1m手前には幽霊の涙が落ちては消えて逝くのを眺める。
しばらく沈黙が続く。彼女の泣き声だけが閑散とした廊下に響き、それを聞きながらしばし物思いに沈んだ。
__泣いている。何故?どうして。
死に対する悲嘆か、ドロシーを守れなかった悔いか……それだけなら人外になんてなるわけも無い。人間は、軽薄だから。
今までクオンに銃を突き付けられ、我が身可愛さに愛した誰かを差し出したものは大勢いた。生贄は何とも言えない、ただ苦痛に歪んだ顔にはぽっかりと穴が二つ開いていた。どうして、という憂いを物語っていた。それと同時に呪い、憎み、それでも慈愛が滲んでいた愚かさとは滑稽なものだった。そんなことをしても助からない。諦めるしかないのに、もう記憶も心も意思もその手から零れ落ちるというのに、どうして最期まで着飾るのか。
それに比べ、彼女は……何か諦めていた。
__ああぁぁ……ひぐっ、ううぁぁ……うあぁぁ……
横でウルは笑っている。ジャラは彼女から離れ、ウルの横にいるロンドの傍で窓の外を眺めていた。ロンドは、クオンとウルを前髪を透かして紺の目で見据えている。先ほどよりも静かな、しかし緊迫したように唇を固く結んでいる。
刺激しないよう少しだけ腰を屈め、できるだけ音をたてないように重いランタンを彼女の足元の、足首辺りに置いた。持ち手を降ろし、黒くざらついた鉄が指先からすっと離れる。ランタンの光は幾つも円を重ね、床を明るく照らしてくれた。
クオンは迷いなく彼女の横に腰を下ろす。すると、それにならって三人も横に座った。勿論ジャラは端に寄って。布擦れの音が止み、廊下は寂寥立ち込める冬の空気を取り戻した。床は冷たかった。
「何で、そんなに泣いてるの」
低い声で話しかける。名前は口にしない。アリスでなければ失礼に当たるだろうし、まずは心を開いてもらう為にライベリーの話を記憶から手繰った。
彼の言葉に、彼女は跳ねる様にして顔を上げた。まだ大粒の涙が頬をぼろぼろと伝っている。その瞳は青く、曇り空の下揺蕩う海のように暗く淀み切っていたが、昔は宝石のようだったろうなとふと思った。困惑したようにおろおろと肩を縮こまらせ、その両手は支える形で床につく。今にも逃げ出しそうなので、また慎重に穏やかで静かな言葉を選んだ。
「……どうして泣いているの?」
大丈夫、という常套句は言わない。信用されていないのにその言葉で納得してくれるはずもないから。少しだけ無関心な目で、それでいて相手の目を窺うように見やる。静かな瞳で、あくまで目的を伝える。声は対象を包み込んであげる様に穏やかに。そして、絶対に相手の目より上を見ないこと。警戒されてしまうから。
すると、彼女は崩れ落ちる様に床に座り込んだ。先ほどよりも涙が溢れ、透明な雫が雫を追って流れる。瞬間、彼女は顔を歪ませて目をぎゅっと瞑って泣き出した。掌で涙を拭っても意味はなく、すぐに濡れてしまう。
今までの呻き声のような嘆きでなく、今は泣いている。それが余計に心の奥を掻き毟った。不快で、不愉快で、溜め込んだ苦痛を全て吐き散らかしたくなるような感覚が脳裏をよぎる。
アリスはそのやるせない感情に流されていた。
「__わたしが、弱かった……?」
全ての辛苦を何とか絞り切り、彼女は言葉を話してくれた。聞きたかったのか。誰かに、最善を教えて欲しかったの?
「怖い……怖かった……ドロ、シーがぁ…………め、目がっ……」
息を引きつらせ、小刻みに震えだす。まるで極寒の中水に濡れそぼったときみたいに、細い指先や関節を震わせる。その両手がこめかみから頬にかけて髪を掴み、隠すように覆う。その目は自分の太腿に俯いていたが、明後日の方向を見ていた。
__じわり、とスカートが黒く染まる。
白いレースの部分も、赤黒く染まって乾ききっていた。
「こ、こっち……むい、向いて。肘から、し、たが」
壁に追い詰められたかのように背中を寄せる。来る、来る、来る__……。
「あ、あ…かく、白い、骨が……ささくれ、だって、とびだし、っ……わた、わたしを……見た…こわ、くて……」
愕然と見開かれた青。記憶の中の瞳と目が合っている。
「に……げ…」
髪を掻き毟る。そして、少し間をおいて何かを嫌がるように首を激しく振った。
「いや、いやあッ……!!やめて、やめて、やめて、やめてぇぇぇッ!!!!」
「アリス」
突然、甲高く張り裂けそうな訴えを叫んだ。悲痛だ。恐怖に震撼していた。足が竦む。鳩尾の何かがぽっかりと空き、力が入らない。
次は、次は、
次は、次は、次は。
わたしのうでが、ひきさかれる。
怖い。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、痛いのは嫌だ。やめて、もう、そんな叫び声をあげないで。獣みたいな。泣き叫んで、涙も唾液も血も混ざった変な気持ち悪い液体が、その臭いが、鼻について取れない。
牙。細長い牙。
真っ直ぐに顔を貫いてこっちに白い先端が見えて、目が潰れて、倒れて、のたうち回って、しばらく痙攣して、止まった。
目にかかる圧迫感を想像してしまう。
嫌。
頭を貫かれる感覚を想像してしまう。
いや。
腹が潰れ、内臓が潰れる痛み、重さと衝撃を想像してしまう、背骨が折れる小気味よい音を思い出してしまう。
嫌だ。
肘の関節が抜き取られ、おかしな骨の折れる音。濁音のついた叫び、湿った音。激痛。
いやだ。
やめて……
その時は、無力さと前を絶たれた取り返しのつかない絶望を知った。そして、あとの記憶はない。
「__アリス」
「いやあッ……!!」
震えから反射的に振り払った手をあっさり止められる。手首からは、温かく優しい温度が伝わった。その懐かしい感触で現実に引き戻される。喉がひんやりと委縮し、声が震えた。
「__あ、あ……だ、れ?だれ、ごめんなさっ…」
人間?あぁ、人間だ。生きている。わたしは死んで、腕を掴まれてて……。
「……アリス、此処には襲ってくるヤツはいない。僕達しかいないよ。ほら、大丈夫」
彼の視線を追うと、足元には暖かいランタンがあった。それだけに何故か安堵して。その温度ある、月とはまた違う灯りが愛おしかった。そして手は離れ、アリスはまた違った意味で緊張を覚える。白くて血管がよく透ける手首には、まだ柔らかい人肌の感触が残っていた。久しぶりだ。その衝撃で先程の酸鼻たる悪夢は霞んでいく。
「落ち着いた?」
「は、は……い……」
人間の声を聴くなんて、いつぶりなのだろう。夢でしか聞かなかった。夢を見るのかもどうかわからないから、ただの妄想かもしれないけれど。しかしそう考えてしまうと、何故か息苦しいほどの罪悪感が押し寄せてきた。
「……思い出したくなかったかな。ごめんね」
優しい。そうだ、誰かの優しさってこんなにも受け取りやすいものだった。
そして偶然にも目に映った光は、ランタンだけではなかった。きらきらと青白い月光を反射する窓枠、その向こうに広がる夜空はとても明るくて、光を甘受する廊下はいつの間にか石畳から滑らかな大理石に代わっていて。
瞬間、何か大事だったものを失い、また違うものを見た気がした。今や思い出は新たな鮮烈さに塗り替えられ、その輪郭がかすみつつある。暗がりを手を繋いで走ったこと。それが一番楽しくて、心躍る時間だった。
「__随分と……時間が過ぎて、しまったのですね」
そう呟き、ふと我に返って隣で柔和に口角を上げる子を見る。見たところ自分よりも一、二年上のようだ。
「あっ、ご…ごめんなさい……懐かし……くて」
「よかったじゃん。……やっぱり変わってる?」
「いえ、いえ……その、本当にごめん、なさい。もう、大丈夫……ですから」
この人達を逃がしたくない。わたしの姿を捉えてくれる存在なんて、この何十年もの間誰一人として現れなかったのだから。独りの悪夢、そして記憶の中から時々這い出る恐怖の具現。まるで薄暗い廃墟の中放り込まれ、異形の殺人鬼に一方的に追い回されているみたいだった。暗かった。決して綺麗な夜ではない。地下室のような、薄汚く閉塞した空間。
それが、全部偽りだったらどんなに嬉しかったことか。
__神様。わたし、悪い子でしたでしょうか?何故このような仕打ちを。
神なんていない。いなければいい。
でも、天使なら__……
「……僕は、クオン・アズリー。こっちがウル・トーグル、ロンド・ホーソーン、ジャラ・クラークだよ」
その瞳は、まるで宝石を埋め込んだかのような星の輝きを魅せてくれた。蜂蜜色は奥ゆかしく、美しいというには繊細で、綺麗というには物足りないような宝石。アリスは一瞬言葉を詰まらせ、そして慌てて口を開く。
「あっ、えと……よ、よろしくお願いいたします……アリス・クローナと申します」
その言葉と心惜しそうな表情に、クオンは確信する。小さな声だったが、あまりにも空気が沈黙していたので聞き取れた。彼女の名前は正しかったようだ。そして恐らく、殺されたという話も。
あの怖がり方は尋常じゃない。死にたくないとかではなく、今まさに起こり得る未来の結末への恐怖。未知が悪意を持って追い詰めてくる緊迫感、痛みを拒絶する故に想像してしまう凄惨。それが毎夜毎夜繰り返される。一寸先は全くの闇、徘徊する音が聞こえ……大抵はそんなところだろう。だからこそ、誰かがいるというのは奇跡の一瞬に思えたはずだ。
だから何処かに行ってしまって欲しくないのだろう。それはきっとドロシーが死んだことも起因しているはずだった。
「アリスは……何で此処で泣いてたの?楽では無いと思うんだけど」
僕にはわからない、と正直に告げる。
普通に死んで、普通に掻き消えてしまう方がずっと満たされていたのに。責任や憂鬱な重さから一気に解き放たれて、真っ白な世界に溶けて、全部失うことができたはずなのに。
何故救いの道を選ばなかったのか不思議だった。残るも残らぬも、ただ純粋な己の判断によるものだから。他の意識は干渉できないのだ。
彼女の青い目は未だ暗く、しかし淀みは少なくなっていた。それは苦しみと悲しみに心臓を掴まれた人間がする目だった。光り輝くような金髪は淡く、さらさらと微かな風に吹かれる。その度に月の光に照らされて、髪に蛍がとまっているようにも思えた。
「わかりません。そんなこと、わかりません……それでも、わたしは……」
此処に留まらなければならなかった気がしたんです、と罪を告白するように言う。その目は何処か必死だった。罪人が無罪を訴える目をしていた。クオンを真っ直ぐに見て、たったひとつの事実を言ってと縋るようだった。
クオンには正しい言葉がわからない。陪審員の席に座っていなかったから、彼女の苦痛の動機を知る由もなかった。クオンは、彼女の緋色のスカートを見た。まだ赤黒いモノが滲んでいる。
「どうして?」
「……!」
彼女は絶望的な背後の気配に呑まれる。愕然と見開いたその目は今にも泣き出しそうに歪み、やがて伏せて自分の白い手の甲に通う血管を見る。動悸が不安定なようだった。それほどまでに、彼女は揺れていた。
「わ、わたし……」
掠れた声を漏らし、それはクオンに臆しているように思える。傷を抉るような真似をされて、それなのに彼女は拒絶しなかったのだ。
「ごめんなさい、わたし……」
涙を流した。悲しみでなく、何か辛いものを追い出すような涙だった。
「……ちゃんと、死ねなかったんです……死に方を、間違った……ドロシーは、わたしのせいで、苦しんだのよ……!わたし!わたしがッ……!」
「先に死ねばよかったの?」
遮るように呟けば、彼女の気迫は一気に崩れてしまった。その自虐的な答えでやっと落ち着いたようだった。先に死ねばよかった。先に死んで、その間にドロシーは逃げて、あわよくば助かって。
せめてその未来さえあれば救われたろうに、彼女は変えられない過去を抱えたまま無知に置き去りにされた。この学園が目の前で懐かしい景色を喪っていくことにも気づかず、楽しそうな生徒の声にも気づけず、アリスの刻は止まってしまったのだ。
「それはどうして?」
涙が止まった。なんの前触れもなく、疑問のあまり悲しみを忘れたようだった。
細い体躯。真っ白な肌は僅かな月明かりも余すことなく反射し、美しく繊細な絹のように光り輝いていた。
エリスの話によると恐らくアリスの運動神経はかなり悪い。逃げようとしても、前提として立ち上がりすらできないはず。怯むというのは恐ろしいものなのだ。恐怖は人から冷静さを奪う。
「……ドロシー、なら。生き逃れられた……?」
お願いだから。正しいと、正しいと言って。わたしの過ちは間違いで、わたしの変えられない過去を断罪して……。
精一杯の思いで懺悔という名の反吐を吐き出す。縋るしか無かった。神がいないのなら、天使に縋ろうと思いついたのだ。
それなのに、目の前の彼は酷く人間らしかった。
それを認めたくないからまだ尋ねた。
「……わ、たし……死んだの、見て、怖く、て……。色んな、夢を見ました……夢だったら、嘘だったら、何、かの間違いで……神様が、苦笑して……助けてくれるものだと……思、いました」
広いこの世に埋もれた、独りの少女の妄想。そんなの、神が拾い上げてくれるはずもない。
それでもアリスは現実を直視することを嫌がった。ドロシーが先に死ぬなんて、そんな間違いはあってはならなかったのに。
「だって……弱いから。そうでしょう?弱いものから、退場するべきで……ドロシーなら、きっと」
逃げてくれていたならどんなに良かったか。
きっと痛かっただろう。苦しかったはずだ。それでも、彼女の逃げていく背中が見えたなら、それが闇の向こう側に消えてくれたなら、わたしは安心して意識を失うことができた。どんなに惨めでも、人生を棒に振るなんて嫌だったのだ。誰かの為に死ぬ事ができたなら……いや、違う。この人生が何らかの意味をもてたのなら。こんな価値のない人間に、それは神の恵みに等しかったはずなのに。
墓を夢見た。安らかに眠れると思って、悲しむドロシーは明るい人間だから、いつか幸せになってくれると信じて。晴れた空の暖かいお日様の下で、花の香りに包まれて解放されたかった。
しかし、ドロシーは先に死んだ。怯むアリスの目の前でその命を潰えさせた。そして続けざまに、その真っ黒な口はアリスに迫ってしまった。
「……何もできないの。わたし、監督生だった。嬉しかったんです……みんな、暖かい拍手を貰えた。喜んで、くれたから。せめて……化け物から、守りたかったのに……」
クオンには、その声はつかの間の幸せを思い出しているような陶酔に聴こえた。それもやがて失せ、当時の過ぎる時間を体現していた。
「ドロシーなら、できましたよね……?わたし、逃げられなかったんです……それはわたしが__」
大粒の涙が頬を伝う。壊れてしまった笑顔は今や、幸せそうに苦しんでいた。
__何を、確信している?
「過ちを犯した、罰ですよね……?」
『……アリス?』
その声は、噴水の水の音に掻き消された。




