5裏話.異変の兆候
胸中を蔓延る鼓動が、脳髄を引き千切るのだ。
「クロヴン」
呼ばれて徐に振り返る。そこには、あまりにも感情のない目をしたノイズが立っていた。クロヴンの書斎までこれほど気配を消して辿り着けるなんて、流石は暗殺専門家と言うべきか。
時計を見れば今は午前3時。仮面を取っているところ、先ほどまで眠っていたのだろう。
「どうかしたかい?早くお眠りよ、睡眠不足になってしまうよ」
彼は眉をひそめ、首を横に振る。そして、言った。
「違和感が消えん。夜行が解いたすぐの甘音も、『今までと感覚が違う』とか言っとったやろ。その通り、妙に色々安定しとる。強気っちゅーかなんちゅうか……お前はどうや?」
「……安定」
言われて見れば、この頃精神状態が不気味なほど静かだ。長寿であるが故それが本来あるべき形なのかもしれないが、そう考えると今までは精神を脆弱化されていたのではないだろうか。ウルは『協会、本部は絶対』という暗示だと言っていた。その威圧的な存在が思考にこびり付いていることで、少なからず悪影響を与えていたのだろう。怯ませる、というトリガーを仕掛けていた。
と、いうのがクロヴンの考察だ。違和感どころか、彼に心境の変化はない。恐らく長寿が過ぎた為だろう。
「……僕にはわからないけれど、何かあったのかい?」
「いや……まぁ、らしいな。やっぱ頼りんなるわクロヴンは」
そうへらへら笑ってから、またすぐに苦笑する。
「……どうしてもわからんのや。ジョーカーについての話」
クロヴンは紙に滑らせていたペンを止める。その気配から僅かに感情らしい感情が薄まったのを、ノイズは感じ取った。
「これは関係ないかもしれんけどさ。でも、全く変化ないねんよ。それが」
クロヴンは微動だにしない。その理由は知っている。
___彼はジョーカーを嫌っていた。
それは今でも変わらない。名前が被っているせいか、単純に馬が合わないのかはわからないが、この二人の間に張り詰める空気はいつも恐ろしくて近付けやしなかった。その間に入ると、あまりの無機質さに心が耐え切れない気がして。
しかし、また一つ釈然としない事実がある。クロヴンは穏やかで優しいヒトだ。万一の際にジョーカーを庇い、守ったところなら何度でも見たし今でも鮮明に思い出せる。
だから、ノイズはクロヴンが単純に彼を嫌っているようには思えなかった。もっと複雑な何かがありそうなのだ。
ふと彼は僅かに腕を動かした。特に理由もなく。そして静かに口を開いた。
「……深すぎる意思は時に、真実に等しい存在となる。それを騙すことはできないし、なくなることもないのさ。ノイズ、君の場合は特にね」
彼はノイズを真っ直ぐに捉えた。未だかつて、誰も見たことのない瞳を彼に向けて。
「疲れているだろう、顔色も悪いよ。ノイズ、無理はしていいけれど限度を考えるんだ。いいかい?今日はもうおやすみ、ゆっくりお眠り」
「何やねん、おれはガキかて……あ、一つ言い忘れとったけど、クロヴン気づいてるよな?」
「気づいているよ。僕が見ておくから、安心おし」
「はいはい、はよ寝ろやろ?じゃおやすみ~……」
「おやすみ」
欠伸をしながら静かに部屋の扉を閉め、足音もなく遠ざかっていく。それを確認したあと、彼はゆっくりと視線を分厚い古びた本へ移した。
「……ノマド、かい」
彼の手元にあった本にはこう記されていた。
『ノマド:世界に属さず、世界を渡ることのできるものを指す隠語』
ウルの事だ。きっと聞こえていてもいいように、他の隠語は彼らの知らないものを意味するはずである。だからこそ、彼はあえて耳を閉ざした。きっとこれ以上は聞かなくてもいい。
クロヴンがいるから大丈夫。それは彼自身さえ腑に落ちているようだった。




