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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編集

魔女の瞳にあてられて

作者: 佐藤朝槻


「映画館の魔女って知ってる?」

「魔女?」

「そう。映画鑑賞が趣味のお前なら会ったことあると思ったんだけどな」


 友達の話を聞くに、魔女は映画館にいて、決まって男子高校生の隣にいるらしい。魔女の生息地は僕のいる町と隣町、さらにその隣町までは確認されているとのことだった。


 僕は首を捻る。確かに僕は映画館に足を運んでいる。けれどもこの間、魔女に出会った覚えがない。

 そのことを話すと友達は口角を上げ、放課後に行ってみてくれと頼んできた。魔女の噂が本当かどうか確かめてきてほしい、と続けた。


 嫌だった。魔女が現れる時間は夜らしく、制服で映画をみて帰れば警察に声をかけられたら面倒くさい。来年の就活のことを考えても、素行不良の生徒となるのはごめんだ。


 適当な理由を並べて断ると、友達は「そっか」と首肯した。が、その後の態度はひどいもので、僕と話さない、目を合わせない、話の腰を折るなどを受け、頭が痛くなった。


 呆れて「補導を受けない時間までなら」と僕が言うと、意外にも友達はあっさりと折れてくれた。朝から頭が重くて憂鬱な僕には、これ以上の揉め事がなくて助かった。



 〇



 放課後。

 いったん家に帰り、父が入院する前によく着ていた紺色のロングコートを持ち出した。型崩れはないが、少し埃がついていたので軽く払う。


 電車で移動し、映画館に向かう。道中、コートが少し大きくて隙間から風が入ったが、大人っぽく見える服がこれしかないので仕方ない。


 到着後、映画館の隣にあるショッピングモールで暇を潰し日が沈むのを待った。時刻が午後七時を過ぎたところで映画館に足を踏み入れた。

 いつも映画館に到着するまで観る映画を決めない。選ぶ基準にこだわりはないが、強いて言えば恋愛映画さえ避けられたらよい。恋愛映画の席はどこも恋人同士ばかりで気まずく、こちらが水を差した気分になったあげく負い目を感じる羽目になる。


 選んだのは誰もが知る児童文学の実写映画だ。僕も知っている。

 コーラとポップコーンを買って席へと向かったが、公開から一月以上経過しているためか人気(ひとけ)がなく、がらんとしていた。コートを脱いで指定された席に腰をおろす。

 左のポップコーンに手を伸ばし、何回か噛み砕いていた。口の中の水分が奪われていき、完全に乾いてしまわぬうちに右に置いてあるコーラを手に取り、つーっと極力音を立てぬようにストローで吸い上げた。


 音をたてないようにするのは、客に迷惑がかけるからだけではない。魔女に出会うのが嫌なのだ。自分から譲歩案を提示したが、できれば魔女に会いたくない気持ちは健在である。


 ただ、冷静になってみれば、六つのスクリーンがほぼ同時に映画上映をしている。魔女が現れたとして、僕のいる四番スクリーンに現れるとは限らない。彼の頼みが実現する確率は低いだろう。なら、いつも通り楽しめばいい。


 映画が始まっても左右が空席のままだった。

 こういう日の映画鑑賞が好きだ。決まって父を思い出す。

 小学生の頃、休日はいつも父と映画館で映画を鑑賞した。数年前から父が入退院を繰り返し、その日課は止まってしまったが、左右が空席のなか映画をみていると、あの頃に巻き戻った気分になる。


 未だ魔女らしき人物は現れない。もしかしたら別の映画館にいるかもしれないし、実在しないかもしれない。

 ふぅと背もたれに身を任せると急に眠くなってきた。どうしてだろう。よほど魔女を恐れたのだろうか。顎に手を当て考える。

 勉強とアルバイトの両立で疲れが溜まっているんだろうか。


 映画館は暖房がまわっているのか暖かく、物語の序盤が終わる頃にはうとうとしてきた。意識が遠退くなか、膝の上に置いてあるコートを眺めていると父の声が聴こえるような気がした。「私はね――」と。




 気配を感じて薄く目を開けると、左の肘置きに手が置かれていた。その小さくて黒い手は父のものじゃなかった。


 隣に誰かいる。

 コキッと首をならしながら頭を持ち上げると、まず黒のレザー手袋を視認したあと赤のコートが目に入る。

 さらに目線をあげ、スクリーンの頼りない光源でもわかる黒いマフラー、そして艶やかな黒髪をみることができた。顔はわからないが、黒髪とそれらの服装は魔女の特徴だ。


 ……この人が魔女。


 僕の視線に気付いた魔女は、首をかしげて黒髪を揺らした。小動物みたいなふっくらとした頬があり、その可愛さを打ち消すほどの暗く重い目がついている。

 目線を手元に移したあと、もう一度見上げて魔女の表情をうかがっても、ただ無表情に僕をみていた。

 まるで僕が起きるのを待っていたみたいだ。


 やがて魔女はぷいっと正面を向いてスクリーンに視線を戻したので、一度は気のせいだと僕は俯いた。なのに、魔女の肩が僕に触れるからわからなくなった。


 魔女の手をみていると、小学生の頃の記憶が頭をよぎる。あれは家族で映画館に行った日のこと。暗闇が苦手な妹が僕の手を握った。あの手も小さく白かったのである。ここにいるよと握り返すと、ようやく妹が笑ったのである。


 しかし、僕と魔女は赤の他人。得体の知れない相手である。妹みたく暗闇に怯える様子もない。映画に夢中になり、肩が当たったことに気付いてないのだろう。と冷静に現状分析していたはずが、僕の心には少し違う違和感が生まれ始めていた。


 手を握ったらどうなるだろう。

 何せ魔女と呼ばれているくらいだ。何か面白いことが起きるのではないか。好奇心が静かに燃える。


 視線を手元に落とし、僕は魔女の手を握ってみた。おずおずと顔を上げれば、魔女は目を#瞬__しばたた__#かせ、僕の手を優しく引き剥がすと、手袋をさっと手早く外した。

 手袋に隠されていた白い手が露になり、心臓がわずかに跳ねた。魔女が指を絡めながら僕の手を握る。鼓動が速くなって、空気に触れる頬も徐々に熱を放つ。


 だが僕の時間はそこで止まってしまった。明け透けなく言うと、期待外れであった。そこから何か起きることはなく、周囲からみればまるで姉弟のように、恋人のように手を握って映画を観ているだけ。


 何も起きない安心感と何か起こると確信めいた期待の崩壊の狭間。矛盾した心は捨てる日を間違えたゴミのごとく、ぽつねんとそこに放置されていた。

 呆然とスクリーンを眺める。


 この映画は、この薄暗い空間は、必ず終わりがくる。映画館とは、始まりと終わりが決まっている場所だからだ。ゆえに、この好奇心にも終わりが来る。僕の意思に関係なく、無遠慮に。


 不満が体内に沸き上がってくる。

 友達が許せない。こんなくだらない噂を大袈裟に話して、しかも僕にいかせるなんて!


 映画館の魔女の正体がこんなにも退屈であることを、友達は知っていたのだろうか。知っていたとしたら、今頃僕はからかわれているに違いない。その姿を想像するだけで腸が煮えくり返り、頭がくらくらした。


 この魔女も魔女だ。凡人の極みである。

 怪しげな雰囲気を放っておきながら、退屈な結末を用意したことを恨まざるを得ない。これがもし映画だったら総すかんを食らった視聴者がネットで酷評を垂れ流すところだ。


 でも、怒りはそこまでなかった。噂として広められていることには同情する。

 魔女が魔女と噂されるような言動を取らなければいいだけの話だが、きっとそんなシンプルじゃない心情があるのだろう。入退院を繰り返していた父に、また映画館に行こうと約束したことが僕にもあるように。


 思いを巡らせると、好奇心が徐々におさまってきた。それでも父のことを思い出して物悲しくなってしまい、ストローを噛んで誤魔化した。


 突然、お腹の鳴る音がした。おそらく魔女だった。きゅるぅ、と再び音が鳴るのでちらりとみると、不機嫌そうに顔をしかめていた。


「た、食べていいですよ」


 と囁き、ポップコーンに目配せする。魔女の返事はない。塩味です、と僕が続けると強く手を握られて痛かった。握り返して反撃するも、魔女の鋭い眼差しに気圧され、牙を抜かれた虎みたく押し黙る。


 魔女は僕の手を握る反対の手でポップコーンを摘んだ。その左手に指輪が光っている。「それ……」と言ったが、魔女が映画に集中している様子なので噤んだ。目蓋を下ろして映画が終わるのを待っていると、僕は眠気に襲われた。



 魔女が手を離したことで再び目を覚ます。スクリーンにはスタッフロールが流れていたが、魔女は立ち上がり、すたすたと歩いて出ていった。

 僕は小さく伸びをして、視線を落とす。解放された手が湿り、ほのかに熱い。


『見知らぬ人の手を握るなんて不審者同然だ』

 脳内に湧いて出てきた正論に溜め息がこぼれる。

 ポップコーンはすでになくなっていたので、コーラだけ全部飲み干してから、コートを着て映画館を離れる。


 外は雨が降っていた。傘を買って帰らないと、と鞄で雨を凌ぎつつ隣のモールまで走った。


 モール内はほとんど人がおらず、歩を進めたが、すでに閉店している店も多かった。

 視界の先で警官らしき人が話していた。相手は女子高生のようだ。

 時刻は午後九時をまわったところだ。十時までに帰宅しないといけない決まりになっているので、警官は僕たちのような一人でうろつく高校生に、今から帰って間に合うかどうか尋ねる必要があるのだろう。平凡な高校生らしい外出理由を知りたがる、と言い換えてもよい。


 僕は目線を下げ、コートの襟を掻きあわせるように制服が露出する部分を隠す。

 ひとりの警官がこちらを見て目を細め、通りすぎることを躊躇させた。気まずいし寒いし、マフラーを持ってくればよかった。


 近くにあった便利グッズを物色して様子をうかがっていると、背後から「待った?」と肩を叩かれた。

 魔女だ。視界の隅で警官の瞳がいっそう鋭くなった気がして動揺すると、魔女は僕の手に紅茶のペットボトルを持たせた。ほんのりと暖かい。

「帰ろっか」と魔女は優しい微笑みを向けた。迷い、しかし無言で頷く。


 魔女は僕の背を軽く叩いて歩き出した。平静を取り戻そうと僕はペットボトルを開けて紅茶を飲んだ。冷えた体に熱が巡り、体温を取り戻す。

 すでに警官を追い越した先にいる魔女が、黙ってこちらをみていた。警官もまた、僕を一瞥した。耐えかねて魔女のほうへ駆け出すと、濡れた革靴のせいで滑ってこけそうになる。咄嗟に片足で踏みとどまり、ほっと息を吐いた。

 警官と目が合う。


「あ、あはは……」

「……雨で滑りやすくなってるから気を付けて」

「き、気を付けます」


 その後、警官は女子高生のほうに目を向けてこちらをみようとはしなかった。僕を見過ごしてくれたのだろうか。

 魔女に駆け寄り礼を述べると、魔女はお詫びだと言って歩く。何の詫びかは不明だった。

 その後、モール内をぐるりと回る。傘を買いたいと言おうとしたが、早足で進む魔女を引き留めることができなかった。


 警官のいない玄関をみつけると、魔女が先に外に出た。僕もあとに続こうとするが、どしゃ降りの雨が歩みを躊躇わせる。玄関から一歩出ればずぶ濡れになりそうだ。視線を横に向けると、魔女は赤い傘を開き、一緒に入れとばかりにこちらをみて待っている。


「二度も庇ってあげないよ」

「……」

「魔女めあての、怖いものみたさなんでしょ? よほど暇なんだね。ま、学生は暇か」


 黙殺した。たとえ警官からの疑いの目をそらすことに協力してくれたとしても、もう映画は終わった。あの好奇心は戻らない。


『そもそも好奇心なんて馬鹿げている』


 心の声の言うとおりだ。僕はいったい何を期待したというのか。

 魔女に出会う前の恐怖心が体内に戻りつつあり、加えて迂闊だったという後悔の念が渦巻く。


「だんまり、か。図星のくせに」


 魔女はその名の通り、妖しく歩み寄る。後ずさりすると腕を掴まれ、いよいよ気味が悪くなった僕は小さく唸る。離せという意を込めて睨めば、魔女は薄い目を向けながら傘を傾ける。傘から滴る雫が首に落ち、背中へと伝って寒気がした。

 頑なに口を開かない僕に、魔女は白い溜め息をこぼす。


「若いっていいよね。怖さを知らないんだから」


 心底困った魔女の表情をみた瞬間、憐れみという感情が内にぽこぽこと沸き上がり、迷いが生じる。

 暫し考え込み、「頼まれただけ」と僕が口を開くと、魔女は目を細めた。


「何を」

「噂の事実確認」

「誰から」

「友達。噂の情報源はこのへんの高校生が使うオープンチャット。僕は入ってない」

「それで頼まれただけ、ね。……わたしがその情報使ったら、あなた裏切り者になるかもよ」


 幼稚な友達のことより、魔女が噂の被害者であるようにみえたことのほうが気がかりであった。先ほどの発言と表情が全て演技なら完敗だが、情報を共有する意味はあるだろう。


「好きにすればいい」

「そっ。で、どうする? 帰らないの?」


 耳元で囁かれる声は熱くて、寒気を感じる僕には心地よい。父のいない冷えきった部屋を思い返す。

 帰りたくない。浮いてきた思いを、恥じ、爪を立てるように拳を握り、腹の底に沈める。

 この恥知らず。正気じゃない思考は、寒さのせいだ。朝から体調が優れないせいだ。好奇心の二の舞になる前に幻想は捨て置け。


「……電車で帰る」


 だから離れろ。震える唇を動かし、そう牽制する。丁寧語を使わなかったのも、返答にあえて間を置いたのもそのためだ。

 けれども魔女はこともなげに「ん、わかった」と頷いて耳元から離れた。

 強引に傘のなかに引き入れられ、僕が手を振りほどくと、今度は僕の額に手をあてようとするので睨み付ける。苦笑いを浮かべながら魔女は手を離した。


 駅に向かって歩き出す。街灯らしき街灯もない道で、車のライトだけを頼りに歩いた。


 映画館の席とは反対の立ち位置になっているせいで、傘をもつ魔女の左手の薬指がよりはっきりとみえた。車のライトに照らされて魔女の左手にある指輪が瞬き、僕の頭は疑念が渦巻いて落ち着かない。何度か魔女に目線を送って尋ねようとしたけれど、暗いせいか無反応である。

 不意に肩が当たると、魔女の手の温もりを思い出してしまい、ついに問いただすことはできなかった。諦めて魔女から目を逸らした。


 駅に近づいてくると、ようやく明かりがポツポツと現れて眩しかった。途中交番を横目にみて、まもなく駅に到着した。

 魔女は歩みを止めて傘を閉じる。沈黙した空気が気まずく、魔女に頭一つ垂れてから、自ら進んでガラス扉を押して構内に入る。振り返ると、ガラス扉を通してみえたのは湿った視線だった。黒い瞳が揺らめいていたようにみえて、逃げるように背中を向けた。



 そこからはよく覚えてない。目を開けると、なぜか離婚してから一度も会っていなかった母がいた。風邪を引いて動けない状況だと連絡があり、急遽母の家に僕を連れ帰ったという。


 魔女が母に連絡を入れたのか気になったが、魔女のことを聞かれるのが嫌だし、風邪がつらくて聞ける状況でもなかった。

 学校を休んで病院に行き、数日寝込んだ。薬を飲んで熱はすぐに引いたが、関節痛と倦怠感が抜けなくて布団から出られない。父の見舞いにいく予定も先延ばしにせざるを得なかった。

 父の家に帰ると何度か言ったが、うわ言と受け取ったのか、母は黙って僕を看病し続けた。


 学校では噂に関する注意喚起が行われたらしかった。僕の学校だけでなく、近隣の学校全般に行われたらしい。母曰く、妹が通う中学校でも同様の話があったそうだ。


 一週間が経ってもなお空咳は続いていたが、授業に遅れないために登校した。母のもとにいる気まずさもあった。


 登校すると真っ先に友達に呼び出された。当然、魔女についてである。会えなかった、と言うと友達は怒った。

 あの注意喚起の原因が、お前以外誰があり得るんだと。確かそんな感じのことを言っていたが、僕がずっと黙り続けるので、友達はそれきり話しかけてこなくなった。

 僕は何もしてないし、誰にも話していない。おそらく学校に対応を求めたのは魔女本人。僕の名があがらないのは、魔女が特定を避けたためだろう。であれば、僕の口からは何も言えない。


 ただ、僕があの日のことを誰にも話さずいるのは、別の理由があるように思えてならない。


 良心が働いたのか。この喉に詰まる何かのせいなのか。皮膚が焼け、剥ぎ取られ、骨や臓器が顕になる。そんな恥辱を受けないよう、必死に口を閉ざして喉が圧迫感に苦痛を覚えるような……、そう、世間で言う黒歴史と呼ぶこの気持ちが邪魔するせいかもしれない。


 はたまた、例の好奇心なのか。


 今になってわかるのは、あの日の僕が恐怖と興味の揺れを、自分のことでありながら他人事のように見向きもしなかったということだ。男子が女子と話す姿に冷ややかな目を向け、学校の女子には目を合わせて話そうとすることすら嫌っていた僕が、魔女に心が揺れ動き、直視していた。この奇妙さに遅ればせながら気付いたわけである。

 いずれにしてもおかしな話である。虫のいい話とでも言うべきか。とにかく僕はだんまりを決め込んだ。



   ○



 父の見舞い日、朝から集中治療室に入ったと連絡があった。

 祖父母が先に病院に行ったらしく、登校していた僕は早退して病院に向かった。

 不思議と焦りはなかった。異様に落ち着いていて息を切らすこともなかった。冬にしてはかなり暖かいのに、汗一つ流れない。


 頭のなかでは、助かったのだろうかと考えていた。

 父の見舞いに行って映画の話になったら。魔女のことを思い出したくないと憂鬱になっていたのだ。父の見舞いがなくなったことで僕の不安はなくなった。ある意味、救済された気がするのである。

 そんなことを考えると心はより興奮から離れ、冷めていった。



 病院に到着すると、涙をさめざめと流す祖母の姿があった。刹那、僕の顔は湯気が出そうなほどの熱に包まれていく。


 祖母をみてみろ。あれが正常な人間の反応だ。それに比べて、僕はどうだ。父の心配より自分のことを考えてなかったか? そんなの、ダメだ。最低な人間の考えることじゃないか!

 爪が皮膚に食い込む痛みを凌駕し、怒りで打ち震え、目を閉じる。


 脳裏は、しかし雨音が迫っていた。

 冷たく無機質なそれは、体温を奪い、同時に腹の底に眠る熱を引き出すかのように打ち付けた。

 突如、雨音が弾かれて静かになる。

 面をあげれば赤い傘の下、深紅に染まる魔女の頬と唇があった。僕の熱い顔に触れた手の向こうで卑しく笑み、――まずい。


 あの日の記憶が目の裏から飛び出し、鮮明に起こされていく。目を開けて手を開くが、すでに熱を帯びて湿り、頭もボーッとして何も考えられなくなっていた。ああ、と絶望の溜息がこぼれる。


 父はついに帰ってこなかった。その事実を知ってもなお涙は出ない。溜息さえ出ない。

 僕は涙を流す祖父母の背中をさすった。自身を取り戻したい。魔女からの呪縛を解きたい。これすら不埒な考えというなら、誰か息の根を止めてくれ。


 祖母の背中をさすりながら、病院の隅に闇を見た。魔女の瞳が僕を見下ろし、今にも這い出てきそうであった。全てなかったことにはならないと諭すように、させまいと責めるように。

 黒い瞳にあてられて、初めて涙がこぼれ落ちた。


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