埋火一禄は陰謀論者
十月半ば、空気が冷える。
昼休みに、担任の命令によって強制的に開けさせられた窓を、女子生徒が閉める。
担任は換気の必要性を熱心に説いているのだが、それよりも洟をすする音をどうにかして欲しいというのが大半の学生の願いだった。昼休みというのは昼飯時なのだ。
そんなことをしているから、本日一年三組担任の平泉教諭は風邪で欠勤。いつもの癖で開け放っていた窓を、閉めたのだ。
「センセ体だいじょぶかな?」
「もう還暦近いからね……本人は三十代って言い張ってるけど」
「鼻水やばそう」
「それな。寝たら自然と枕を濡らしそうだよな」
「きったね。風情のかけらもねえな、それ」
キャッキャと騒ぐ、陽キャの集団。三組には、三つほど陽キャの集合体が存在する。
二つが教室の教卓側で寄り集まって放課後の予定や部活での近況などを請われるでもなく伝え合う。
まるで、互いの行動を逐一把握して、逃散を牽制する五人組のようだ。良き隣人のように振る舞っていても、いざとなれば密告讒言もためらうことはない。
埋火一録にとって、腹に一物も二物も、下手をすれば百八くらい物を詰め込んでいるような彼らは、敬遠の対象であった。
軽蔑ではなく、敬遠だ。
裏にどのような闇を隠していても、それを内に封じ込めてキラキラ輝いている彼ら彼女らを、いち陰キャとして尊敬している。
だが、彼らは気づいていない。
この世には、想像を絶する陰謀が渦巻いていることに。
渦巻く陰謀は蛇のごとく狡猾に、蒙昧なる世の民を飲み込み、喰われたことに気付かぬまま胃酸で消化され、闇と一体化するのだ。
(陰謀の存在に気づいているのは私だけしかいない……さて、どうしたものか)
「……くん。ねえ」
(そもそも、平泉教諭の病気だって、本当に風邪か怪しいものだ。正体不明の病状は、なんでも風邪にされてしまう……邪悪な風潮ですね)
「ねえってば。聞こえてる?」
(はっ! そうだ……平泉教諭の下の名前は堀麿……ルーツは公家だと仰っていましたね。公家、朝廷に出仕し、権謀術数と排他的風潮の中で培われてきた協調と対立……ま、まさか)
「……もう、無視しなくてもいいじゃん」
「アンタさ、いい加減に」
「これは陰謀です!」
声を張り上げて、埋火は立ち上がる。
そこで初めて、二人の女子に気がついた。
「陰謀……?」
「まーた始まった」
片方は首を傾げ、片方はやれやれとため息をつく。
「血と死と罪の穢れを嫌う潔癖症の公家にとって、たとえ直接手を下さずとも、自らの指示で政敵を屠るのは厭うべきこと。それなら指示を出さずとも勝手に忖度して動いてくれる手下がいればいい。そう考えた彼らは、『黒柊』と呼ばれる者どもを飼いました。平泉教諭は、彼らに命を狙われているのです!」
「へー。それはすごいね」
「うんびっくり」
「これは大変です……明治維新によって太政官制は廃止され、彼らの行き場もなくなりました。主を失えば、もうそれは暗殺技術を持つ危ない集団です。それも、かなり思い込みの強い」
「アンタに言われたくないと思うよ」
「このままでは、教諭の命が危ない! どうしたものか……」
埋火は頭を抱えた。
そして、思い出したように二人の女子学生に目を向ける。
「ところで……宇津木さんと堀北さんは、私に何か御用で?」
「用が無かったら話しかけないわよ。ねえ?」
「そんなことないよ」
吊り目で気が強い、健康的に日焼けした女子学生が宇津木龍歌。バスケ部所属で、運動神経は男子学生にも負けないと豪語している。バスケはともかく、腕相撲では負け知らずだと、埋火は知っている。
もう一人は堀北神流。クラスの学級委員の一人だ。クラス随一の美容を誇り、それを鼻にかけない気さくな態度で、大層な人気を博している。普段から世界の闇を憂い、精神的に余裕が少ない埋火ですら、その華奢な腕にはどきりとさせられるくらいだ。
本来であれば永遠に関わり合うことのない二人だが、男子の学級委員が休学中で、急遽埋火が代行することになった。他に委員会に所属せず、部活にも加入せず、暇そうにしているのが彼くらいしかいなかったのだ。埋火は、これもまた陰謀だと思っている。
「社会科準備室から、これを職員室まで運んでおいてくれって先生に頼まれたんだけど、男子の手が欲しくて。いいかな?」
完全に私用を押し付けられている。学級委員とはかくも損な役回りなのだ。
平泉教諭のことは気になるが、与えられた役目を放り投げるのもよくない。
『黒柊』のことは、後からその筋の人間に聞くことにして、堀北について行くことにした。
「ごめんね、こんな雑用頼んじゃって」
「神流が謝ることないでしょ。悪いのは押し付けてきた先生なんだし。それに……」
歩きながら、顎に手を当て必死に考えこんでいる埋火を指さす。
「全然気にしてる様子じゃないし」
「たしかに」
社会科準備室に来た。
指定された段ボールを、あれやこれやと積んで、持ち上げる。
「アンタ、意外と力あるじゃん。そんなひょろっこいのに」
「某集団が政界を乗っ取って軍国主義が復活した時のために、体を鍛えてるんですよ」
「あっそ。まあ、どんな理由でも体を動かすのはいいことだしね」
いかにも快活なスポーツ少女らしいことを言って、大量の段ボールをひょいと持ち上げる。大岩のように安定した、微塵も不安を感じさせない姿勢だ。段ボールで視界が完全に封じられているはずなのに、危なげなく階段を降り、職員室までたどり着く。
終末世界では、宇津木さんに頼ろうと、埋火は思った。
「手伝ってくれてありがとね」
「どういたしまして」
「それで、この後なんだけどさ……」
「言われずともわかっていますよ。平泉教諭の病の真相を突き止めなければいけませんね」
「え」
「相手は平安時代から律令の陰で謀殺を担ってきた集団……宇津木さん、堀北さん、立ち向かう覚悟はおありですか」
「ないよ。あってたまるか」
「えっとね、そうじゃなくて」
「わかりました。これ以上、彼らの好きにはさせておけません。こんな微妙な時期に担任交代なんて、面倒くさいですからね」
「かなり俗物的な理由だった⁉」
「共に、戦い抜きましょう」
静かに燃える闘志は、昼休み終了のチャイムにかき消された。
「やば、授業始まるじゃん」
「急いで戻らないと。埋火くん、行こう」
「ほ、放課後に旧校舎前に集合しますよ!」
「無理! 今日は部活あっから!」
そう言いあって、駆け足で教室に戻ったのであった。