扉の向こう側
ババフィンアはゆっくりと昼食を食べ終えると、階段を降りてオードラス・ジグスのいる留置所まで向かっていた。既に部下に頼んで洗脳の前段階は済ませてある。冷酷な看守長は唾を一滴飲み込むと、黒い軍服の襟を正した。彼の背後には護衛として二人の部下が続いている。
「お前たちは手を出すな。オードラス・ジグスは全て私の手で作り変える」
「承知しました」
ババフィンアは歪んだ期待で胸がはち切れそうだった。しかし「2-2」の留置所の扉を開けた瞬間、生気を失って固まった。
「なんだと……?!」
オードラス・ジグスはいるはずの留置所はもぬけの殻となっていた。
☆☆☆
ババフィンアがまだ昼飯を食べているころ、キーオーとシュライダは留置所の扉の前に立っていた。鍵穴に差し込んだ鍵をゆっくりと回し、音を立てないように慎重に扉を開ける。中は明かりがなく、暗かった。
「……叔父さん?」
暗い部屋のなかでうずくまったままの人影をキーオーは見つけた。二人が部屋に入ると、血や吐瀉物、尿が混じったような悪臭に襲われた。建物自体は新しく無臭なのに、この部屋だけが強烈な悪臭である。
人影は答えなかった。その代わりに恐る恐るこちらに振り返った。ツナギのような囚人服を着て、身体はやせ細っている。しかしその顔は紛れもなく、キーオーがずっと会いたかった人物の顔だった。
「……キーオーか?」
「うん、叔父さん。俺だよ、キーオーだよ」
叔父さんは信じられないと言わんばかりに驚いた顔をした。アムチャットで別れた甥と、遥か遠く離れた地球の反対側のスライノア監獄で再会することになるとは。首を横に振って感慨にふけりながら、
「よく来てくれた」
と言って目に涙を浮かべた。
シュライダは青髪の叔父と甥の再会に、ライクンが自分を助けに来てくれたときのことを重ねていた。オードラス・ジグスも苦痛の中で救われたという思いと、肉親や仲間との絆に安堵しているはずだ。シュライダは叔父さんを縛っている鎖の拘束を解くと、ベストに描かれたジークの国章を彼に見せ、小さく敬礼して言った。
「ジーク王国軍大佐。シュライダです。キーオーと一緒にあなたを助けに来ました。詳しい経緯は後ほど説明します。とにかく今はここから出ましょう」
「シュライダ……。ジークの赤い兄弟か?」
叔父さんはさらに驚いた様子で目を見開いた。シュライダは頷くと、そのまま叔父さんの肩に手を回し彼を支えた。すると叔父さんは、
「大丈夫だ、自分で歩ける」
と言って立ち上がった。その姿はかつてのように威厳に満ちてはいたが、頬は痩せこけ、髭と髪が伸び放題だった。
「叔父さん、すごく痩せているけど」
心配そうなキーオーに叔父さんは優しく答えた。
「王都を出てから何も食べさせてもらえなかったからな。だが問題ない。なに、もともと太り気味だったんだ。ちょうどいいダイエットになったさ」
叔父さんにはもうジョークを言えるくらいの余裕が生まれていた。3人は静かに留置所を抜け出すと、リータとチェクのいる中央看守室まで戻った。
☆☆☆
「何だこれは……。何が起こった」
絶望によって削られた溝に怒りが注ぎ込まれていくのをババフィンアは感じていた。部下たちはその殺気に何も口を出せない。
「私は確かにここにオードラス・ジグスの洗脳に来たはずだ。だが奴はいない。何かの間違いか?」
「すぐに看守たちに探させます」
震えながら答える部下に対し、ババフィンアは一喝した。
「お前たちも探しに行くんだ! それからすぐに警報を出せ、わかったな」
「承知しました!」
「私は特捜部に応援を要請するため看守長室に戻る。オードラス・ジグスを見つけたら殺して構わん」
「はっ!」
部下たちは急いで駆け出し、ババフィンアも早足で看守長室に戻った。監獄の出入り口を全て封鎖するよう指示したあと、通信室に向かい、アイリス少尉に電報を打った。アイリスとルークの乗った特捜戦艦がまだ近くを飛んでいるはずだ。少ない看守だけでは、この広い監獄をすべて調べることは不可能である。
ババフィンアは怒りと緊張で拳を震わせながら、特捜部からの返信を待った。よりによってオードラス・ジグスが脱獄するとは。なるべく大ごとにはしたくなかったが、スライノア監獄の実態が世界中に知られるのはまずい。
脱走が発生した事実をババフィンアは王都の連邦軍総本部やライア国務参与には報告しなかった。特捜部の手は借りるが、できる限り内密にいかなくては。そうしないと自分自身の首も飛ぶ。
ババフィンアは首をぐるりと回してリラックスすると、看守長室に再び戻り、腰の短銃に弾をこめはじめた。




