聖なる山の麓
『ムバイル』。キーオーを助けた人々は自分たちの事をそう呼んでいた。その名は古い言葉で『生命、生き物』を意味する。彼らには「人間」という概念も、「国家」や「民族」という概念もなく、自然の一部として社会から離れて暮らしてきた。
ムバイルの人々は巨大な洞窟を住処にしていた。山岳地帯の地下に空いた空間は、彼らが掘ったものではなく自然と生まれたものだ。その洞窟はまるでアリの巣のように細かく分かれ、天井の穴から入る太陽の光と、壁一面に光る鉱石のおかげでいつでも明るかった。
アムチャットにいたとき、キーオーは叔父さんからムバイルの話を聞いたことがある。彼らが暮らすような洞窟はかつて世界中に広がっていたが、幾多の大戦でその多くは滅びてしまった。しかしラザール皇族ですら『聖なる山々』と称えるシルーテル高原とその周りの山岳地帯は、戦火を逃れて今日までその暮らしを現代に残している。つまりここは古代大戦前の暮らしが残る奇跡の山なのだ。
だが、一方で連邦領民の多くはここに住む人々のことを見下していた。市井の人々は「野蛮人」の代名詞としてムバイルという言葉を使っていたし、有識者たちは「保護」の対象として隔離して「観察」するように訴えていた。さらにムバイルの人々も他の国民とは交流を持たず、外での争いごとには無関心を貫いていた。そのため連邦とジークの戦争が始まるころには『ムバイル=世界から取り残されたもの』というイメージが強くなっていた。
キーオーを抱きしめたのはそんなムバイルの首長の孫娘、アーサだった。アーサは落ちつきを取り戻して涙をぬぐうと、
「あなたには死相が出ていたから……」
と言い、少し距離をとった。
「驚かせてしまってごめんなさい。私はアーサ」
彼女は両手を額の上にのせると、親指と人差し指で三角形を作った。これがムバイル独特の挨拶らしい。
「キーオーです。助けていただいてありがとうございます」
二人は自己紹介を済ませると、アーサはキーオーを助けた経緯を話した。
三日前の朝、キーオーは山岳地帯の中腹に瀕死の状態で倒れていた。アーサは薬草採りの最中に彼を見つけ、担いで自分の家まで運んだという。キーオーの傷は深く、薬草で応急手当をしたもののアーサは死を覚悟していた。無事に傷が癒えたのは奇跡のようだと彼女は赤くなった目をこすりながら言った。
「本当はムバイルの掟で行きずりの者を助けてはいけないのです。しかしどうしても傷だらけあなたのことを放ってはおけなくって……」
キーオーはそう言うアーサの右頬が、手のひらの形に赤く腫れていることに気づいた。ムバイル民は保守的で、掟を守らない者には厳しい。たしか前に叔父さんがそう言っていた。アーサは罰を受けてまでもキーオーを助けてくれたのだ。
「傷が癒えるまではここにいても大丈夫だと、お祖父様からお許しをもらいました。だから安心してください」
アーサはキーオーが持っていたムバイルのイメージを大きく変えた。今まで出会ったどの女性よりも彼女は美しかったし、優しくて芯が強かった。
「本当にありがとうございます。貴女がいなければ俺は死んでいました」
キーオーは最高の敬意を深いお辞儀で表した。アーサは元気になったキーオーを見て嬉しくなったのか、微かに笑った。
「ふふふっ、そんなに畏まらなくてもいいですよ。さあ、食事にしましょ」
アーサは一度、暖簾の外へ出てくとお盆に二人分の食事をのせて戻ってきた。『アステュンク』(熊のような生き物)の肉を蜂蜜につけて食べるムバイルの伝統料理『ガステュ』である。ガステュは甘さと食べ応えを両立させた不思議な味で、キーオーはそれをアーサとおしゃべりしながらゆっくり時間をかけて味わった。
アーサは19歳でキーオーより3つ年上だった。しかしお淑やかで年下のキーオーに対しても敬語を崩さない。キーオーはますます、そんなアーサに惹かれていった。
「アステュンクはときどき蜂の巣の中で死んでいます。彼らは主に蜂蜜を餌にしているけれど、ムバイルの蜂の毒は強力で返り討ちにあってしまうこともあります。私たちはアステュンクが負ければその肉を、蜂たちが負ければその蜜をかき集めるんです」
「なるほど。だからムバイルの人たちは誰も殺さずとも生きていけるんですね」
「はい。人に殺されるのと不慮の死は違いますから。人間だからといって食べるために命を奪ってはならない。命に優先順位なんてないんです」
アーサはアステュンクに蜂蜜を絡めると、手を口に当てて上品に咀嚼した。
「ムバイルでは命は全て同じものだと教えられます。私の命もキーオーさんの命も、虫も鳥も草花の命も、全て同じ命から形が変わったものだと考えているんです。動植物と人間、民族や国、それに性別や年齢なんて境界は勝手に人間が作ったもので、そんなものはこの地球が生まれた時にはなかったはずなんです」
キーオーにはアーサの言うムバイルの教えが素晴らしいものに感じられた。この考えが広まれば世界から争いはなくなるはずだ。
ガステュがなくなるころにはキーオーとアーサは打ち解けていた。キーオーはお皿に蜂蜜を残さぬよう、アステュンクの肉で拭き取るように蜂蜜をつけると最後の一口までしっかりと味わった。
「ごちそうさまでした。すごく美味しかったです」
「そういってもらえるととても嬉しい。作った甲斐がありました」
そう言うとアーサは微笑んだ。そして空になった皿をお盆にのせると、
「片付けてきます。またすぐ戻ってきますね」
と言って暖簾の外へと出て行った。キーオーはムバイルやアーサのことが好きになった。しかし同時にゴウロン号で離れ離れになったミュートやラッセルたちのことが気になりはじめていた。それに叔父さんに面会をするため、早く王都のアバンチュール弁護士にも会わなくてはいけない。
キーオーがそんな思いからザックの荷物を整えていると、暖簾の外からアーサと男の口論が聞こえてきた。この部屋に入ろうとする男をアーサが必死に止めているようだ。
「待って、御祖父さま。あの方は危険な異分子ではありません!」
「黙れ、アーサ。それはわしが決めることだ。やはり掟には従っておくべきじゃった」
アーサの悲鳴のあと、暖簾の奥から白髪に髭を生やした年配の男が現れた。そしてキーオーを見るなり、嫌悪の表情を露わにする。
「終末の光が放たれ、武器を持った異国の戦士たちがムバイルの領地に入り込んだ。奴らは貴様が招いたに違いない。神の裁きを受けてもらおう」




