真夜中の波音
その夜、キーオーは眠れずにいた。アムチャットにいた頃は叔父さんと一緒に旅に出て、世界を変えたいと思っていた。
しかし故郷も叔父さんもすべて失い、遠く離れたゼ・ロマロで残酷な現実を目の当たりにした。幼いファーフは貴族に妾として買われ、逆にリスルは誰にも買われないことで涙を流すほどに苦しんでいる。それにジャックは軍人に憧れ、喜んで戦場に出ようとしている。バンクスだって、本当は子供たちをこんな目に遭わせたくないはずだ。それなのに偏屈な社会の仕組みのせいで、ここにいるみんなは不幸を不幸と気づかないまま一生を終えようとしている。
あれほど嫌だった露命の教えが今は少しだけ分かる気がした。キーオーは自分のちっぽけさを痛感したのだ。だが同時に世界を変えられなくてもいいから、たった一人の人生だけでも救いたいとも思った。叔父さんとの約束を破ることになってしまうが、今はここでリスルを救いたい。
キーオーはベッドの下のザックから麻袋を二つ取り出した。一つはあの青い宝石の入った袋。そしてもう一つはアムチャットの料理「オルロン」の材料が入った袋だった。二つの月明りの下でキーオーがある決意をすると、外から波音に混じって足音が聞こえてきた。「コンッ、コン」と杖をつく音もしている。
孤児院の外に出ると、リスルの影が見えた。月の方角に向かって歩いている。その先には波しぶきがかかる、あの切り立った崖があった。
「リスル! 何してるんだ?!」
キーオーの声にリスルは足をとめた。彼女は俯いたまま、小さく振り返る。
「またあんたなの……。いつまで起きてるのよ」
「リスル、馬鹿なことはよせ!」
キーオーはリスルを刺激しないように言った。今日は波音が大きく、叫んでも声がバンクスやジャックにまで聞こえることはないだろう。今誰かを呼びにいったら、間違いなくリスルは岸壁に身を投げる。
「あんたに何がわかるの。私はもうこの世で役目が果たせそうな最後の希望を失った。このままみんなの世話になって生きるなら、今日ここで事切れた方がましなの!」
「そんなことはない! どんなに辛くても、生きてれば必ず小さな幸せに巡り合える。リスル、聞いてくれ、俺はアムチャットの出身だ。この俺の髪と瞳の色は、極北・極南の少数民族にしか出ない遺伝的特徴だ」
「移民の子でしょ。それがなんだっていうのよ」
「違う、俺は移民じゃない。連邦軍に村を焼かれて、この街に流れ着いた。父さんも母さんも叔父さんも、許嫁だった女の子も、みんな殺された。目覚めた時には敵国のど真ん中で、俺はベッドに寝かされていた」
キーオーはリスルにすべてを話してしまった。リスルはキーオーの真実に驚き、口と目を見開いた。
「俺は怖かった。いつか自分の正体がバレて殺されるんじゃないか。村も家族も、何もかも奪った連邦にいつか俺の怒りが爆発して抑えられなくなるんじゃないか。そうやっていろいろ考えて、毎日怯えていた。叔父さんや許嫁の子がいないのなら、死んだ方がましだとも思った。
でも、君やジャック、バンクスのおばさんや孤児院のみんなに出会えた。暖かいお風呂に入って、美味しいごはんをまた食べることができた。もちろん今でも連邦は憎い。それに時々、村のみんなが恋しくなることはある。だけど生きていれば、細やかかもしれないが幸せはまたやってきてくれる。だから生きよう、今がどんなに辛くても」
キーオーの言葉にリスルは顔をくしゃくしゃにした。涙も涎も、もう枯れ果てで出てこない。でも心にはじんわりと温かいものが湧き出すのを感じていた。それはずっとリスルが忘れていた、人を信じた時にだけ現れる、信頼の温もりだった。
「うっ、ううぅ……ごめん、ごめんなさい……」
リスルは膝から崩れ落ち、顔を覆って声をあげた。キーオーはそっと近づき、涙がでないまま泣く彼女の背中を撫でてあげた。二つの月の下で、そうやってしばらく時は流れた。
☆☆☆
「いつか、キーオーにも見せてあげるね。私の足のなりそこない」
玄関の石段に二人で腰掛けながら、リスルは言った。初めて近くでみた彼女の横顔は、月明りに照らされていることもあって、とても美しかった。
「えっ、でも、それって……」
キーオーは慌ててそれ以上言葉がでてこなかった。リスルは小さくと笑って、
「ふふっ、なに慌てているの?」
と聞いた。キーオーは顔を真っ赤にして、「なんでもない」と首を横に振る。リスルの言葉が純粋に「足を見せる」以外に意味を持っていることは、なんとなく察しがついた。太ももの付け根にある足のなりそこないを見せるということは、当然その周りも晒すことになるからだ。キーオーは青年らしく乱れた呼吸を戻し、深く息を吸ってから気を取り直して話始めた。
「そうだ、リスル。君に見せたいものがある」
キーオーはそう言って二つの麻袋を取り出した。まず大きな方の袋を開くと、中から小さな白い木の実を指でつまんだ。
「オルの実だ。連邦でも年中採れる。君たちはこの実をどうやって食べる?」
「オルの実でしょ? ケーキにトッピングしたり、ナッツと一緒にオートミールにいれたりするね」
「そうだね、それが普通の食べ方だ。でもこいつは長く日陰に放置しておくと発酵して粘り気が出てくる」
「へえ、そうなんだ」
「アムチャットではそれを足で踏みつぶし、生地にしてオーブンで焼く。『オルロン』っていって、パンよりもはるかに柔らかく、ケーキよりも後味がいい。はっきり言って、飽きがこないしすごく美味しい。でもアムチャットではオルの実が貴重なのと、すごく手間がかかるから、祝いのときにしか食べさせてもらえなかった」
「手間がかかるって、どういうこと?」
「3時間くらい、ずっと片足だけで生地を踏みつける必要があるんだ。足を交互に組み替えると、生地の温度がかわってオルロンが固くなってしまう。俺の父さんや母さんはそれでいつも苦労していた。もしも優れた筋力を持つ足があるのなら、最高のオルロンが作れるのにって」
「優れた筋力を持つ足?」
「うん、君の右足だ。リスル」
キーオーの言葉にリスルはハッとした。その表情をみたまま、キーオーは続ける。
「俺と一緒にオルロンの店を開かないか? この味が普及していないゼ・ロマロでも、絶対に売れる自信がある」
リスルは思いがけない言葉に唇をかみしめた。そうしないと、またあの温かい気持ちが胸からあふれそうにある。
「でも私たち二人で孤児院を抜け出すことはできないよ。バンクスさんにも迷惑がかかるし……」
「大丈夫。俺が、君と俺自身を買う」
「買うって、貴族たちだって出し渋るほどの大金なのよ。それも二人分なんて。そんなお金どこにあるの」
そう反論するリスルに対し、キーオーは小さいほうの麻袋から青い宝石を取り出して言った。
「この宝石をお金に替えるんだ」




