復讐の左フック
麗らかな春の日。今日も真理子は居眠りしていた。真理子は船を漕いでいる。
数名の佐々木ゼミでは、一人の女学生が発表をしていた。
講師の佐々木が、女学生にアドバイスしている。
坂口良平は、真理子を肘でつついて必死に起こそうとしていた。
それに気づいた佐々木が、真理子を指名する。
「原さん。次のページ訳して」
真理子は、相変わらず居眠りしている。高いびきまで始めた。
坂口が真理子の肩をゆすって起こそうとする。
「起きてくれよ」
痺れを切らした佐々木が、大声をあげる。
「原さん! 原さん! 起きなさい!」
真理子は、目を覚まし、ガバッと立ち上がる。
「お母さん。ご飯、お代わり」
どっと笑い声が起きる。
一方の真理子は、キョトンとしている。
講師の佐々木が厳しい口調で語る。
「毎回私の授業で居眠りなんて、いい度胸だな。廊下に立ってなさい!」
坂口は頭を抱える。
真理子は、バツが悪そうに教室を出ていく。
廊下の窓からは、葉桜が見える。
真理子は、廊下に立つと、春眠暁を覚えず、だったかしらなどと考えていた。すると、また睡魔に襲われ、廊下の壁にもたれかかり、居眠りを始めた。
終業のチャイムが鳴る。
それでも真理子は起きない。
講師の佐々木が教室から出てくる。真理子をみつけると、
「原さん!いいかげんにしなさい!」
真理子は尻もちをついて目を覚ました。
その光景を見ていた坂口は、目を手で覆った。
昼休み、学食は大勢の学生でごった返していた。
二年前に改装した学食で、値段も安く、学生たちに人気がある。
真理子と坂口がテーブルに向かい合ってすわる。
「真理子。最近、ほんと、だらしないぞ・・・」
「だって眠いんだもん」
真理子は、カレーを物凄い勢いでパクつく。
坂口は呆れ顔である。
「高校の時より、だいぶ太っただろう」
真理子は、カレーを喉につまらせる。
「八キロ太った」
「・・・」
坂口は、真理子の小学校時代からの同級生である。私立の東西学園でエスカレーター式に、二人とも、小中高大と一緒に進学した。
そして高校時代に二人は付き合うようになり、腐れ縁が続いている。
「あたし、お代わりしてくる」
真理子は、皿を持って、カウンターへと向かった。
坂口は頭を抱えている。
真理子の家は、二十三区内にある二階建て住宅てある。
父は、大手総合商社に勤める商社マン。母の明美は、専業主婦である。
真理子は、二階の自室でベッドに横たわり、テレビを見て笑っていた。
室内は、ペットボトルとポテチの袋が、散乱している。
ドアが開いて、母の明美が、入室する。
「あんた、授業中、居眠りしてたんだって? 先生から連絡あったわよ。あと、宿題のレポート忘れないでねって」
真理子は、コーラをラッパ飲みしながら、リモコンでテレビのチャンネルを変える。
「ちょっと真理子! 聞いてるの!」
真理子が明美を見て、
「お母さん。何か言った?」
明美は両手を組んで、
「真理子。あんた最近だらしないわよ。しばらくしたら就活なのよ。しっかりしてちょうだい」
明美は、ドアをバタンと閉め退室する。
真理子は、テレビを見ながら大爆笑している。
明くる日の学食も、相変わらず学生で混み合っていた。
カウンターでいつものように、真理子は、カレーを注文した。
「おばちゃん。カレー大盛り!」
「はい。カレー大盛りね。いつも、ありがとね」
店員がカレーをよそう。
食事をトレイに乗せ、真理子は坂口のいる座席に運ぶ。
座席には、坂口と佐野洋子が座っていた。
洋子は、真理子の小学校以来の友人である。お互いに恋の打ち明け話などをしてきた仲だ。
坂口と洋子が、じっと下を向いている。
ただならぬ雰囲気を真理子は感じた。
「あー、お腹すいた。カレーだ。カレーだ」
真理子は、カレーの乗ったトレイをテーブルに置き、坂口と洋子の反対側の席に座る。
「あれ。どうしたの? ご飯たべないの? 二人とも」
坂口が重い口を開ける。
「真理子。ごめん。実は、俺たち、付き合うことにしたんだ」
洋子が涙声で話す。
「隠してたみたいで、ごめんね」
真理子が、スプーンを床に落とす。
「・・・」
無言でスプーンを拾う。
「本当にごめんね。真理子」
洋子はハンカチで目を覆う。
坂口が話す。
「おまえ。高校の時と随分変わっちまっただろう」
真理子は笑顔で、
「そうだよね。私、大学生になってから、だらしなくなって、こんなに太っちゃたんだもん」
洋子は涙を流しながら、
「真理子。ごめんね」
「いいのよ。洋子」
真理子は坂口の方を見て、
「坂口君。洋子、いい子だから大切にしてあげてね」
「ああ」
無言の食事が始まる。
食事を終えると、坂口と洋子が、席を立つ。
「じゃあね。真理子」
真理子は一人取り残されて、カレーに手をつけようとしない。
外の天気は、晴れから、小雨に変わった。
真っ暗な自室で、ベッドに横たわり、真理子は、布団を被っている。
ノックの音がする。
「真理子。ご飯よ」
明美が真理子を呼ぶ。
「・・・」
「真理子どうしたの?ご飯たべないの? あけるわよ」
ドアを開け、明美が入室する。
「電気もつけないで、どうしたの?」
明美が部屋の灯りをつける。
真理子の様子を見て、明美が尋ねる。
「何かあったの?」
真理子は、半身を起こし、
「お母さん。実はね・・・」
明美は、ベッドに腰掛け、真理子の頭を撫でる。
「仕方ないよ。気にしない。気にしない。綺麗になって、いい男、見つけなさい」
泣きながら、真理子がうなずく。
「うん」
次の日の日曜日。
雑居ビルの一階に、ナカジマボクシングジムはあった。ミット打ちの音が聞こえる。真理子は、恐る恐るジムの門を叩く。
受付けには、ジャージ姿の二十代と思われる男性がいた。真理子に気付くと、
「電話で入門体験の予約をくれた子だね。更衣室で着替えてきてくれる。
「はい」
真理子は、不安げで、更衣室へと入っていった。
ジャージに着替え、真理子が、更衣室から出てくると、トレーナーに声をかけられた。
「バンテージを拳に巻こうか」
トレーナーから、バンテージの巻き方を教わるが、不器用な真理子は、なかなかうまくいかない。
「いきなりだけど、ミット打ち、やってみようか」
真理子は、グローブをつけ、トレーナーの持つミットにパンチの嵐をくらわす。
「くそっ! 坂口! 裏切り者!」
トレーナーが、リングの隅に追いやられる。
「ちょっと。ストップ。ストップ」
真理子は、肩で息をしている。
トレーナーも、息を切らせて、
「君。才能あるよ。本格的にやってみない」
「いえ。私、痩せたいんです。痩せて、私をフった男を見返したいんです!」
トレーナーは、愛想笑いを浮かべ、
「次。サンドバッグ打ち。やってみて」
真理子は、サンドバッグの前に立ち、呼吸を整える。
「畜生! 坂口! 死ね!」
真理子は、サンドバッグに、パンチの雨あられをあびせる。
激しい音がし、汗が飛ぶ。
他の会員たちも、ギョッとして真理子を見つめる。
やがて、サンドバッグが破れ、砂がこぼれ落ちる。
小太りの会長も、それを見て、
「君。才能あるよ。今度試合出てみない」
「いえ。私。スリムな体を取り戻したいんです」
会長は、笑顔で目を細め、
「そう。我々も応援するから。頑張ってね」
「はい。よろしくお願いします」
真理子は、ゼエゼエいいながら、頭を下げた。
約半年。雨の日も風の日も、学校が終わると真理子は、ジム通いを続けた。
真理子は、モデルのようにスリムなり、自室の等身大の鏡の前でポーズをとる。
後ろで、明美が見守る。
「・・・よく頑張ったわね」
真理子は、チラシを手に持ち、明美に見せる。
「お母さん。今度の学祭のミスコンに出場してみようと思うの」
「そうね。挑戦してみなさいよ」
明美は、目を細める。
東西大学。学園祭・講堂。
ステージ上に、真理子と十数名の出場者たちが、水着姿でならぶ。
真理子が、群をぬいて目立っている。
司会者が結果を読み上げる。
「第二十回東西大学ミスコンテスト。優勝者は、十二番の政治経済学部三年、原真理子さんです」
会場に拍手が起きる
真理子は感激のあまり泣く。
「!」
そこへ、坂口が、花束を持って現れる。
「おめでとう真理子。洋子とは話しあって別れた。もう一度やり直そう。なっ、真理子」
しばし沈黙が続く。
真理子は、坂口の右脇腹に、左フックをおみまいする。
坂口は、その場に崩れ落ちる。
会場は、どっと沸いた。